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食べ物小説

止まり木味噌汁、梅雨のそら

 世界広しとはいえ、味噌汁の具が原因で婚約破棄された女なんて、おそらく私ただ一人だ。


「最初はね、ジャガイモ入りの味噌汁なんてあり得ないって大激怒。それで翌日出したキャベツ入りで部屋にこもって、とどめはモヤシの味噌汁で大爆発」

 年季の入った木の机に頬を押しつけて、私は目を閉じる。

 6月に入って以降、めっきり梅雨冷えだ。足下にすうすう流れてくる風も、その風で冷やされた机も、湿ったような香りもどれも心地いい。

 蒸し暑い梅雨よりも、冷え込むほうがずっといい。

「辰也を試してた……ああ、辰也っていうんだけどね、そいつ。そうそう、その辰也を試したってことは認める。どこまでやれば、あいつが怒るのかなって」

 木の机は一枚板のカウンターテーブルだ。

 カウンターの向こう側に立つ女性が、愛らしく小首を傾げて私を見つめてくる。

「どれも美味しいのにねえ。んー……まあ、スタンダードじゃないかもだけど」

 しかし彼女の手は忙しそうに動き続けていた。カウンターの下にあるキッチン台で、彼女はネギを刻んでいるのだ。とんとんとんとん、小刻みに聞こえてくる音が心地いい。

 その音を聞いていると辰也の怒りに震える唇や、尖った目のことはどこか遠くに消えていった。あの怒りの声も、すっかりすっかり遠い過去のものだ。

「いいこと教えてあげる、聡ちゃん。そういう場合は毎日毎日段々と、変わった具を入れていくの。それでね、その具を増やしていくのよ。だいたい男の人は気づかないから」

「私もママくらい気が長ければよかったんだけど」

「気が長いのじゃないの。意地悪なのよ私」

 ママは小さな口を押さえて笑う。ころころと響くような気持ちのいい笑い声だ。

 このママの本名を、私は知らない。ここ、『喫茶・止まり木』のマスターでありコックであり経営者だ。きびきび動く小さな体にきちんと整えられた短い髪は幼くも見えるし、相当年上にも見える。

 私は、彼女のことを何も知らない。

 最近お気に入りの喫茶店のママ、天候と料理と古い音楽に詳しいママ。私が知っている情報は、それだけだ。

 でも聞き上手の彼女の前に座れば、彼女の年齢や本名なんてどうでもよくなってしまう。

「つきあっている間は大人しくて優しくていい人だと思ってたんだけどね。立て続けに三日、辰也の納得できないお味噌汁出した結果、怒鳴り散らして机を、どーんて」

「殴ったの?」

「そう。とんだDV野郎だった。で、別れた。振られたんだけど。で、婚約解消。婚活は、最初からのやりなおし」

「結婚前に分かってよかったじゃない。味噌汁のおかげね」

「まあ言われてみれば、そっか」

 シミ一つないマグカップの縁を指でなぞりつつ、私は木のテーブルに耳を押し当てる。でこぼこと穴のあいたこのテーブルからはいろんな音と香りがする。

 遠くで誰かが話している囁き声が、波のように響いて伝わってくる。ママの切るネギの音が優しい音で響いてくる。

 音に包まれているようだ。

「……実は、ちょうどそのとき、隣の家のおばあちゃんが亡くなって」

 目を閉じると浮かんでくるのは、目の前で怒鳴り散らす辰也と床に散らばり絨毯に吸い込まれる哀れな味噌汁。そして隣の家から聞こえてくる読経の声だ。

 なんともシュールな光景に、私は悲しみよりも怒りをこらえるのに必死だった。

「モヤシのお味噌汁は、おばあちゃんに教えてもらったんだよね。だからそれで悲しくなるより先に、腹が立っちゃって」

 私の部屋の隣で一人暮らしをするおばあちゃんとは、ほとんど喋ったこともなかった。彼女の過去も未来もなにも知らない。彼女に教えてもらったのは、モヤシの味噌汁が美味しいということだけだ。

「いいおばあちゃんね」

「確か雨の日のスーパーで……」

 私は湿った空気を見上げて思い出す。

 窓をたたく雨の音が一段と大きくなったようだ。最近は雨が激しい。

 そうだ、たしかあれもこんな雨で冷え込む日。私はおばあちゃんと、スーパーのモヤシ売場で出会ったのだ。

 仏頂面でカートを押す彼女は、私を斜め下から鋭い目で見上げて、

「今日はモヤシ、雨の日特価で安売りだから買っておきな」

 なんてぶっきらぼうに言い放った。

 使い道がないからと言い訳する私のカゴにモヤシを山のように押し込んで、味噌汁に入れるんだよ。と、吐き捨てるなり彼女は丸い背を向けた。

 それから以後、なんとなく健全なお隣様関係を築き、それから半年で彼女は逝った。

「……このお店、不思議」

 私はコーヒーを一口飲んで、ぼうっと顔を上げる。

 遠くから聞こえてくる雨音が耳に優しい。

 カウンターの向こう、ママの使い勝手がいいように整えられたコンロや、壁一面に飾られたカップが美しい。

 壁にかけられた、『止まり木』という看板が古くさくも愛らしい。店の中いっぱいに広がる、コーヒーの香りと出汁の香りが心地いい。

「あら、そう?」

 ママは大きなお玉で手元の鍋をかき回しながらほほえむ。

 店内には数名のお客さんがいるけれど、みんな新聞を読んだり本を読んだり自由気ままだ。隅っこでこんな風に喋っていても、誰も咎めないし怒らない。

「だってママ、メニューが」

 ママは机の上に置かれた古びたメニューを横目でみる。癖のある手書きで書かれたメニューにはコーヒー、紅茶にコカコーラ。カレーにピラフに『本日のお味噌汁』。

「お味噌汁が名物の喫茶店ってなかなかないよ、ママ」

「……ほんとはね。最初はね、お味噌汁屋さんだったの。珍しいでしょ。亡くなった夫がお味噌汁大好きだったから、お味噌汁とおにぎりと、あとコーヒーだけ。でもだんだんとお客さんが増えてね、ケーキも食べたい、アイスも食べたい、オムライスも、カレーも食べたいってなったから」

 どんどんメニューが増えていったの。と、ママは小さな唇をとがらせて笑う。

「でもだめね。味噌汁だけはメニューから外せないの。だからずうっと、看板メニューはお味噌汁」

 不思議といえば、常連らしいお客さんが少ないことも不思議だった。こんなに落ち着くお店なら、カウンター席は常連さんでいっぱい。そうあるべきだ。

 しかし顔なじみになったお客さんも、数日もすれば居なくなる。一週間前隣に座ったおじさんは、「だいたい皆、一ヶ月くらいでこなくなるよ。入れ替わりの激しい場所だしね」と、寂しそうにそういった。そしてそのおじさんも、三日前からもう見ない。

 駅近にあるお店とは、こんなにも寂しいものなのだ。

「……雨続くなあ」

「はい。おまたせ」

 遠くに響く雨の音を聞きながら、うっとりとまどろむ。そんな私の前に、暖かい湯気が広がった。

「お豆腐とネギたっぷり」

「ほっとするでしょ。雨冷えの日は」

 大きなお椀に注がれたお味噌汁は、上を一面に覆う緑のネギが目にまぶしい。一掴み以上、たっぷりだ。

 お箸でそうっとネギをよけてみると、上澄みの澄んだ出汁が食欲をそそる。その底に沈んだ、ごろごろカットのお豆腐が私の喉を鳴らす。

 混ぜると味噌の濃厚な香りが鼻を刺激した。

「好みで七味も振ってね」

 ママのお味噌汁に惹かれて私は毎日のように通う羽目になる。



(……休業一ヶ月。暇だしやることもないし)

 止まり木から家に帰って眠って翌朝。起きあがった瞬間から私は憂鬱になる。

 私は現在、一ヶ月の有給消化という贅沢な身分だ。 

 一ヶ月の休みを取ったのは、なにも男と別れたショックからではない。別れて数日後、雨に足を取られて会社の階段から滑り落ちたのだ。

 頭を打ったので人生ではじめて入院となり、そのまま念のための長期休暇となった。よほど器用に頭を打ったのか、そのあたりの記憶は曖昧だ。ふわふわとマシュマロの中を歩くように(おそらく)退院して、(たぶん)休業をとって家で安静にしている。

 嬉しかったのは最初の数日。一週間もすれば飽きてしまった。

 ただ眠るばかりも飽きてしまったし、本もテレビも面白く無い。だから気分転換に散策をした。会社へ行く道を気まぐれに曲がって折れて地図も見ずにふらふらと。

 角を三回くらい曲がっただろうか。急に雨が降り出した。驚いて木陰に逃げ込んだ時、道の向こうにママの店を見つけたのだ。

 最初はよくあるレトロな喫茶店だと思った。何の気もなく雨宿りで立ち寄った薄暗い夕暮れ時。中にはいるとコーヒーとたばこと、出汁の香りがしたことを覚えている。

 BGMもなにもなし。みんなが低くおしゃべりをする声と、雨が窓をたたく音。いろんなものがない交ぜになった湿った香り。

 机に置かれたアンティークなキノコのランプ。銀のお盆。そしてメニューに輝くお味噌汁の文字。なんだかすべてにノックアウトされてしまって、私は店のファンになった。

 その店に通えば通うほど、日常はどんどん色あせていく。みんな働いているのに私だけ宙ぶらりん。やることも目標も、結婚相手もなにもない。

(自分に価値が、ないみたい……そうだ)

 だから私は思うのだ。

「止まり木に、いかなきゃ」



「こんにちは」

 時計の針がゆっくりと夕刻に向かう頃。私は自然な顔を装って、止まり木の重い扉を押す。入ったとたんに広がる香りを胸一杯に吸い込むと、ママの声が聞こえた。

「あら、聡ちゃん、いいところに」

 ママは珍しくもカウンターの外にいる。隣には細身の男性がひとり。おじいさんだが、背はしゃんとして真っ白なシャツを小粋にきこなした男性だ。

 彼は深くかぶった帽子を軽くとって、私に向かって頭を下げる。

「こんにちは、お嬢さん」

 どこかの会社の経理を数十年やって定年したばかり。そんな空気をまとう人だった。

 私もつられて頭を下げる。

 たしか数週間前から止まり木でよく見かけるようになった人だった。いつもエアコン下にある小さなテーブルで、美味しそうに冷たい氷入りコーラを飲んでいるおじいさん。

 数日前、一度だけ話しかけられたことがある。

 味噌汁をすする私に「そろそろ茄子のお味噌汁がでますよ」と、重大なことのように囁いて去っていった。そんな、変わったおじいさんだった。

 毎日コーラを飲む彼を私は知っている。彼もまた毎日味噌汁を飲む私の姿を知っている。

 喫茶店の常連同士というのは不思議な関係だ。名前も知らない素性も知らない。でも、食の好みは知っている。 

「おじいさん、こんにちは」

「今日はすてきな梅雨の合間ね」

 おじいさんの声は、柔らかい。目のしわをきゅっと深くして彼は笑う。

「お嬢さんに迷惑でなければ、お願いしたいことがあるのだけど」

「この人がね、猫、探しに行くから誰かにつきあってほしいって……私はお店があるし、聡ちゃん、一緒にいってあげてくれない?」

 おじいさんは細い肩をちょこんと下げて私を見上げた。

 私は思わずほほえんだ。ほら、止まり木にくれば憂鬱な気分なんて吹き飛んでしまうのだ。



「猫ちゃん、行方不明なんですか?」

「そうそう。ずっと探しててねえ、やっと場所を見つけたんだけど、猫ってあれでしょ。夜の集会。あれじゃないと出てこない。夜ってねえ、なんか寂しくって怖くって……一人でいくのが、ね」

 夜になるまで止まり木でコーヒーとコーラを飲んだあと、私は名前も知らないおじいさんと連れだって町に繰り出した。

 オフィス街が林立するこの町は、夜になっても明るくてうるさくてにぎやかだ。駅に向かう人、オフィスに戻る人、ぷらぷらと酔いをさます人。

 先ほどまで降っていた雨は小降りになってやがて止み、今はほつほつと細い滴が降るばかり。傘に飽きた人々は、だれもかれも手ぶらで浮かれて歩いている。

 なるほど今日は金曜だ。最近はすっかりと曜日の感覚も薄れてしまった。

「探しにきてくれるなんて、猫も嬉しいでしょうね」

「といってもうちの猫じゃないのよ。家の近くのノラちゃんでね。毎日挨拶してたんだけど、ある時にふっといなくなっちゃって。こんな悲しい思いするくらいなら飼ってあげればよかったんだけど、あの子は野生の子でね……」

「どんな猫なんです?」

「猫にしてはとんでもなく大きくて、キジ猫の……耳が立派で堅太りでね、しっぽは短いの。でも大柄なくせに気が弱くって……」

 おじいさんはゆったりとした口調でしゃべり、ゆったりとした歩調で歩く。私の歩調にあわせてくれているのだ、と気づいてその優しさが不意に染みた。

「縄張りの外になんて出ちゃったらほかの猫に虐められてるんじゃないかって不安で、不安で」

 一歩二歩。歩いておじいさんは私の顔をのぞき込む。

「ごめんなさいねえ。こんな爺さんの遊びにつきあわせて」

「いいんです。私、猫好きだし。私も……さみしかったので」

 私はじゃまになった傘を腕にかけたまま、うつむく。ふと、昼間のことを思い出したのだ。

「あら。寂しかったの?」 

 優しい声のトーンに、私は泣きそうになる。鼻の奥がつん、と痛くなる。それを堪えて、笑ってみせた。

「……会社でみんなから無視されちゃったんです」

 昼のこと。なんとなく思い立って会社に足を運んだのだ。一ヶ月の有給はまだ残っている。しかし本当に休んでていいのか、私の仕事は無事に回っているのか、不安になった。情けない話だが、これでも仕事人間だったのだ。

 そっと覗いた懐かしのオフィスビル。横を通り抜けた同僚、先輩、後輩に上司。不思議とみんな私をみない。私服だったせいもあるかもしれないし、髪を切ったせいもあるだろう。それでも見事に私は全員から無視をされた。

 そもそも私の働く会社は、休みに寛容ではない。病気休暇を取った人への冷たい態度をこれまでたくさん見てきた。それを受ける立場になった、それだけのことだ。

「もっと寂しくなるかと思ったけど、私もなんだか、みんなの顔を忘れちゃってて……お互い様かな」

 おじいさんはじっと私の顔を見る。細い目がふっと、ゆるんだ。

「そんなものなのかも、だねえ。不思議なことにね、こうやって偶然出会う人との方が思い出が深まったり、覚えていたりするんだよね。袖振りあうも……じゃないけれど」

 おじいさんはゆっくりとビルの間を進み、やがて小さな公園にたどり着く。

 こんなビルの合間にあるなんて、不思議なくらいの公園だ。誰も使っていないいくつかの遊具と、雨ざらしのベンチ。子供の姿なんてどこにもない。ここで子供が憩う姿も想像がつかない。

 サラリーマンは忙しげに足早に、公園をショートカットに使っている。

 おじいさんは私を手招いて、ベンチにハンカチを一枚置いて、その上に私を座らせた。

 彼が若い頃はずいぶんもてただろう。もう顔も思い出せない狭量な元婚約者を、私は心の奥に押し込みなおした。

「ノラちゃんね、ここの公園で見かけたの。まだいないみたいだし、ちょっとここで待ってましょう」

「……止まり木に行ってよかったな。こんな冒険が出来るし、ママからこんないいものもらったし」

 私は胸に抱いていた紙袋をのぞき込む。そこには、ラップとアルミで包まれた大きな固まりと使い捨てカップ。その中には、サンドイッチとあつあつのお味噌汁が入っている。

 膝の上にそっと広げると、ゴマの入ったふわふわのパンのサンドイッチだ。中に詰め込まれているのは、くったり煮込まれた茄子の煮付け。

 茶色のパンに、紫の茄子。間には、水気をとるためにたっぷりの鰹節、合間には細切りの大葉も見えた。

 崩れないように気をつけて大きな口をあけて、かみしめる。

 柔らかいパンの向こうから、じゅわっと広がる茄子の甘みと大葉の爽やかさ。それが消えてしまう前に、味噌汁をすする。

 味噌汁には小さくきった茄子に、小さくまとめられた鳥の肉団子。肉団子には山椒の実が小さく刻んで混ぜ込まれていて、それがぴりりと喉を刺す。雨上がりに心地よい味だった。

「……パンに味噌汁って意外にあう」

「だってパンも主食だもの」

 にこにこと私を見つめていたおじいさんも、大きな口を開けてサンドイッチを噛みしめる。

 このお弁当は二人で猫を探しにいくと決めたとき、ママが用意してくれたのだ。猫を探す大冒険には、お弁当が必要だと。

 こんなにも心安らぐお弁当に、私ははじめて出会った。

「お茄子のサンドイッチ。僕大好きなんだよねえ」

「茄子の味噌汁と」

「そろそろ美味しい季節でしょう、茄子も。だって、夏だもの」

 味噌汁は少し濁って少し重くて、ごま油の香りがぷんと漂う。その重さがおなかの底をあたためる。

「……本当は、夏って大嫌いだったんだよねえ」

 おじいさがため息混じりにつぶやいた時、私の視界にふいによぎる影をみた。

「あ、猫ちゃん!」

 それは茂みから突如、飛び出した。猫としては大柄だ。耳がとんでもなく大きくて、目はオリーブみたいなきれいなグリーン。しっぽは立派な鍵しっぽ。

「ノラちゃん」

「気づいた! 早く捕まえて」

 おじいさんは猫をみたとたん、立ち上がった。よろけそうになる彼の体を支えて、私は思わずその背を押す。

 猫がこちらをみたのだ。その目は最初警戒していたが、やがて優しいものに変わる。

 猫は一度だけ、おじいさんをみて小さく口をあけた。離れていても小さな歯が見える。猫はこれ以上ない優しい声で、一声鳴いた。

「おじいさん、はやく……」

「……いいの」

 しかしおじいさんは、動かないのだ。きゅっと手のひらを握りしめたまま、猫と数メートルの距離で見つめ合う。やがて猫は静かにおじいさんから背を向けた。

「……顔の傷みたでしょ。あの子、このあたりのボスなんだねえ。あんなに気が弱かったのに。すっかり男らしい顔になってる」

「おじいさん……」

「元気にやってるのを見たら、もうじゅうぶん」

 おじいさんは、にこりと笑う。さきほどまで彼にまとわりついていた陰鬱な気配だとか、落ち込んだ表情だとかが全てきえて、白い肌がつやつやと輝く。おじいさんは私の手をぽん、となでた。

「……ありがとう、聡ちゃんさん」

「聡ちゃんでいいよ」

 ぽつぽつと、また雨が降る。それはノラちゃんの隠れた茂みや私たちにも降り注ぐ。

 ……そして、おじいさんはその日から、止まり木に来なくなった。



「おじいさん、来なくなっちゃったねえ」

 そろそろ梅雨が終わりかけるころ。有給期限はすでに終わって、すでに一週間がすぎようとしていた。

 明日には行こう、明後日には行こう。そう思っても足が動かない。電話もかかってはこない。幾度かオフィスまで近づいたけれど、やっぱり足が動かない。

 不思議と、悲しくはない。だから私は毎日この店にきてしまう。

「いいのよ。ここは止まり木の喫茶店だから」

「……止まり木」

 コーヒーの最後の一口をすすり飲んで、私はつぶやく。なんて、すとんと収まる言葉だろう。そうだここは止まり木だ。

「みんな、ここで休んで次に進むの。お味噌汁を飲んでから。聡ちゃん、今日はコーヒーだけでよかった?」

「うん、今日はちょっと用事が……」

「今日はジャガイモのお味噌汁なんだけど」

 席を立とうとした私を出汁の香りが引き留めた。

 そうだ。止まり木の味噌汁にはそんな不思議なパワーがある。立ち上がりかけた腰を、私は再び椅子の中に押し込めるのだ。

 目の前に置かれたお椀は、ただの茶色の出汁が揺れるばかり。

 ネギもない。七味もない。そうっと箸でつつくと、ごろりとした力強い感触が指に伝わってくる。

 ああ、ジャガイモだ。ジャガイモのお味噌汁だ。元婚約者を激怒させて以来、ご無沙汰になっていたジャガイモの味噌汁だ。

「元婚約者の話、したから?」

「それもあるけど、じゃがいものお味噌汁って美味しいじゃない?」

 まずは汁をすすり、そして箸でジャガイモをつつく。

 驚くことに、お椀の中に沈んでいたのは一個まるごとのジャガイモだった。

「一個まるまる……これって、おでんの?」

「ほくほくで美味しいでしょう」

「おいしい」

 口にいれると、味噌汁とはまた違った甘い味が広がる……ああ、これは、おでんだ。

 おでんのために煮込まれた甘くてほろほろとしたジャガイモが、味噌汁の中に沈んでいる。なんて贅沢なんだろう。なんて優しい味なんだろう。

 きっとこんなに美味しい味噌汁でも、元婚約者は許さなかったのだろうな。と私はほくそ笑む。あいつは、味噌汁に口さえつけなかったのだから。

 なんてもったいない人生を歩んでいる男なのだろう。

「ありがとう。すごく美味しかった。でも今日はちょっと用事あるから帰るね。数日くらい、こないかも。心配しないでね」

 味噌汁をじっくり堪能したあと、お金を払って席をたち、私はまだ明るい外に出る。

 梅雨あけ宣言はまだだが、最近は時折雨が止むこともあった。雨が止むときまって暑くなる。蝉の声もまもなく聞こえるだろう。

(さて……)

 私は店を出て数歩。通りを歩く振りをして、そのあとすぐさま止まり木の見える木陰に身を潜めた。

 気分はスパイか探偵だ。頭の中に、遙か昔にみたスパイ映画の音楽が鳴り響く。

(この店は……とても不思議で)

 外からじっくりと店を見ると、不思議な気分だった。大きなビルとビルの間にある古くさい雑居ビル。その一階にぽつんとある店。

 外観は古くさいレトロな喫茶店そのもので、磨り硝子にはコーヒーメーカーのポスターが貼られている。

 外には止まり木、と書かれた広告スタンド。枝と葉っぱが書かれたおしゃれなデザインのそれには、さりげなく青い鳥の模様も描かれている。

 夕刻になるとそれがぽうっとオレンジ色にそまり、その前をサラリーマンが行き来する。

 不思議と、忙しそうな人たちはその店に気づかないように通り過ぎていく。それでも1時間に一人か二人、ふっと足をとめるのだ。

 だいたい、道に迷うようにふらふら歩く人たちばかり。

 彼ら彼女らは、「ああ。こんなところにお店が」なんて顔で木の扉を押していく。扉が閉まる直前に、ママの「いらっしゃい」の声が聞こえて途切れていく。

 オープンはゆっくり目の昼11時。夜はちょっと遅めの19時30分。暑い木陰で汗を拭いながら私は三日、止まり木を見つめ続けた。

 ママは10時前にはやってきて、看板を出す。時々トラックが止まって、食材をママに渡す。11時をまちかねるように常連がやってきて、時々迷い人みたいな新規の客が入っていく。

 クローズの時間がくるとママが出てきて看板のコンセントを抜く。そして私服に着替えたママが、鍵を閉めて帰って行く……。

(ああ、ばかみたいだ。そんな非現実的なこと、あるわけないのに)

 三日後、私は木陰に腰を下ろしたままだらだら流れる汗を拭う。

この三日間で仲良くなった鳩が、気安く私の前を通り過ぎていった。

(無駄な三日を過ごしてしまった……)

 私はふと、思ったのだ。ここは不思議な喫茶店だ。

 まるで現実味がないし、ここに来ると私も現実を忘れることができる。常連客もみんな地に足が着いていない人ばかり。

 だから思ったのだ。とても馬鹿らしい考えだが、ふと頭によぎってしまったのだ。

 ……彼らは、本当に生きている人なのだろうか……などと。

(三日あれば三杯は、美味しいお味噌汁が飲めたのに)

 タオルを首に巻いたまま、私は諦めて木陰から身をおこす。それはちょうど夕刻のランプがともるころ。

 スタンドに書かれた青い鳥の模様を軽くなでて、私は木の扉を思い切り押し開けた。

「あら。探偵ごっこはもう終わり?」

 途端、迎えてくれたのはママの笑顔だった。数日ぶりにみる笑顔はまぶしくて、それだけで嬉しくなる。

 照れながらいつものカウンター席に座れば、ママは慣れた様子で私の前にコーヒーを差し出した。

「はい。今日はアイスね。顔、真っ赤になってる。暑かったでしょう」

 驚くくらい大きなグラスには、大きな氷がたっぷり。その中に揺れる黒いコーヒー。ミルクだけいれて、混ぜる間も待ちきれず吸い込むと、頭がきん。と冷えた。

「ばれてた?」

「ずっとそこにいたの見えてたもの」

 店に入ると包んでくれる出汁の香りとコーヒーと、そしてたばこの残り香。店の隅を見ても、エアコン下のテーブルにあのおじいさんはもういない。

 先日までスポーツ新聞を読みふけっていたおじさんも、紅茶に砂糖を山盛り入れる女性の姿ももう見えない。

 あれほどにいた常連さんは、もういない。

 今いるのは、見慣れないお客さんたちと……そして。


「よっこいしょ」


 私の隣に、小さな影が揺れる。

「モヤシのお味噌汁を作ってちょうだい。私はどうもあれが好きでねえ」

 振り返って、わたしは、固まる羽目になった。

 私のすぐ隣。丸いいすに座りにくそうに腰をおろしたのは……もう、一月以上前に、亡くなったはずの隣人のおばあちゃんだった。

「おばあちゃん」

「はいはい」

「なんでここに」

「だってここは止まり木でしょう」

 小さく丸まった背に鋭い目つき。吐き捨てるような口のききかた。

 それはやはり生前の彼女だった。彼女は真っ白な髪をきれいにまとめて、服にもしわ一つない。手にもつ杖は持ち手がつるつるになっている。その杖を膝においたまま、彼女は目の前に運ばれてきたお椀を手に取る。

 ふう。と、彼女が息を吹きかけると、ふう。と湯気が揺れる。

 モヤシと、味噌と、出汁の香りがした。

「休んだら次にいくの」

 しゃくしゃくと、モヤシを噛む音が響く。モヤシの味噌汁には火を入れすぎてはだめだ。くたくたになるのは絶対駄目だ。食感が残るように、みずみずしさを残して作ること。

 確か彼女は、モヤシ売り場の前で私にそういった。

 理想通りの味噌汁なのだろう。彼女は目を細めて、美味しそうに汁を飲む。

 おばあちゃんは、小さな目で私を下から見据えて、そしてその目が優しくほほえんだ。

「……あんたもね」

 おばあちゃんは、お金をカウンターに置くとしゃきしゃきと背を向ける。思えば、生前からしゃきしゃきとした力強い人だった。

 いつかスーパーで彼女を見送ったとき、あのときと同じ背が扉を押して消えていく。 

 ……たぶんもう、二度と会えない。

「ママ」

 からん。と扉が音を立てて閉まる。その音を聞きながら私は呆然と、カウンター越にママを見上げる。

「……勘違いしてたの」

「勘違い?」

 ママはいつも、優しい笑顔だ。彼女はおたまを手に持ったまま、私を見つめる。

 私は真っ白で冷たい手をカウンターの上できゅっと握り締めた。

 不自然なくらいに冷たい手だ。いつからだろう。そうだ、この店を見つけた時から、私の手はすでに冷たい。

「お客さんが幽霊かと思っていたの。もしくは」

「私が幽霊?」

 そう。と私はうなずく。そして、もう一度自分の手のひらをみた。

「私も、幽霊だったんだ」

 その手のひらは、何十年も見続けてきた見慣れたものだ。

 鏡に映る自分の姿もなにも変わらない。

 透けてもなければ、お岩さんみたいになってるわけじゃない。

 変わったものは私の記憶だ。

 毎日、ほんの少しずつ……私はいろんなことを忘れている。同僚の顔、上司の声、後輩の笑い声、仕事の内容、オフィスのこと、そして婚約者の顔も声も名前も、もう思い出せない。

 死んだのだ。私は死んだのだ。あのとき、足を滑らせて階段を落ちた。その時に見えた舞い散る書類だとか、みんなの驚く顔だとか、そんな事ばかり覚えている。

 そうだ。入院の記憶なんてない。

 お見舞い客の声も、顔も、記憶に無い。

 有給申請なんてした記憶もない。

 私はあのとき、死んだのだ。

「正確には、人と幽霊のあいだ。ここは半分の世界にかかった止まり木だから」

 ママはゆっくりと鍋をかき混ぜながら囁く。

 気が付けば、店内にもうお客さんは誰もいない。

「49日、人は死んだことに気づかずに、この雨ばかりの世界にいるの」

 じゅ。と、ママの手元にある鍋から香ばしい香りと音がした。

 じゅ、じゅ、じゅ。水分が煮込まれる音がする。 

「それで、どんな人でも49日のころには気がついて」

 まな板の上にある何かを鍋にいれて、ママは冷蔵庫から大きな味噌の壷を出す。

 ママがブレンドした、特別で美味しいお店だけの味。

「みんな、次に行くのよ」

 味噌を混ぜ込み、ママは大きなお椀に鍋のものをそそぎいれた

「……はい、完成。モヤシと挽き肉とトマトのお味噌汁」

 私の目の前に運ばれたその味噌汁は、細かく刻まれたモヤシとネギがたっぷりてんこ盛りとなっている。

 お箸で底をつつけば、ごろごろとしたミンチ肉とトマトが顔を出す。

 熱いところをすすれば、味噌の香りとトマトの酸味が舌の上で踊る。お肉の脂身が、濃厚だ。同時に、爽やかだ。

 モヤシをかみしめると、しゃくしゃくという音がした。

 食べながら私は、笑っていた。

「あいつが知ったら激怒どころじゃすまないかも」

「聡ちゃん、知ってる? 味噌汁って、なにを入れても美味しいのよ」

 もう今日は誰も来ないのだろう。ママは閉店準備をしながら、私を見て笑う。私はこの世界最期の晩餐を思い切り飲み込む。

「……生まれ変わりがあるのかしらないけど」

 最後の一滴を飲み終えるのも惜しいくらい、美味しい味噌汁だ。

 惜しみ惜しみ飲み終えて私は至福の息を吐く。

 てらてらと輝くお椀の底に、私の顔が映り込む。とても、嬉しそうな……幸せな顔。

「私が生まれ変わってもう一回死ぬときは、もう一回ここにくるから」

 カウンターには空っぽのお椀と、氷がまだ残るアイスコーヒー。

「同じ味噌汁を出してね、約束」

 私はいつものようにお会計をすませて、いすから飛び降りる。

 ママはほんの少し寂しそうな顔で私を見ていた。止まり木を旅立つ人は楽ちんだ。しかし見送る人の寂しさは、どれほどのものだろう。

 きっとママは、旦那さんのこともこうして見送ったんじゃないだろうか。何となく、そう思った。

「じゃあ、ママ」

「ええ、聡ちゃん」

「……またね」

 さて行こう。不思議なほどの爽やかさで私は止まり木の扉を開けた。

 その先は、光に満ちあふれている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 昔の作品に、失礼いたします。 読んでいて、お味噌汁が飲みたくなる、あたたかい物語でした。 風変わりな喫茶店、日々の暮らしにちょっと疲れてしまった人々の癒しの空間。 そんな雰囲気で読み進め…
[一言] そういうストーリーかな、と予想しつつ読み進めました。 ノスタルジックな店内に白い湯気と出汁の香りが漂うイメージが常に想像でき、読後は一杯の味噌汁を飲み終わったあとのようなちょうどいい気持ちに…
[良い点] とても温かで優しいお話でした。手の冷たさや、オフィスで無視をされた悲しさ、それらが一つの場面に収束していった時、そこへ至るまでの登場人物ひとりひとりの優しさも静かに押し寄せてきて、何だか泣…
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