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神を殺した男

作者: 糸川草一郎

 十二月二十四日のことだった。深夜の警察署に男が自首してきた。血のついた牛刀を持って震えていた。男は、応対に出てきた警官の前のカウンターに牛刀を置くと、言った。

 「たた、たった今、かかか、かか、神を、こここ、殺してきた」

 それだけ言うと男は痙攣を始め、昏倒して口から泡を吹きはじめた。

 救急車が呼ばれ、男は救急病院へ搬送された。応急処置が良かった所為で、男はしばらくして少し落ちついた。まず男の所持品を調べたが、身元を特定できるものは何一つ持っていなかった。

 数日後、病院の一室で取り調べが始まった。

 唇が震えて言葉にならない。

 鑑識の鑑定の結果、牛刀に付着していた血液は人間のものではないことが分かった。人間に似た生物の血液のようであったが、チンパンジー、オランウータン、ゴリラ、それ以外の類人猿のものとも違っていた。

 人間の血液ではないことで、刑事のテンションは下がったが、大方ペットの猿でも殺したのだろうと、ボールペンを取り出して筆談を始めようとした。

 しかし男はペンを持つにも書くにも、手が大きく震えて何も書けない。

 「まず住所と氏名をここに書きなさい」

 男は凄い力でボールペンを握りしめているので、とうとうペンをへし折ってしまった。

 「しようがねえなあ、おい、誰かボールペン持ってないか」

 「とりあえずこれを使ってください」

 「そこのコンビニへ行って代わりのボールペンを買ってこい。何でもいいよ。いいから三、四本まとめて買ってこい」

 「す、す、すみま」

 「ああ、わかった、わかった。舌の痙攣は治ったか。何か喋ってみろ」

 「あ、あぶぶぶうぶぶぶぶ」

 「おい、顎が痙攣して舌噛んでるぞ。舌噛み切らないように口を開かせろ」

 「何をしているんですか。止めてください」

 看護婦が入ってきて応急処置をした。何とか無理やりにタオルを噛ませた。しかしこれではまるで猿ぐつわである。

 取り調べは一旦見送られ、男は病院にしばらくいることになった。取り調べはまた日を改めてすることとした。

 男の持っていた牛刀は、市内の金物店から盗難届が出ていたものと一致した。  が、その盗難の様子も普通でなかった。錠のかかった硝子の陳列戸棚から、その朝忽然と消えていた、と言うのである。陳列戸棚は店主や店員の常時いる場所から数歩のところにあり、常にいながらにして、チェックできる場所にあった。そして錠をこじ開けた形跡はなく、鍵はかかったままだった。店主は綺麗好きで戸棚の硝子を毎朝磨く。その日も店を開ける前にさて磨こうということになって、異状に気づいたと言う。その戸棚の硝子から男の指紋が見つかった。犯行時刻はその日の前夜に絞られたが、店のどこからも侵入した形跡はなかった。

 男の指紋を調べ、また血液型もわかったが、男に前科はなく、やはり身元を特定できるものはなかった。

 男の顔写真を撮影し、「この男に心当たりはないですか」というビラが作られて交番に貼られた。しかし、芳しい情報はまったくなかった。

 病室で男が暴れ出した。幻覚を見ているようであった。あまりに状態が悪いので、一旦鎮静剤を打って、精神科病院に転院の措置が取られた。

 牛刀に付着していた血液であるが、猿のものではないことがわかった。また、国内の動物園に問い合わせたが、どんな哺乳動物のものとも一致しなかった。第一、動物園で動物が殺された、または傷つけられたという情報は皆無。日本にいるあらゆる動物の血液とも照合してみたが、鑑識課は、この血液は動物のものではないと断定した。

 人間のものでも動物のものでもない血液。そんなものがこの世にあるのだろうか。

 取り調べを再開すると、また半狂乱になって暴れ出すかも知れなかったので、捜査当局は男の当面の取り調べを見送ることにした。

 十日ほどして男は、病院で平静に戻った。医師に名前を尋ねられて、こう答えた。

 「鳥島鳥男」

 「それは本名ですか」

 男は頷いた。

 男が毎日、病室で描いている絵があった。それは東京タワーの絵であった。毎日一枚、東京タワーの絵を描きつづけた。

 「スカイツリーは描かないんですか」と、笑顔で看護婦が尋ねた。すると男はものすごい形相でその看護婦を睨みつけ、

 「あぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ」と痙攣を始めた。

 結果、看護婦は総婦長からお叱りを受け、男は特別治療室に運び込まれた。幸い処置が早かったので、男の容態は大事に至らずに済んだ。

 薬を投与され、男は眠っていた。そして明くる朝目を覚ました。

 「神に逢ってきた」と彼は言った。

 その日の診察は異常な時間となった。担当医師の診察に男は何と二十時間以上に亘って神のことについて喋りつづけたのである。その内容については、警察の調書に直接書き込まれたが、諸事情あって公開できない。

 一時間後医師は、「次の患者の診察があるので、このくらいで」と言ったが、男は構わず喋りつづけ、夜になった。男はいよいよぎらぎらと瞳を輝かせて喋りつづけた。

 結局夜通し喋りつづけ、朝になった。男は未だ喋りつづけていた。その間まったく飲まず食わず、それでも男は喋りつづけた。とうとう医師が音をあげた。男は取り押さえられ、鎮静剤を打たれた。

 男は眠りつづけた。こんこんと眠りつづけた。投与された薬の効き目ならとうに切れているのに、意識は戻らなかった。

 三日経ってもまだ眠っていた。

 四日目の朝、看護婦が様子を見に行くと、男はベッドで死んでいた。特別治療室に運ばれてあらゆる措置が取られたが、午前九時二十七分、死亡が確認された。

 ベッドに紙片が残されていた。そこには「甦」とだけ書かれてあった。警察に証拠品として送られたが、筆跡鑑定士の鑑定の結果、男が病室で書いていた文字の筆跡とは違うことが分かった。では誰が書いたのか。病院内の入院患者全員と病院関係者全員の筆跡とも照合されたが、そのどれとも合致しなかった。

 遺体は解剖された後、荼毘に付された。男の葬儀は行われなかった。

 解剖によってわかったのは、彼がかつて腎炎を患ったことがあるということだった。が、治療の痕跡はなく、自然治癒したらしい。

 男の遺骨は共同墓地の納骨室に、男が生前名乗っていた名前、「鳥島鳥男」という名前の「島」という字が誤って「鳥」と記されたまま、納められている。


 以上は私が精神科病院に入院していた時伺った話である。嘘話だと思っていたが、退院した後、共同墓地の納骨室に行ってみると、言われた通り、「鳥鳥鳥男」というラベルが貼られた骨壺は実在した。

 彼が一体何を殺したのか、現在でも分かっていない。

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