# prologue
少し前までトウキョウと普通に呼ばれていたこの都市は、時代ごとに空気の匂いが違う気がする。
いや、いつでも血生臭いのかもしれない。
──霧が深い。
トウキョウと呼ばれる地の一角であっても、あまり似つかわしいとは思えない、霧。
二十一世紀が始まって、そう年月が経たないうちに、まるで古い写真が煤けていくように、この都市はほんの少しずつ朽ちていきつつあった。
都市の活気のある場所は、新世紀に相応しく近未来都市の様相を形作りつつあるにもかかわらず、その影になっているかのような、トウキョウと呼ばれていた場所の一部は、逆に一世紀も時代が戻っているのではないかと思わせるような色褪せ方をしているようだった。
時代が戻っているかのようなら、いっそ、気の利いたレトロな街並みだったら良かったろう。
崩れていくと言うよりは、少しずつ少しずつ朽ちていく、奇妙な街角。
そして、深い霧。
前世紀の人なら、ここは十九世紀の倫敦かと、せめてもの望みと、かなりの皮肉をこめて思ったかもしれない。
問題は、この荒廃が都市の他の部分を、わずかずつ、だか確実に侵食していこうとしていることだった。
ただの荒廃なら、新しいものを打ち立てていけばいいかもしれない。
しかし、この荒廃は恐ろしいものを生み出していた。
魔物──
と、口にするも人ははばかった。
朽ちていく都市の小さな影に、まるで淀んだ穴が空いたかのように、ふつふつと何かが湧き、それが形を取り、魔物を生み出していた。
いや、生み出して、と言う言い方は本当は間違っているらしい。
らしい、と言うのは、残念ながら全てが解明されているわけではなく、ただ分かっているのは、次元だか空間だたが捻れて繋がり、それまで人類が知らなかったどこかの空間から、それらがやって来ていると言うことだからだ。
知らなかったと言うのも正しくはないのかもしれない。
単純に想像するのなら、こう言うことだ。
──現代の人類が伝承や神話だと思っていたものたちが、影から湧いて出ていた。
今日もこの街は霧が深い。
濃い霧は、人の姿だけでなく、街の様相も何もかもを包み込んでしまう。
だが、音だけは、霧の中から聞こえてくる。
今夜の音は、慌ただしく騒がしい。
何人かの人間の切羽詰まるような声、声、声。
それに混ざる、奇妙な鳴き声。人間の金切り声のような、動物の遠吠えのような、背筋をぞっとさせるような、鳴き声。
「そっちに行った!!」
「――深追いするな!」
「近付きすぎると、やられる……!」
数人の人間は、警官のようだ。
他の地域では考えられないことに、彼らは手に手に拳銃を持ったままで追っている。だが、その、武器を持った手はみんな震えている。
何かを追っているはずの彼らの方が、明らかに怯えていて、何とか見失わずにいるので精一杯のようなのだ。
追われているその何かは、やがてそのことが分かったのか、逃げるのをやめた。
追う警官たちは、かなり遠巻きにしてやはり足をとめた。
彼らが追っていたのは──およそ、生きているとは思えない、何か。
捻れたような一対の羽は、捻れてさえいなければ美しい猛禽類の翼に見えなくもない。
やはり猛禽類のそれのような、鋭い爪を持つ足を持っている。
だが、鳥ではありえない。
小柄な人間の大きさほどの背丈があるからだ。
そして、胸から上は──人間の女のそれに似ている。さらにその頭は、石か何かに潰されたような女の頭部のそれに似る。
今や、自分が逃げる必要もないと悟って、それは、口元だけがにたりと笑う。鼻先から上が、ぐしゃりと潰された石榴のようで、追ってきた警官たちも、その様相だけでも、近付きたくはなかったろう。
その異形のものが、警官の一人へと向かって走り出した。
「ぅわ、うわぁぁ……」
向かって来られた警官は、情けない悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、すでに足が震えていてその場にへたり込む。
そして、一緒にそれを追ってきたはずの警官たちは、助けようとするどころか後退って逃げる体勢に入っている。
それが、警官に襲いかかろうとした──その時。
銃声が一発、轟いた。
銃声にしては、いやに澄んだ音。
「ギャアァゥゥゥッッ……ッッッ…!!」
異形のそれが、先の澄んだ音と対比するかのように、神経に障る甲高い悲鳴のような声を上げて、大きく後退る形を取った。
異形のものの、捻れている翼の片方が、ジュウジュウといやな音と匂いをさせて溶け出している。
「食事のつもりかい、お嬢さん」
皮肉そうな、しかし妙に落ち着いた若い男の声がした。
「悪いね、最後の晩餐にもしてやれそうにないな」
鈍く銀色に光る銃──妙に古めかしい──が、その声の主たる男の手に握られている。
よれたような黒い長めのコートを着たその若い男は、怯えるでもなく、その異形を見ていた。
今の銃声は彼の銃によるものだったらしい。
銃は現代のものとは到底思えない形の、言ってみれば大航海時代あたりに使われていた、フリントロックのように見える。
黒いコートの若い男は、人好きのするような印象を持つが、どこにでもいるような至極普通の日本の青年だった。
だからこそ、その手に持つ古めかしい銃が、違和感をもたらす。
撃たれた異形は、怒りの声を上げ、今度はその彼へと向かってくる。
「あ、ちょっと待った、まだ充填してなくて──」
そんなことを言いながらも、真っ直ぐ向かってくる異形を、しかし、その彼は避けない。
異形の口が、くわ、と大きく開く。どこに収められていたのかと思うような、不揃いの牙の並びが見える。
「歯並び、矯正した方がいいんじゃないか?」
そんな悠長な声を掛ける彼の肩あたりへと、異形が噛みつこうとした途端。
「ギヤアアァァゥゥゥゥッッ…ッッッ…!!」
再び、異形の動きは止まり、一段と高い鳴き声が上がる。
「──矯正した方がいいのは、貴様の性格だろう」
異形の背後から、やはり若い感じの、冷ややかな男の声がした。
普通の人間なら触れるのも嫌だろう、その異形の崩れた頭部を、どこかのそれこそ晩餐会にでも出掛ける風情のきちんとした身なりの痩身のその男は、白い手袋をつけた手で鷲掴みにしている。
異形が渾身の力でもがいているように見えるにも関わらず、手袋の上からも華奢そうなその彼の手は、ものともせずに異形を掴み押さえていた。めき…と、軽い、枯れ木の折れていくような音がするのは、異形の頭蓋骨が軋んでいるのかもしれない。
異形を片手で押さえ頃その男こそ、銃を持つ青年と対照的にかなり印象的な存在だった。
冷ややかな美貌は、日本人のものでは無い。
無造作に軽く撫でつけられているているその髪は、白銀と黒。
そして、その眸は――――
「そりゃいい、そのまま押さえておいてくれ、シングフェルス」
「そのまま、私まで撃ち抜く気か」
シングフェルスと呼んだ、異形を掴み押さえているその男の面白くもなさそうな声音に、銀の銃を構えた男はからりと短く笑った。
「そんな簡単に撃ち抜かれてくれるお前なら、俺は苦労しないんだがね」
「貴様ならやりかねん、キリエ」
シングフェルスが冴えた声音でそう言うと、銃を構えた男──キリエは、にまりと笑った。
そして──――
「…主よ、永遠なる安らぎを彼らに与え、絶えざる光で照らし給え。 Kyrie eleison.──キリエ・エレイソン、主よ、あわれみ給え……」
低い、囁くような声なのに、彼の詠唱が空間に広がるように流れ出した。
その詠唱を聞いて、異形は金切り声を上げだした。
キリエと呼ばれた彼の、銀の銃が光り出す。
「──Amen」
その声と銃声は同時に放たれた。
一条の光が異形の胸を貫く。
「ギャァゥゥゥゥッッ…ッッッ…!!」
断末魔の悲鳴を上げて、異形はその場でのたうち回り、いやな匂いを立てながら少しずつその形を崩していき──やがて、動きも止まる頃には、影の一部となって姿は無くなった。
「はい、一丁上がり」
異形を撃った銃を懐にしまいながら、キリエと呼ばれた男は、やれやれと言った態で肩を軽く上下させた。
そして、まだ遠巻きにしたまま何をすることも出来ずにいる、先に異形を追っていた警官たちへと、人好きのするような笑みを向けてみせた。
「お疲れ様。もう大丈夫なんで、あと、水でも撒いておいてもらえる?」
だが、警官たちは、遠巻きにしたまま、まだ身体を動かすことも出来ないでいるような様だった。
やっと一人が、がたがたと震える手を上げて、キリエと、その傍らにいるシングフェルスを指差し──
「…か…か、狩人…と……猟犬…ッ…?!」
上擦って掠れた声で、警官の一人はやっとそれだけ口にした。
その言葉に、痩身の男、シングフェルスが細く形の良い眉を顰めて、明らかに不快そうな面持ちを浮かべる。
キリエの方は、また笑みを見せた。
「ああ、そうだよ。俺は狩人だ。……猟犬、ってのは、本人を前に言っちゃダメだぜ?」
終わりの方の言葉は、白々しいほどいかにもこっそりと、当のシングフェルスに内緒にでもするかのように、警官たちに声を潜めて答えてみせた。
キリエの飄々とした答えにも関わらず、警官達はそれぞれ、掠れた悲鳴を飲み込むように喉をひくつかせた。
彼らの顔は、さきほどの化け物を相手にしていた時よりも、さらに恐怖の色を浮かべて青ざめる。
それは、さきほどの化け物に対してのそれが、不気味さや気持ちの悪さから来るものだとしたなら、今は、もっと根源的な──背徳や人間として許されない事柄への怖れから来るものかもしれない。
そんな警官達の有様を見て、いよいよ不愉快そうな面持ちを浮かべたシングフェルスは、彼らに一瞥だけくれると、すっと身を翻して踵を返し、歩き出した。
その一瞬の一瞥で、警官達は、まるで身体の震えさえ止まるかのように凍り付いた。
「あ、待てって、シングフェルス。…ってわけで、俺たち帰る…みたいだから、さっき言った通り、水、撒いておいてくれよね」
そして、ウインクでもしかねないような表情で、警官達に軽い会釈をすると、キリエも身軽に踵を返して、すでにだいぶ先へと歩き去っているシングフェルスの後を追っていった。
いつでも黄昏時のようなこの街も、確実に夜は来る。
その前触れのように、霧の掛かる空の一角が、空から血が滴りでもしているかのように赤く染まっていく。
滑らかな歩きで先を行くシングフェルスの足が不意に止まった。
少し遅れて、そのシングフェルスに気付いて、キリエも足を止める。
ゆっくりと、シングフェルスがキリエの方へ振り返った。
「──寄こせ」
そのたった一言に、飄々としていたキリエの顔が瞬時だけ凍り付いた。
身を翻すシングフェルスは、その一動きだけで、キリエに近寄っていた。
「ば……ばか言え、外は寄せといつも言っているだろう」
キリエの声が少し力無い。
「不機嫌になったので空腹になった」
抑揚のないシングフェルスの声に、キリエが微かに舌打ちをする。
「塒に着くまで待てないのか」
「私に待てと? 私は貴様の‘犬’だと言うわけか?」
「……そうじゃない」
そんなやりとりのうちに、シングフェルスは、ぐっと片腕でキリエの腰を引き寄せた。
「ちっ。……勝手にしろ」
キリエが吐き捨てるように言う。
確かに不機嫌を呈していたシングフェルスが、その形の良い唇の両端を、微笑するかのように吊り上げた。
──その口元に、覗く──鋭い牙。
シングフェルスが、キリエの首元に顔を埋める。
飄々としていたキリエの顔が、苦痛の色を──そして、不機嫌だったシングフェルスの顔に愉悦のような面持ちが、それぞれ交錯するように浮かんだ。