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<スイート>シリーズ

スイート・ハロウィン・トリックスター

作者: 彩芭つづり

一応シリーズものです。

単体でもOKなように書きましたが、前作を読んでいただいてからのほうがより楽しめます。

 ふと空を見上げる。

 風に身を任せ、のんびりと泳いでいる雲がひとつ。なんだかわたあめみたいだと思った。といっても、あのもこもこふわふわしている感じではなく、どちらかといえばそのもこもこを手でちぎったときの、一口サイズで薄っぺらい感じ。それでもわたしにはとてもおいしそうに見えた。

 なんとなく、雲にそっと手を伸ばしてみる。……うん、届かない。届きそうもない。わかっている。そんなのは当前だ。わたあめはわたあめ、雲は雲。どうせ掴めても食べられやしないのだ。……あんなに甘そうでおいしそうに見えるのに。

「なにしてんの」

 後ろから声を掛けられる。

 なにしてるの、か。大体見ればわかると思うのだが。

 まばたきをゆっくりと一度だけして、ひとつ呼吸を置く。目を合わさず手を空に掲げたままで、わたしはその質問に端的に答えた。

「空に手を伸ばしている」

「ふうん、そっか。でもどうして?」

「べつに」

 小さく息を吐き、手を下ろす。

 そう。べつになんでもないのだ。

 ただ、今日の空はずいぶんと高いなと思うだけで。


「なあ、きみ」

 肩越しに振り返り、言う。

「最近は過ごしやすい気温になったな」

「もう寒いくらいだよ」

「おいしいものがたくさんあって食欲が増すな」

「俺はそうでもないよ」

 彼の言葉を無視し、すうっと鼻から息を吸う。学校から自宅へと向かういつもと変わらない通学路は、すすけた枯葉と冷たい風の匂いがした。

 そういえば、と思う。

 あのいい香りのするかわいらしいキンモクセイの花は、いつの間にかすべて地面に咲き落ちて、風に吹かれてどこかへと消えてしまった。それに夏のあいだ太陽の光をめいっぱい浴びてきらきらと輝いていた葉っぱたちも、今では目も当てられない状態になっている。あとは海岸でめっきり人の姿を見なくなったし、公園の噴水は一滴も出なくなったし、近所の家の庭に置いてあったビニールプールも片された。日が落ちるのもずいぶんと早くなったし、洗濯物も乾きにくくなったし、夕焼けがやたらと赤く見えるようになった。風鈴の揺れる音も、花火の打ち上がる音も、セミの鳴き声ももう聞こえない。すれ違う他校の女生徒たちが「この季節ってなんだか寂しくなるよね……」なんて会話をしているのだって耳に入る。

 確かに、数ヶ月前の季節に比べればそう思ってしまうのも無理はない。物事の変化に疎いわたしにだってそれくらいはわかる。わかりすぎるほどよくわかる。これでも一応女子だから、寒くなってくればそれなりに人肌恋しくなったりもするし、寂しいと思う気持ちもないわけではない。


 だが、わたしは思う。ここはあえて言わせてもらいたい。

 どんなに寂しくても。

 どんなに悲しくても。

 どんなに人肌恋しくても。

「ああ、なんて素晴らしい季節なんだ!」と。

 そう。今年も、秋がやってきたのだ。



 ◇   ◆   ◇



 紅葉、読書、運動会。

 行楽、芸術、ハイキング。

 秋には楽しみがたくさんある。あの地獄のような暑い日々からやっと解放されて至極過ごしやすい時期になった今、なにをやっても楽しいし、なにを食べてもおいしい。もちろん春や夏や冬にだっておいしいものはたくさんあるが、秋は格別だ。やっぱりこの季節は最高としか言いようがない。

 さあ、今年は秋をどう堪能しようか。まずは近所のケーキ屋へ行って旬のデザートをチェックするところから始めよう。きっと今頃ショーケースの中にはかぼちゃプリンやモンブランが並んでいるはずだ。それにスイートポテトやアップルパイも。あとは柿のムースに、梨のコンポートに、それからそれから……。

 ああ、なんて素晴らしいのだ、秋!

「天高く馬肥ゆる秋……か」

 目を細め、うろこ雲を見つめながらぽつりと呟く。

 すると、すぐに隣から「はあ?」と間抜けな声が聞こえてきた。なんだ、その声は。もしかしてこの言葉を知らないのか? ふん、無知なやつめ。呆れるな。

「あのさ、さっきからなにを一人でぶつぶつと言ってんの?」

「きみには馬の気持ちがわかるか? きっとわからないだろうな。でもわたしにはわかる。秋は馬も人も肥ゆる季節だ」

「……本当になに言ってんの? もしかして頭打った? それと、よだれ出てるから拭いたほうがいいよ」

 頭? なんだそれは。打った記憶など一切ないが……一体どういう意味だ。

「まあいい。ところで、きみ」

 よだれを拭い、ひとつ咳払い。

「季節は秋だ。秋といえば、いろんな食べ物がいつも以上においしく感じる季節。甘いものなんかとくにだ」

「甘いものなら常に喜んで食べてるんじゃ、」

「そこで、だ」

 言葉を被せて無理やり遮る。続きを言わせない。

 視線を上げて隣の彼を見やる。ぱちりとまばたきが返ってくる。わたしは、ぴっと人差し指を立ててから、真剣な表情で言った。

「きみに伝えたいことがある」

 目を丸くさせる彼。わたしの突然の言葉に少しだけ驚いているように見えた。それもそうだ。いきなりこんなことを言われれば、誰だってなにかと思う。それでも彼はすぐに優しい笑みを浮かべてうなずいた。

「うん、いいよ。なにかな。俺でよければなんでも聞くよ」

「それは助かる。きみがこうしてわたしの声に耳をかたむけてくれることは本当にうれしく思うよ。普段は口にしないが心の中ではいつも感謝しているんだ。ありがとう」

「なるべくなら言葉にしてほしいけど、まあ、うん、どういたしまして」

 微笑む彼。話が早くて助かる。

 そんな彼をわたしはもう一度真剣な眼差しで見つめた。

「では、心して聞いてほしい。言うぞ」

「うん、どうぞ」

 彼がこくりとうなずいたのを見て、わたしはそっとまぶたを閉じた。

 心臓がドキドキと高鳴っている。毎年言っているはずのこの一言だが、今年はやけに緊張する。

 胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸をする。一回、二回、三回……。よし、心の準備はできた。あとはしっかりと伝えるだけだ。

 ぐっとこぶしを握りしめ、再び目を開く。すぐに彼と目が合った。彼の虹彩に映る自分の姿をじっと見つめながら、わたしはくちびるをちろりと舐める。そして、ついにあの言葉を口にした。

「トリ――」

「トリックオアトリート」

 え、と声が漏れた。

 唖然というのはこういうときに使うのだと思った。わたしには、なにが起こったのかまったくわからなかった。

 目の前の彼が、にっと口角を上げる。それから口をぽかんと開けたままフリーズしているわたしの肩を、ぽんぽんと軽く二回ほど叩いた。

「大丈夫? 違う世界に行っちゃってない?」

 遠くで声が聞こえる。いや、違う世界に行ってはいないが……。

「……一体どういうことなんだ……?」

 足もとがふらつく。呆然としながら地面に視線を落とす。

 信じられない。こんなことがあっていいのだろうか。

 この一年、わたしが言うのをずっと楽しみにしていたあの言葉を……。

「なんだか上の空だね。もしかして魔女に魔法かけられちゃったかな?」

 その声ではっとする。

 魔女? 魔法? 違う。全部きみのせいだ。

 わたしはキッと顔を上げ、鋭い視線で彼をねめつけた。

「おい」

 自分でも驚くほどの、どすの利いた低い声が出た。例えるなら、任侠映画に出てくる年のいった渋い俳優さんみたいな声。まるで男だ。自分でもどこからそんな声が出たのかよくわからない。

 けれど、そんな脅しはまったく意味がなかった。わたしがいくら怖い声を出そうと、彼は一ミリたりとも怯むことなく口もとに嫌味なほど綺麗な笑みを浮かべていた。その余裕げな表情が気に入らない。さらに腹が立つ。

 彼はすっと目を細め、ゆるりと首を傾ける。

「なあに、美夕みゆちゃん」

「『なあに、美夕ちゃん』じゃないだろう」

「じゃあ、なあに、俺のかわいい彼女さん」

 ひくりと喉が跳ねた。火がついたみたいに顔が一瞬にして熱くなる。思わず両手で顔を覆った。

 すっかり油断していた。そうだ、彼はこういうやつだった。まったく、一体なんだっていうんだ。少し不意打ちすぎやしないか。こっちは本気で怒っているというのに、いきなりそんなことを言うなんて。……ずるいじゃないか。

「き、きみはいつもそういうことばかり言うな……」

「そういうことって、どういうこと?」

「さっききみが言ったみたいなことだよ」

「俺、なんて言ったっけ?」

 ……わざとか? わざとなのか?

「ねえ、俺、なんて言ったっけ」

「だ、だから、その……わ、わたしが、か、かわ、いい……とか、そういうことをだな……」

「美夕ちゃん、顔真っ赤だよ」

 誰のせいだと思っているんだ!

 ああもう、本当に調子が狂う。彼と話していると自分でも怒っているんだか照れているんだかわからなくなってくる。……ええと、わたしは怒っていたんだったかな。うん、そうだ、怒っていたんだ。間違いなく、絶対に。

 気を取り直して、彼の鼻先に指を突きつける。

「いいか、きみ。わたしは怒っているよ。それも猛烈にだ。どうしてかわかるか?」

「うん、大体はね」

 わかるのか。

「当ててみようか」

「ふん、言ってみろ」

 腕組みをして顎で促す。彼は、うん、とうなずいて、喉の調子を整えたあと、声色を変えてこう言った。

「『どうしてわたしより先に“トリックオアトリート”を言ってしまうんだー!』」

 眉をしかめる。不自然なまでの高い声に首をかしげた。

 ……もしかしてそれはわたしの真似か?

「……似てないな」

「自分では結構いい感じだったと思ってる」

「そうか? ……いや、どうだろう」

 もし本当に似ていたとしたら、わたしは自分の声を嫌いにならざるをえない。

「それで」

「うん?」

「美夕ちゃんが怒ってる理由ってこれじゃないの? 違う?」

 彼がこてんと小さく首をかしげる。わたしは、む、と眉根を寄せた。あざとい。男のくせに自然と出るかわいらしい仕草に腹が立つ。

 わたしはふいと顔をそらし、少しの間を置いてから、

「……違わない」

 と答えた。

 おもしろくなさげな顔をして認めると、彼は肩を揺らしてけらけらと笑った。なにもおかしくなんかない。

「大体なぜわたしが怒るとわかっていて先に言うんだ」

 もしかして怒られたかったのか? マゾなのか?

「怒られたいとは思わないけど、美夕ちゃんの怒った顔は見たいと思うかな。だから言ったんだ。美夕ちゃんは一年のイベントの中で最もハロウィンを楽しみにしてるからね。きっと俺に先を越されたら怒るだろうなと思って」

「わかっていてわざとやったのか? そんなに性格の悪いやつだったか、きみは」

「そうだね。でも、そんな俺を好きになったのは美夕ちゃんだよ。残念だけどね」

 口をつぐむ。ぐうの音も出ない。悔しいがなにも言い返せない。確かに彼は昔からこういうしたたかなやつだった。それをわかって好きになったのはわたしなのだから、彼の言うことも一理ある。

 でも、だ。

 だからと言って、わたしが毎年楽しみにしているこのハロウィンという重大イベントをこうも台無しにしていい理由はないんじゃないか。どんなに彼がわたしのことを好きだろうと、わたしの大切なハロウィンをおじゃんにしていいわけがないし、どんなにわたしが彼のことを好きだろうと、それを簡単に許せるわけがない。つまり、これはあれだ。

「破局の危機だぞ!」

 大声で叫ぶように言う。そっちがそのつもりなら、こっちにだって考えがあるのだ。

 彼が、ふうんと鼻を鳴らした。

「破局? 別れるってこと?」

「そ、そうだ! そうやってきみがあまりにひどいことをするようなら、そういうことだってありえなくは……」

「美夕ちゃんは俺と別れたいの?」

「別れたくないに決まってるだろう!」

 思わず即答してしまった。聞いた彼は満足げににっこりと笑う。

「そう、それならよかった。大好きだよ、美夕ちゃん。ずっと一緒にいようね」

 大きくて温かい手のひらが、わたしの頭を優しく撫でる。

 えへへ。うん、そうだな。ずっと一緒にいよう。わたしもきみのことが大す……、

「って、そうじゃないっ!」

 わたしの渾身のノリツッコミに腹を抱えて笑う彼。ああ、また乗せられてしまった。……悔しい。

「もういい……」

 大きな溜め息を吐き出す。がっくりと肩を落とし、すごすごと歩き出した。これ以上なにを言ったって、どうせきっと彼のペースに乗せられたままからかわれ続けるだけだ。そんな疲れることはしたくない。もう諦めよう。

 ああ、去年はお菓子をもらえなかったから今年こそはと思っていたのに……がっかりだ。

「ちょっと待ってよ、美夕ちゃん」

 呼び止められる。足を止め、しょんぼりとしたまま後ろを振り返った。

 相変わらず爽やかな笑みを浮かべて立っている彼と視線がぶつかる。きみはさっきからずっと笑っているが、なにがそんなにおかしいんだ。わたしが失望している姿はそんなに滑稽か?

「……なんだ」

「なんだって、いちばん大切なことを忘れてるよ。ほら」

 手のひらを差し出される。キャンディでもくれるのかと思ったが、彼の手にはなにも握られていない。……なんだこの手は。

「またまた。わかってるくせに」

「わからないな」

「え、本当にわからないの? 仕方ないな、それじゃあ特別に教えてあげる」

 そう言って、彼が一歩わたしに詰め寄る。背の小さいわたしに目線を合わせるように少し腰を折り、もう一度わたしの目の前に手のひらを差し出した。

 それから彼は、にっこりと満面の笑みを見せ、

「お菓子をくれなきゃいたずらしちゃうぞ?」

 ……うん。

 まさにハロウィン。トリックオアトリート。

 まあ、大体そんなことだろうとは思っていた。言葉にするだけで気が済むような男ではないことくらい、よく知っている。

 だが、しかしだ。

「……きみが言うと、きついものがあるな」

 今のわたしはきっと苦虫を噛み潰したような表情をしているに違いない。なんていうか、そのせりふを口にしていいのはやっぱり女子か子どもに限ると思うんだ。男子が軽々しく言っていいせりふじゃない。きみのような背が高くて男らしい男は、とくに。

「わたしだからまだ許せたが、男友達の前だったら二、三発は殴られていたな」

「あはは、美夕ちゃんも結構言うねー」

 無邪気に笑っているが、こっちは冗談ではなく本気で言っているんだぞ。わかっているのか?

 大体、そんな突然トリックオアトリートと言われてもだな。

「わたしがお菓子を持っているとでも?」

「お菓子好きの美夕ちゃんならキャンディのひとつくらいは持ってるでしょ」

「残念ながら持っていない」

「どうして?」

 どうして、だと?

 むっとして彼を見る。それからすぐに、ふいと顔をそらした。くちびるを少しとがらせる。

「今日はきみからお菓子をもらう予定だった。だから持っていない」

 なにがきっかけだったのかは憶えていない。だがとにかく、彼氏でもあり幼なじみでもある彼は、わたしたちが幼稚園に通う頃から必ずこの日にはハロウィン用のお菓子をわたしに用意してくれていた。十月三十一日当日、彼に「トリックオアトリート」と言うと、嬉々としてそのお菓子をプレゼントしてくれたのだ。どうしてわざわざそんなことをしてくれるのだろうと不思議に思い、以前その理由を聞いたことがある。そのときに返ってきた答えは確か、「美夕ちゃんの笑った顔が好きだから」だった。どうやら彼はわたしの喜ぶ姿が見たかったらしい。確かに幼い頃のわたしはお菓子ひとつで大喜びをして、全身でうれしさを表現していた。例えば部屋中を駆け回ったり、その場で大きく跳ねてみたり、前転をしたり後転をしたり側転をしたり。一度バク転をして頭を打ち意識を失いかけたこともあるが、それはまあいい。わたしがそういう子どもだったから、彼がそう思うのもわかる気がする。お菓子のひとつでそんなに喜んでくれるのなら、わたしだってきっとなにかをあげてしまうだろう。見ていておもしろいからな。さすがに今はそこまではしゃぎはしないが、でもたぶん、同年代の子たちに比べれば派手に喜んでいるほうだと思うんだ。だって、このあいだのクリスマスのときなんか……。

 ……む、話がずれた。なんだったかな。

 そう。とにかく、わたしたちにとって彼からわたしへのトリートのプレゼントは毎年恒例だった。

 ……そのはずなのだが。

「去年のことを憶えているか」

「去年?」

 わたしは深くうなずいた。

「きみは去年わたしにお菓子をくれなかった。とても楽しみにしていたのにだ。でも、いいんだ。もらってばかりでは悪い。たまにはそういう年があってもいいだろう。……だがしかし。去年はただの気まぐれかと思いきや、なんと今年も用意をしていないではないか。わからない。なぜだ? それはあれか? やっぱりリアクションが足らないことに飽きてきたのか? わたしが昔みたいに喜ばないから?」

「は? リアクション? 飽きる? ……なんのことだかわからないけど、俺はべつにそのあたりはなにも求めてないから気にしないで」

 胸を撫で下ろす。

 そうか、よかった。昔のように教室を駆け回ったりその場で前転や後転や側転をしたりしろと言われても困っていた。さすがに今そんなことをしたら、先生も怒るより困惑してしまうだろうからな。わたしもちょっと勇気がいるし。

 ふむ。リアクションではないとすると……。

「ギブアンドテイクか」

「え?」

「ギブアンドテイクだよ。わたしももらってばかりではなく、きみにもお菓子をあげなければいけないということだ。違うか?」

 確かにここ最近はわたしがもらうばかりで、わたしから彼へ渡すプレゼントはとくになかった。いや、もちろんこっちだってなにかしら準備をして渡そうとしたこともある。だが、そのたびに「俺は美夕ちゃんの喜ぶ顔が見たいだけだから」と断られてしまっていたのだ。せっかく用意をしたのに結局いらないと言われるのならもういいかと思っていたのだが……。やっぱりそういうわけにはいかないな。彼だって口にしないだけでハロウィンを楽しみたかったのだ。なんだか悪いことをした。

「そうだな。今まですまなかった。次からはわたしもきみにお菓子を用意しよう。わたしはきみみたいに器用ではないから手作りというわけにはいかないが、買ってきたものを綺麗にラッピングしてそれなりに見せることくらいはできる。来年は期待していてくれ」

「あー、うん、ありがとう、期待しとく。……だけど、俺が言いたいのはそういうことでもないんだけどね」

 頬を掻く彼。目をしばたくわたし。

 なんだ、きみはお菓子がほしいわけではないのか。……ではどういうことなんだ? お菓子の他になにがほしいんだ?

「なにもほしいわけじゃないよ。お菓子だって美夕ちゃんが食べてるのをたまにもらえれば満足できる程度だし。美夕ちゃんみたいに特別甘いものが好きってわけでもないしね」

 ふむ……?

 小さく首をかしげる。だって、なにかが気に入らないからお菓子をくれなくなったのではないのか。それに、彼もお菓子がほしいからわたしより先にトリックオアトリートを言ったのだと思っていたのだが……。それも違うと言うのなら、わからない。彼の考えていることが全然読めなくて眉をしかめる。

「それなら、どうして」

「ううん、そうだなあ。簡単に言えば意地悪かな」

 ……は?

「そう。俺はただ意地悪がしたかったんだよ、美夕ちゃんに」

「ち、ちょっと待て。意地悪って」

「意地悪は意地悪だよ。だって美夕ちゃんは今日、俺からお菓子をもらえると思ってたんでしょ? ずっと前から楽しみにしてたんだよね。知ってるよ。でも、残念。俺が先に『トリックオアトリート』を言っちゃったから、美夕ちゃんはお菓子をもらえない。それどころか、俺にお菓子をあげるか、俺にいたずらをするか選ばなきゃいけなくなった。美夕ちゃんの大好きなハロウィンのイベントが俺のせいで台無しになっちゃったんだ。かわいそうだね、美夕ちゃん」

 饒舌に、笑みを見せながらそんなことを彼が言う。

 最初は呆然と彼の言葉を聞いていたわたしだったが、だんだんと呆れてきて、悔しくなって、最終的にものすごく腹が立った。彼はわたしが怒るのを知っていて、わざとこんな意地悪をしたのだ。……許せない。

 くちびるを噛みしめて、じっと彼を睨む。

「ああ、いいね。その顔、好きだよ。俺、昔は美夕ちゃんの喜ぶ顔がいちばん好きだったけど、今は怒ったり困ったりしてるときの顔も同じくらい好きなんだ。なんだかぞくぞくする」

「とんだ変態だな」

 付き合っていられない。ふん、と鼻を鳴らし、彼の横を通り過ぎようとした、そのときだった。

「だめだよ」

 突然手首をぎゅっと掴まれる。強い力に、思わず足を止めて彼を見上げた。

「なんだ、この手は」

「美夕ちゃん、逃げようとしてるね」

「……逃げる?」

「だって俺、まだお菓子ももらってないし、いたずらもされてないよ」

 ふっと息を吐く。そんなのは当たり前だ。

「初めは仕方がないからどこかでお菓子を買って渡そうかと思っていたが、きみの話を聞いたら気が変わった。そんなことを言われたあとではなにもしてやれる気にならない」

「だめだよ。そんなの俺が許さない」

 掴まれた手首を強く引かれ、彼との距離が縮まる。顔をぐっと近づけられて、眉をしかめた。今にも鼻先が触れてしまいそうな至近距離で、彼の瞳をじっと睨みつける。彼の身長がわたしよりもはるかに高いせいで、近くに立つと首を痛めるほどに見上げなければならないのが余計に腹立たしい。

「さあ、美夕ちゃん。今日は逃がさないよ。お菓子かいたずらを選ぶまではね」

 さっきから逃げる逃げるとうるさいやつだな。誰が逃げるもんか。ここまで来たら、どうにかしてぎゃふんと言わせてやる。なにをすればいちばん驚くか考えよう。思考が止まるくらいのことをしてやる。

 ああでもない、こうでもないと、頭の中で必死に考えをめぐらせる。いろいろと考え込んでなにも言わないわたしを見て、彼は笑いを噛み殺しながら言う。

「どうしたの? 早く選びなよ、トリックかトリート」

「うるさい」

「あれ、怒ったの? ああ、だめだよ美夕ちゃん。ほら、また眉間にしわが寄ってる。痕ついちゃうよ」

「黙れ」

「そんな言葉づかいは感心しないなあ。女の子なんだから。大体美夕ちゃんは口調が堅苦しいんだから、もっと愛想よくしないと。俺みたいにこうくだけた感じでさあ」

「ああもう、本当に口が減らないやつだな、きみは!」

 掴まれた腕を振りほどく。くちびるをさらに噛みしめ、鋭い視線で彼を睨みつけた。

 数秒間の沈黙。それでも彼は薄い笑みを浮かべたままだ。

「そんな目で見られても全然怖くないんだけど」

「……」

「美夕ちゃんがなんと言おうと、俺はお菓子かいたずらを選んでくれるまでは黙るつもりはないよ。さあ、どうする?」

 どうするって、どうしようもないだろう。まったく、迷惑な話だ。わたしはただお菓子がほしかっただけなのに、どうしてこんなことになったのだろう。

 ……まあ、仕方ないか。

 こんな彼を好きになったのは、わたしなのだから。

 ふっと息を吐き、下を向く。突然睨むのをやめ視線を外したわたしを不思議に思ったのか、彼はそっと名前を呼んだ。

「……美夕ちゃん?」

「……きみに……」

「え?」

「……きみに黙るつもりがないのなら……」

 小さくぶつぶつと呟く。その声を聞き取ろうと、彼がわたしの顔を下から覗き込んだ。ふいに視線が交わる。

 瞬間、わたしは彼の制服のネクタイを思いきり引き寄せ、そしてその勢いのまま、

「みゆちゃ、」


 まるで血に飢えた吸血鬼みたいな、噛みつくようなキスをしてやった。


 ……熱い、と思った。最近やっと涼しくなってきたと思ったのに、今は体が熱くて仕方ない。

 静かにくちびるを離して、小さく、は、と息を吐いた。たった一瞬の出来事だったのに、ネクタイを引き寄せた手が少しだけ震えていた。

「……きみに黙るつもりがないのなら、その口をこの口でふさいでやればいいだけの話だ」

 ぱっとネクタイを放してやる。震えている手を見られたくなくて、すぐに背中に隠した。

 呆然とその場に立ち尽くす彼を見て、ふんと鼻を鳴らす。

「なんだ、ちゃんと黙れるじゃないか。最初からそうしていればよかったんだ。まったく、むだな手間をかけさせるな」

 言いながら、彼の横を通り過ぎる。今度は手首を掴まれることはなかった。

 数歩歩いたところで足を止める。彼がついてくる足音が聞こえない。後ろを振り返ってみると、まだこちらに背を向けたまま、その場で呆然としていた。

 目を細めて、腕を組む。

「おい、なにをやっているんだ。いつまでもぼうっと突っ立っているんじゃない。今から買い物に行くぞ。きみがくれなかった分のお菓子を調達しなくちゃいけないんだからな」

 声を掛ける。彼ははっとしてこっちを振り返った。やっと気づいたらしい。慌てて走ってきて、再び歩き出したわたしの隣に並ぶ。

 少しすると、彼がそわそわしながら横目でこっちをちらちらと見てくるのがわかった。気にすると面倒なので知らないふりをしていると、

「ねえ」

 と声を掛けられた。

「美夕ちゃん、さっきのって」

「うるさい、黙らないとまた口をふさぐぞ」

「えっ、うそ、本当に?」

「喜ぶなっ!」

 二度とするか、あんなキス。

 考えないようにと思っていたのに、彼のせいでさっきの出来事を思い出してしまった。恥ずかしくなって、ふいと顔をそらす。わざとむすりとした顔で不機嫌そうにしていても、きっと彼はそれが照れ隠しであることに気づいているのだろう。そうでなければ、こんなにうれしそうに笑うわけがない。

 微笑む横顔をじっと見つめる。その顔がなんだかとても幸せそうで、そんな彼を見ていたら、さっきまでささくれ立っていたわたしの心までだんだんと穏やかになっていくのがわかった。あんなに怒っていたのに……不思議だな。

「……さっきのキスで許してくれるか」

 ぽつりと呟く。わたしの突然の言葉に目を丸くした彼は小さく首をかしげた。

「許すって、なにを?」

「なにって、決まってる。トリックオアトリートだよ」

 よくわからないというように、さらに首をひねる彼。わたしは小さく溜め息をつき、頬を掻いた。

「きみがお菓子かいたずらのどちらかを選べと言ったんだろう。……でも、今のわたしには手持ちのお菓子がない。だからいたずらをするしか選択肢はなかった。とはいえ、どんなことをしたらいいのかわからなかったんだ。だって、その……わたしは、きみを傷つけたり怒らせたりするいたずらは、あまりしたくないからな。そういうのは趣味じゃない。……だからわたしは」

 ――わたしは一生懸命考えて、チョコレートよりも甘く、キャンディよりも小さなかわいらしいいたずらで、きみを驚かせてやろうと思ったんだ。きっとそれくらいしかわたしにはできない。それがせいいっぱいのいたずらだった。

「そのいたずらが、さっきのキス?」

 訊かれて、こくりとうなずいた。

「……少しは、驚いてくれたか?」

 さすがのわたしも、ちょっと怒ったくらいでは突然キスなんかしたりしない。いたずらだからできたのだ。

 彼なら、きっと驚いてくれると思った。なにより自分がいちばん驚いている。普段わたしからキスをすることなんてまったくないのだ。……だから、実はまだ胸がドキドキしていた。恥ずかしさと緊張が、ずっと胸の中に残っていて苦しかった。

 彼からの返事がいつまでたっても聞こえなくて、足もとばかり見ていた視線を上げた。隣にいる彼を見やる。

 すると、彼はふいに溜め息をつき、

「美夕ちゃんはずるいなあ」

「はっ?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。だって意味がわからない。全然質問の答えになっていないじゃないか。なにを言うかと思えば、いきなり「ずるい」だ。そりゃあ間抜けな声も出る。

「わたしは驚いてくれたかと訊いたんだが……」

「うん。だから、ずるいって答えたんだよ」

「なっ……。わ、わけがわからないだろう! わたしは驚かせるためにやったんだぞ! せっかく勇気を振り絞ってキスしたのに……。だ、大体、きみがお菓子だのいたずらだのと変なことばかり言うからわたしは……!」

「本当、ずるいよ」

 もう一度、同じ言葉を呟いて足を止める。わたしも歩くのをやめ、後ろにいる彼を見やった。

「わたしのなにがずるいんだ」

 向き合うようにして並び、不満げな表情のまま彼の瞳を覗き込む。そんなわたしを見つめた彼は、ふっと優しげな笑みを浮かべると。

「そんなかわいいいたずらに俺が敵うわけないじゃん」

 そう言って、わたしの体を苦しいくらいに強く抱きしめた。

 突然の出来事に目をみはる。持っていた鞄を思わず落とす。頭の中が真っ白になって、抱き返すことも押し返すこともできないまま、ただ抱き締められたままでいた。

 数秒後。

「あーあ」

 と、彼の不服そうな声が聞こえた。はっとし、少しだけ身じろぎする。それでも彼はわたしを放そうとはしない。

「これじゃあ俺の完敗だよ」

「ど、どういう意味だ……」

「だって、本当ならもっと美夕ちゃんを困らせようと思ってたのに」

「思ってたのに……?」

 少し間を置いて。

「……あのキスは反則だよ」

 耳もとで聞こえたひどく残念そうな声に、わたしは目をしばたいた。それからすぐ、吹き出すようにして笑う。

 ああ、まったく、彼と一緒にいると短い時間の中で笑ったり怒ったり、感情がめまぐるしく変化して忙しい。だけど、それも嫌ではないと思えるのは、やっぱり彼のことを好きだからなのだろうか。わたしもまだまだ甘いな。

 ひとしきり笑い、息を吐く。

「結局今年もいちばん楽しみにしていたお菓子はもらえずじまいか」

「今から買い物に行くんでしょ? そのときになにか買ってあげるよ」

 彼の腕の中で、ゆるゆるとかぶりを振る。

「いや、いいよ」

 お菓子はもらえなくても、わたしはもう充分満足しているんだ。

 だって、わたしの甘いトリックに惑わされたきみの体温が抱きしめられた腕から伝わって、真冬に飲むホットココアよりももっとずっと熱く感じられたから。

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