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#2 契約

不味(まず)い」


 どれくらいの時間が経ったろう。

 四十日ほど以前のことを、ぼんやりと、思い出すもなく思い出していたキリエの首筋から、変わらぬ誘惑を注ぎ込む牙をやがて引いたシングフェルスが、憮然として言った。


「キリエ、貴様、また煙草を吸ったな」

 不作法を咎めるようなその言葉に、キリエはつい小さく笑った。

「子供じゃないんで、煙草くらい吸うさ。口さみしいんだよ」

「血が不味くなると、いつも言っているはずだ」

 まるで、健康に悪いから煙草をやめろとでも言いた気なシングフェルスの口調に、キリエは可笑しくなったようにまた、肩を竦めた。

美味(うま)さのために俺の血があるんじゃないんでね」

 身体を翻してシングフェルスから離れようとしたキリエの肩を、シングフェルスの強い手が掴んで、ぐいと引き戻す。

「…っ」

 決して人間のものではないその力に、肩の骨がわずかに軋み、キリエの喉が小さく呻きを上げる。

 そのキリエの顔を、シングフェルスが極間近に覗き込んでいた。

「与えられるのみを、私に甘受しろと? そんな傲慢を思っていられるほど、自分に自信があるらしい」


 決して人間のものではない、色を例えるのも難しいシングフェルスの双眸の虹彩に、血のような赤の色の煌きが見えた気がして、キリエは慌てて少しだけ視線を逸らした。

「勘弁してくれよ。こんなに吸われた後で、その血の色の煌きに対して踏ん張れるほどには耐性がないんでね」

 キリエは、そんなことを言って、まるで降参でもするかのように両手を軽く上に上げた。

 シングフェルスは、キリエの肩を掴んだ手を放さない。

「なるほど。真実、大層な自信を持っているわけだ。ありきたりな言葉一つを、その口に刻んで、私に耐えるとは」

「だから、勘弁してくれって」

 のらりくらりとする口調のままに、キリエは身体を捻って、シングフェルスの手から逃れようとする。


「──“And do not lead us into temptation”――わたしたちを誘惑にあわせないでください――」

 シングフェルスの、冷笑に吊り上がる薄い唇から、その聖なる祈りの一文が流れると、キリエはさすがに眉根を寄せるようにして嫌そうな表情を見せた。


「大したものだな、キリエ。こんな端的な言葉一つで、耐えるとは」

「大したものなのは、お前の方だろう、シングフェルス。──いくら、俺との‘契約’の元だと言ったって、聖書の言葉を口に出来るなんてのは」

「契約元の貴様が、それだけ大きな力を持っていると言うことだろうよ」

 全くそんなことを思ってもいないと言うような口ぶりで、シングフェルスはさらに冷笑を深くした。



 少し前までトウキョウと呼ばれていたこの都市の一角に、得体の知れぬ危険な闇が蠢き出したとき──否、実は世界中の幾つかの場所に同じように闇が蠢き出したとき──

 “この闇に関して処置するに際し、正式な名称を呼んではならない《Aliis si licet, tibi non licet.》”()の組織から、聖なる執行人達が派遣・任命されて来た。


 彼らは粛々とその任務をこなした。

 当初は、その存在とやり方に疑問や異議も唱えられたが、しかし、蠢く闇の処置がほとんど彼らにしか適わない事実が否応なしに認識され、また彼らも闇の在る場所のみしか己等の技能と権利を行使しないことから、人々も──国家機関等も、彼らの存在とその権利を認めた。


 しかし、人々が彼らに感謝することはまず無かった。

 彼らの任務の遂行の仕方と、その方法を伺い知ると、人々は忌み嫌いこそすれ、感謝することはただ憚られた。

 その理由の一つは、派遣・任命された執行人の中に、子供が多く含まれていたこと。

 そして──その子供たちが、闇を処置するに際して使役するのが、闇の(うち)に蠢くもの等の中で最も強大にして忌み嫌うべき、吸血鬼だったこと。


 それだけで、彼らの存在に異議を唱えてしかるべきだった。

 しかし、彼ら無しには、すでに世界は安寧を取り戻す(すべ)が見当たらなくなっていた。


 吸血鬼を使役する子供たちは、執行人らの裡で、何故かそのまま‘子供’と呼ばれていた。

 執行人らが、ただ『V』と一文字を便宜上希に記す、“正式な名称を呼んではならない”聖なる()の組織にての、秘された意味であるらしい。

 ‘子供’の数は少ない。

 恐らく、世界中で百人とは居ないだろう。

 特殊な能力を持った‘子供’たちは、彼の組織に人知れず見出され育てられると言われる。

 人が、いつまでも子供でいられないように、‘子供’たちも‘子供’で居られる時間は短いらしい。


 希に、たいそう歳を経てから能力が開眼し、‘子供’たちのように吸血鬼を使役する能力を身につける者もいる。

 その彼らは‘狩人’と呼ばれる。

 人々は、どうしても‘子供’が吸血鬼を使役する事実を受け入れ難いのだろうか、吸血鬼を使役して闇に対処する者らは、‘狩人’の名称が既に一般的だった。

 そして、‘狩人’と呼ばれる故に、彼らが使役する吸血鬼らは、畏怖と嫌悪を込めて‘猟犬’と呼ばれた。


 ‘狩人’そして‘子供’の、最初にして最大の困難な仕事は、吸血鬼を使役する‘契約’を成立させること。

 この契約が成立すると、‘狩人’または‘子供’は、闇を対処する自らの特殊な力と共に、強大な力を持つ吸血鬼を使役できるようになる。

 そして、使役される吸血鬼は、彼らの聖なる力の恩恵に授かって、彼らの弱点が克服される。


 すなわち、聖なる力に触れても、およそ滅することが避けられる。

 太陽の光を浴びても灰にならずに済み、流れる水を渡ることも出来、聖なる言葉や十字架に己を損なわれることもない。


 ──ただし、契約を成した吸血鬼らは、契約を結んだ‘狩人’または‘子供’の血しか糧とならない。

 少量で飢えは満たされるが、その者の血のみでしか自らを永らえさせることが出来ない。


 それは、契約が成されている間に、契約を結んだ‘狩人’または‘子供’が死亡した場合──その吸血鬼も滅することを意味した。

 糧が契約した者の血だけなのだから。

 さらに、吸血鬼は、契約を結んだ‘狩人’または‘子供’から離れていることが出来ない。

 ‘狩人’または‘子供’の個々の能力にもよるらしいが、どんなに離れていても視野に入るほどの距離しか、離れることが出来ないと言われている。

 距離が離れれば離れるほど、吸血鬼たちは凄まじい飢えを味わうことになる。


 こんなふうに、強大な吸血鬼らを縛る能力を、特に‘子供’と呼ばれる彼らは、何によって得ていると言うのだろうか──それは、世界の奥義の一つと称され、明かされることは未だなかった。



「そんな端的な言葉一つで、耐えるとは、人間の奥義とやらは全くもって奥が深い」

 それこそ全くもって、そんなことを思ってもいない風情で、憮然とシングフェルスはさらに言い添えた。

 キリエは苦笑してまた軽く肩を竦めた。

 そのキリエを見遣り、シングフェルスは意味深に、形の良い唇の片端を少し吊り上げて笑みのようなものを浮かべた。

「──契約に失敗した場合、人間の方はその場で処分されるらしいが」

 面白がるような声音。

 キリエは、わざとらしくより肩を竦めて見せる。そして言った。

「なるほど。……らしい──と言うってことは、お前の代々の‘子供’方々は、失敗したことが無かったほどにさすがに優秀だったみたいだな」

 キリエのその言葉は、少し戯けたふうを装っていたが、どこか乾いていた。

 そのキリエの声音に、シングフェルスは異様に満足したような微笑を見せた。

 キリエは、会話を切り上げようとでもしたのか、半歩を翻ったが、再び、シングフェルスの片手にいともたやすく身体の向きを戻された。

「キリエ──貴様は、代々のどの‘子供’たちよりも、素直なものだな」

 そして、シングフェルスはくいとキリエへと顔を近付ける。

「あの契約の時、私に耐える自信が本当に有ったのか──? 真実、尋ねたいものだ」


 キリエは、ひっそりと舌打ちした。

 顔を背け、無論、シングフェルスの眸を見ることはない。

 そして、ゆるゆると両手を軽く上に上げて、また、降参するような様相を見せた。

「──だから、勘弁してくれって。あんまり虐めないでくれよ」

如何(いか)な才能をもってしても半ばは失敗すると言われる‘契約’に際して、キリエ、貴様は恐れも怯えも無かったか?」


 ──処分。

 ‘狩人’が、吸血鬼との契約に失敗した場合──それは、端的に、その‘狩人’が吸血鬼になってしまうことを意味するのだが──、間違いなく処分される。


 処分に関して、‘狩人’に限定されているように言われるが、‘子供’が契約に失敗したことはないとされている。

 あの、吸血鬼とただ二人で対峙しているように見えた空間、あれは当然、モニター等で監視されており、人間の方に異常が見られた場合、即座に、契約の空間に備えられた特別な仕掛けが人間のみを殺す。


 契約に失敗した人間は、遺体どころか、身体は灰の欠片すら残してはもらえないだろう。

 そして、残された吸血鬼は、新しい契約主が来るのを、ただ待つことになる。

 あの、銀色の空間で。


 あの銀色は、幾重にも特殊に聖別された銀であり、床から天井から壁から、継ぎ目無く厚く張り囲んでいる。

 その聖銀の向こうは、やはり床も壁も、厚さ数メートルの特殊な鉛で出来ており、それはさらに聖なる水に覆われる形で空間が形成され、いかな超常能力を内からも外からも通さない。

 更に、契約主を待つ吸血鬼が待機する場所は──シングフェルスが椅子にて座して居た所だが──床や壁に使用された銀よりも遙かに強大な力が込められた銀の四本の柱にて、取り囲まれている。

 聖人が能力と時間を掛けて聖別した柱は、その上で、吸血鬼が其処に存在する間、能力を持った多くの聖者等によって、時間の間断すること無く聖なる力が注ぎ続けられる。


 それは、さしもの吸血鬼等にとっても、居心地の悪いだけでは済まない、苦痛な場所であろう。

 世界の各地の支部に、一つないし二つのそんな空間が設えられていると言われる。

 万が一、契約主となるべき‘狩人’または‘子供’が決まらない場合は、吸血鬼はそのまま其処に在らねばならない──


 シングフェルスに肩を掴まれて半ば身体を動かせずにいて、両手を軽く上に向けて降参の仕草を見せたまま、キリエは溜息を吐いた。

「──そう言うお前は、あんな場所に居てつらくなかったのか……なんて、そんなことを尋ねたくなるから、虐めないで欲しいものだがね」

 皮肉を返すと言うにも、そのキリエの言葉は呟き程に力無かった。

 キリエの言葉に、シングフェルスの赤の勝る眸がふっと瞠目するように開かれた。

 それから、くつくつと喉の奥を、猫か何かのように震わせて笑い出した。

「くっくっ…それはいい、つらい、とはまた何とも、味わい深い言葉だ。どの‘子供’からも、そんな台詞を聞いたことが無いな」

 腹を抱えて笑いかねないシングフェルスの風情に、キリエはかなり恥ずかしくなったのか、どこかむくれたような態で、今度こそシングフェルスの手を振り切って踵を返した。

 面白がる気配を隠しもしないで、シングフェルスは、そのキリエのすぐ後ろを付いて歩く。

「どんな‘子供’よりも子供らしい──そんなが、貴様の力の根源か、キリエ?」

「そんなって何だよ……いや、説明しなくていいからな。と言うより、そんなはずがないだろうが。この歳でガキっぽいなら、それはただの未熟ってやつさ」

 自ら応えてから、キリエは小さく肩を落とした。

 そして──

「……いっそ、俺が子供なら良かったよ…」

 その呟きはほとんど無意識のものだったので、キリエ自身の耳にすら、自らのその声は届いていなかった。

 だが、枯れた木の枝がうなだれるより明瞭に、吸血鬼の聴覚には届いていた──


 霧の街はすっかり暗くなっていた。

 崩れることを待つばかりのビルの合間の地平近くだけが、まだ、滴り落ちた血が溜まっているかのように赤い色を残している。

 ふと、急ぎ足だったキリエの足が止まった。

 キリエがゆっくりと背後のシングフェルスへと振り返る──気配もさせぬ彼が自分の後ろを着いて来ていることを、微塵も疑わない素振りで。

 無論、その先には数メートルも離れずに、その吸血鬼は歩いて来ている。

 シングフェルスを見遣って、キリエは癖らしく軽く肩を竦めた。

(ねぐら)に帰るのは少し後になりそうだ──呼び出しだ」

 キリエは胸元から、薄いカード型の携帯通信器を取り出した。



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