1 「チロル現る」
……あれ? ここはどこ?
真っ暗でなにも見えない。あと、肌寒い。
それに、なにやら甘い香りがする。
……え、ちょっと待って。
体を動かそうとしても動かない。
ついでに声も出せない。
まさか金縛りってやつか?
ダメだ。なったことないから分からない。
ガチャッ――
突然、扉が開いたような音がした。
「ふんふん♪ ふふ~ん♪」
鼻歌が聞こえてきた。
なんだこの状況。
せめて自分がどこにいるのか知りたい。
しかし、場所を特定したくても何一つ手がかりがない。
わかることは、僕がとんでもないことに巻き込まれているということだけだ。
あれこれ考えようとしたら、急に体が宙に浮く感覚がした。
かと思えば今度はからだが揺れはじめた。
「よいしょっと」
女の子の声だ。
いったい、何が起こっているんだ。確かめたくても身動きがとれない。
どういうわけか、体が全く言うことをきいてくれない。
◇◆◇
しばらく体が揺れ続けている。もう、かれこれ十分くらい経っただろうか。
さっきよりも肌寒さは感じなくなった。
しかし、相変わらず僕の体はピクリとも動かない。
視界は未だに黒一色のみ。
声が出せないから助けも呼べない。
気づいてくれ、僕はここにいる。
ちょっと不安になってきた。
僕は……このまま暗闇のなかで一生を終えるのだろうか。
訳のわからない場所で、誰にも気付かれずに死んでいくのだろうか。
いや、それはマズイ。非常に困る。
まだ死ぬわけにはいかない。
このままじゃ部屋のベッドの下に隠してあるコレクション(あの子のエッチな秘密♡ 全8巻)が、家族に見つかってしまう。
童貞だった男子高校生が透明人間になって、同じクラスの女子にあんなことやこんなことをしちゃう内容だ。
まるで、僕にそういう願望があるみたいじゃないか(無いとは言ってない)。
僕の人権が危うい。
しかも、新刊の8巻は手付かずのままだ。
あれ?
そう言えば、たしか僕は部屋でその新刊を読もうとしていたのに、それからなにがあってこうなったんだ?
学校が終わって、帰宅してから小腹を満たそうと冷蔵庫にあった入学祝いのケーキを食べて、ベッドの下に手を伸ばして……。
ダメだ。そっから先が思い出せない。
そんなことを考えていたら、声がした。
「ふう、さすがに疲れましたね」
幼い女の子の声が聞こえると同時に、ドンッ、と音が響いた。
さっきまでの不快な揺れが止まった。
というか、いつまでこんな状態が続くのだろう。
一刻もはやく不安を解消したい。
「お元気ですか?」
僕に対して言っているのか?
お元気ですかって、んなわ――
(って、…………うおうっ!?)
目の前がいきなり真っ白になった。
いや、ま、眩しいっ。これは光だ!
ずっと暗闇にいたから、かなり強烈に感じる。
徐々に目が光に慣れてきて視力が戻ってくる。
やがて、ぼんやりと女の子の姿が見えた。
そして、目の前で女の子が言った。
「やっほー! はじめましてっ!」
美少女が、僕を見下ろしながら言った。
幼い声の印象どおり、顔つきも幼く、中学生くらいだろうか。
ただし、僕が知っている中学生とは違う。
頭の上には大きな赤いリボン。
髪は真っ白なストレートロング。その下で瞳が赤く輝いている。
ほっそりした体なのに、ハロウィンの衣装みたいな服の胸元から白い肌が盛り上がっている。
白いかぼちゃパンツがとてもキュートだ。
真っ赤なニーソはベリーグッドだった。
こんな仮装美少女を僕は見たことがない。
しかし、そんなこと気にしていられない。
これで僕は助かるかもしれないんだ。
微笑む少女。安堵する僕。
てっきり手を差し伸べてくれると思っていたら――
「ご感想なしですかっ!? 初対面なのにノーコメントっていちばん傷付きますよ! って……喋れないんでしたね」
そう言い終わるなり、少女が手鏡を見せてきた。
「これが、今のあなたの姿です」
僕は目を疑った。いや、目すらなかった。
正直、かなり混乱している。
だってそうだろ? 苺が乗ったケーキがある。
箱の中に苺のショートケーキがひとつ。
ほかに何もない。おかしいだろ。
「どうです? 驚きましたか?」
これがドッキリ企画なら大成功だ。
あまりの衝撃に意識が飛びそうだもん。
そんな僕にトドメを刺す気なのか、にっこりと笑った少女が告げる。
「あなた、とっても美味しそうですね……わたしの好みにどストライクですよぉ〜?」
一目惚れされても反応に困る。
僕はいま、苺のショートケーキである。
とりあえず助けるなり、この非現実的な状況の説明なりして欲しいのが本音だ。
少女は律儀っぽく手を合わせた。
そして――
「ってことで、いただきま〜すっ」
言ってしまった。
いや、言われてしまった。
「美味しそう」って言葉を聞いたときに、実はなんとなく予想していたんだ。
もしかして僕を食べようとしてないか? ってね。
いやいや名推理をしている場合じゃない。
これは非常にマズイ事態だ。
そうだ、僕は不味いぞっ!
どこから取り出したのか、少女の手には銀色に光るフォークが握られている。
それも、少女の身長よりもでかいフォークだった。
「果たしてどんな味がするんでしょうね〜」
無邪気に大きな赤い眼を輝かせ、小さな口からよだれを垂らしたかぼちゃパンツの少女が、グイッと僕の目の前(正確には苺部分とおもわれる)に迫ってきた。
そして、両手ででかいフォークを構えた少女の表情は、卑しくほくそ笑んでいる。
「苺は最後にとっておくとして、まずはここからっ!」
そう言って、フォークでツンツンされた。
(そ、そこはやめてくれ! 僕の股間が!)
ケーキ的に言えば、おそらく生クリームのホイップ。
僕のからだ的に言えば、股間部分を謎の美少女にフォークで突かれている。
「ほれほれ、ほれ、えいっ」
執拗に生クリーム(股間)責め。
ま、待ってくれ頼むっ。
僕の股間(生クリーム)を本気で食べちゃうつもりなのか!?
食べ物(股間)で遊ぶのは、止めるんだっ!
(じゃなきゃ、僕は……僕は――)
突然、きらきら煌めく白い粒子が僕に向かって飛んできた。
やがて、少女の姿が見えなくなるほど大量な光の粒が、完全に僕の視界を真っ白に染め上げる。
優しく包まれている感覚だ。
――と。
「ああああああああぁぁぁっ! ……あれ?」
聞き慣れた声が僕の耳に届いた。
間違いない、自分が発した声だ。
やっと僕の声がもどった!
それに、僕は立っている。
学校帰りのままの格好で、高校の制服を着ていた。
いつもの目線で、見慣れた自分の部屋に!
「そうか……。僕はようやく戻ってこれたんだ!」
からだの至る箇所を確かめるように触ってみると、正真正銘、自分の意思で動かせる僕自身の体そのものだった。
すかさずベッドへ駆け寄り、その下に手を伸ばす。
「あった……! よかった……僕は救われた」
懐かしい本の感触。
コレクション(あの子のエッチな秘密♡)たちも、どうやら無事みたいだ。
ふう、これにて一件落着。
……というわけにはいかなかった。
「ありゃりゃ、残念です。魔法が解けちゃいましたか」
魔法? 背後から少女の声が聞こえた。
さっきまで僕(苺のショートケーキ)を食べようとしていた、仮装少女の声だ。
「じゃあ……僕は本当にケーキになっていたのか……?」
ここは、現実世界なのか、それとも悪い夢なのか、問いかけるようにつぶやいた。
「なってましたよ? ほら、この箱に入ってたんです」
まさか信じられない。
ゆっくりと恐る恐る、声がした背後を振り返った僕。
またしてもそこで意味不明な現象が。
「……うえっ!? ちっちゃ!」
思わず叫んでしまった。
部屋の中央に置かれた机の上。
そこには、ケーキ箱に乗った、手のひらサイズの仮装少女が立っていた。
手には僕が普段使うような、普通サイズのフォークが握られている。
もうダメだ。
なにが成りやら理解できそうにない。
「全くもって失礼しちゃいますっ! 初対面の相手に『ちっちゃ!』とは。もっとも正確には、わたしたち初対面じゃないんですけどね」
箱の上にフォークを置いた少女。
音もなく箱の上から降りると、白くて長い髪をなびかせた。
「あ、あの……君は何者なんだ?」
渾身の質問をしてみた。
「よくぞ聞いてくれました! 今日からあなたに寄生させてもらう寄生魔――おかしの魔女、チロルですっ!」
いや待て、なにそのファンタジー用語。
「寄生? 寄生魔? 魔女? チロル?」
僕はいつまで正気を保てるだろうか。
知らないうちに手にしていた本を床に落としていた。
それを拾う気力は、ない。
たった今なくした。
「おおっと! ご質問は一個ずつお願いしま〜す。それよりも、あなたの名は?」
「…………柚木優樹だ」
名乗ってしまった。
こんな怪しい生物に名前を教えても大丈夫だろうか。
でも、聞きたいことは山程ある。