真空牢雨
約ひと月。お待たせしました。
『ああ、楽しい。ああ、素晴らしい。生きるとは、痛みを伴わなくてはなァ!』
「いくら何でも、約束違くない……?」
「竜……気? ないとしかいいようがないよね~」
今、目の前にいるのは椛たちは初めて出会った黒竜そのものであった。
しかも狂喜し、いくらか正気を無くし、この闘争を楽しんでしまっている。戦いが始まる前の約束としての、『人間の姿で』戦うという約束のことなど、遥か彼方へと行ってしまったようだ。
『さぁ、さぁもっと戦おう! 本当の姿に戻ってあっさりと死んでなどくれるなよッ!』
飛ぶ。
その行為だけで、大気が、雨が、吹き飛ばされる。
嵐ともいえるこの空間における烈風など、巻き起こる暴風の前には微風にも等しかった。
翼が空を薙ぐたびに、暴風は起こる。もし椛が風を操作していなければ、三人は当に吹き飛ばされてもおかしくはなかった。それでも、物理法則に従う雨までも弾くことは叶わず、雨粒は下手な雹よりも強烈な勢いと痛みを以て椛の体を襲う。椋に関しては、どうにかして雨粒を得物へと吸収、飽和した水は地面へと流すということでどうにか暴雨には晒されてはいなかった。
「厄介すぎるわね……」
「届くことは出来るけど……」
「それをすれば、打ち落とされる、と」
飛んでいる相手ほど厄介なものはない。本来であれば投擲物、または力押しに空中へと身を投げ出すことで標的を仕留めてきたわけだが、それでもそれは自身の方が強いからできたことだ。対して、目の前にいるのは人間などよりも遥か高みに存在する竜。それも、竜王。生半可なことをすれば、あっさりと死ぬことだけは確定していた。
加えていくら自ら作り上げた環境だからといって、痛みを伴って衝突してくる無数の雨粒は確かに椛から体力を奪い、暴風を捌くことに集中することで精神力も削れていく。先ほどあれだけの大規模の現象を起こしたにもかかわらず、まだこのようなことが出来るのは奇跡というべきなのだろうか。
現に、椛の表情には疲労の色が隠せておらず、限界が近きことは明白であった。
「大丈夫、椛ちゃん?」
「大丈夫ならいいんだけど、ね!」
風の防壁を生むことで、風から身を守る。本来であれば同種のものであるために別箇として扱うのは難しいはずだが、それでも椛にはそれをするだけの才はあった。なにしろ、思考を行う精霊を召喚できるのだから、その程度のことであれば大きな苦労も必要なかった。
離れていた椋が、椛の下へと近づいてくる。そして彼女が椛のそばへとたどり着くと同時に、あれだけ椛の体を叩いていた雨の衝撃は消えていた。
「自分でやっといてなんだけど、風厄介よねぇ」
「風がなければ、この暴風も消えるんだけどねぇ」
「………………」
その言葉を聞いた瞬間、椛は硬直した。
「椛ちゃん?」
「ちょっと待って!」
「う、うん」
急に動きの止まった椛を心配した椋の声を遮り、椛は、今頭の中に走った一つの可能性を逃さぬよう思考を広げ、自身の中へと埋没していく。
「風を無くす? 可能? いや、理論上は出来る。でも、私に出来る? 出来なくは……ない。だからといってそうすることの利益は? この風がなくなるのは悪くないけれど、それでも、どちらにせよ私が真空状態を生み出すために集中していて私の状況は変わらないはず。それなら、別の角度から見て竜に通用する事象を起こすしかない。それなら、真空状態を起こた場合は何が起こる? 無風。重力。降雨。真空……。……ん? 空気がない? くうき、空気……壁……抵抗……空気……抵抗……無し……。空気抵抗がなくなる。雨。全体を覆う。竜。面積が大きい。必然的に雨のとの衝突数は高くなる……。っ、そうか、これなら辻褄は合う!」
勢いよく面を上げ、椛は自身の思考が纏まったことを確認する。
「椋、自分の周囲に水の膜を張ることは出来る? それと、その中の限られた空気だったらどれだけ保つ?」
「水の膜は、一応水が多ければ何とか。空気は、どれぐらいの大きさの膜になるかはわからないけれど、厚さを増してもいいなら、水分を分解することでそこから酸素を得ることができる……と思う」
「十分よ。水の膜は隙間なく、そして行動に制限がないぐらい厚みと広さは作っておいて。でないと、どうなるかはわからない」
「うん」
「私は今からもう一度、無茶をするわ。それまで私のこと、守ってくれる?」
試すような口調で、しかし瞳の奥では確信した光を放つ椛の言葉。
「もちろん!」
椛の意図を知っていたからだけではない。椋もまた、椛を本心から守るからこそ、はっきりと肯定を示した。
互いの瞳に迷いはない。そもそも、お互いのことを信頼しているから、ここまで三人は来れている。
「ありがとう」
「どういたしまして。悼也君は?」
椋は、未だ意識を取り戻さず横たわっている悼也を指す。
「ま、なんとかするわ。とりあえずは、五分。それぐらいは時間を稼いで。最低限目を引くように、かといって、本格的に戦っちゃだめよ」
「うん」
「それじゃ、行くわよ!」
椛の言葉を皮切りに、椋が前に出た。
暴風雨は未だに健在であり、精霊の力の加護もあり、いつも以上に勢いをつけて飛び出すが、空気の壁ともいうべき圧力が行く手を阻み、進みを僅かでも遅くする。
それでも、椋は負けることなく前へと走り、竜へと向かう。
『ハッハッハッハッハッハッハッ!!』
狂笑を上げ、椋とは把握できてなくとも敵だと認め、狂悦を浮かべてその巨躯を震わせる。
否、震わせるというよりは、膨らませる。
躰を仰け反らせ、大気を、水気を関係なくその身に取り込み、蓄積されていく。丸わかりなまでの攻撃への予兆。余裕から来るからこその溜めなのか。
「さすがに不味い!」
だからこそ、放たれた時の被害は通常では測れないだろう。
はたして、竜王の躰が膨らむのをやめた。それはつまり――
『――ッ!』
息吹が、放たれた。
「雷!?」
どうしたらこうなるのか。水と空気の混合されたはず息吹が、雷という現象を顕現させる。滅茶苦茶すぎる結果。さらに何より、雷という存在は椋の操る水の精霊の力と相性が良くない。水の濃度を増し、幾重にも圧縮させられればそれは絶縁体となり、雷をやり過ごすことは出来ただろう。しかし、今の椋は自身を中心としたほんのわずかな空間を水の壁で覆っている。さらには、これから椛が起こすであろう行動を鑑みれば、何としてでも水の壁を壊すわけにはいかなかった。何より、椛に言われたことを椋は必ず守る。
軸をずらしていることで、椋が避けたところで真後ろには人一人が存在しないわけなのだから、被害はここにある景観が無残な形を残すということだけだろう。
だがそれでも、余波だけで壁の一部が削られた。それも、水の飛沫を起こすことなく、煙を上げることなく、『消失』した。
「しゃ、洒落にならないよねぇ」
真後ろに着弾したと思しき息吹は、そこにあった地面を塵も残さず、綺麗に抉っていた。
いくら絶縁体に似せたとはいえ、そんなものなど関係なく、一切合切を消し去る息吹。一度は戦ったことのあるクリムゾンドラゴンでさえ、息吹は地面を溶かすようなものだったが、それなど比べものにもならなかった。
椋の額を汗が伝い落ちる。気を抜けば死ぬという状況下、自身の身を守りながら、親友を危険から遠ざける。
対する相手は、一体で無双を誇る存在。
精神は張りつめた糸が如く、一瞬の事象も見逃すまいと、水の壁を通した世界を視る。
『――――――!!』
「はぁ!」
咆哮。
声にもならない音を発し、竜王の躰は傾き翼を羽ばたかす。
繰り出されたのは、その巨躯からは想像もしがたい高速の体当たり。
周囲の空気を裂き、地面を抉り、椋へと向かってくる。
反応するよりも反射が起こり、自身への攻撃が突進だと理解したときには行動は終わっていた。
自身の周囲に存在する水の壁で以て相対するではなく、避ける。
あれは巨大だ。空中に逃げるという方法は得策ではない。かといって、このまま呆けていれば直撃し体は無残なこととなる。仮に避けたとしても、余波によって飛ばされるだろう。
故に、『潜った』。
全身の力を総動員し、自身の真下を叩く。水によって脆くなっていた地面は小さな亀裂を生み出し、加えて『広げる』という意思を持った水が穴を抉り、人一人分を呑み込めるだけの穴を作った。重力に従い椋は穴へと落ち、真上に空いた穴は水が塞ぐ。それは即席の防空壕のようなものだった。
その数拍後、竜王が頭上を通り過ぎた。蓋の役割をしていた水が細かく振動し、あれだけの巨躯が高速移動した際の衝撃がどれほどのものなのかを否応にも実感させられる。
『どうした? 抵抗しろ! 足掻け!! 楽しませろ!!! フハッ、フハハハハハハハハハッ!!!!』
「無茶言わないでよね~」
今椋がすべきなのは時間稼ぎ。つまり、無理に戦う必要はない。しかし、あの竜王の気を常に自身に向けさせていなければならない。特に、現在の竜王は人物の区別がついていないのだから、標的が一度変わってしまうと、もう一度変えるのが大変になる。
だからこそ、気を惹けるだけの攻撃を繰り出しながら、逃げ続けなければならない。格下の相手ならば簡単であり、そもそも必要のないものではある手法が、格上どころか次元の違う相手に行うともなればこれほどまでに命がけなことはない。
「といっても、こうなんていうか、やっぱ苛つくよね~」
竜王が通過するのはほんの一瞬だった。
すぐさま椋は穴から脱出。飛んで行ったであろう竜の方を見れば、中空にて旋回し、再び地面へと躰を向けているところだった。
距離は離れており、一足どころか二足三足あってもそこには辿りつけない。空の王者としての特権とはつまり、あれを指すのであろう。
しかし、そう何度も同じ攻撃をされるというのは気に喰わない。否、それ以上に一方的という構図が椋には耐えられない。
「よし、殺ろう」
意気込みはそれぐらいの方がいい。どうせ、こっちがその気でも死んではくれるわけがない。たぶん。そう心の中で納得し、これも一つの信頼だよね、などと椋は自己正当化する。
それに、あの狂竜には目にものを見せてやりたい。現在の椋の目的はそこに集中していた。
竜と渡り合うための精霊の力は十分すぎるほどにある。あとは、彼女が扱い切れるかだけの問題だ。
まだ本格的な『力』を使い始めて間もないが、なんとなくでも感覚はつかめてきている。命がけであればあるほどに生命は進化が促されるというが、そんな錯覚が実感できるほどには。
再度の突進。来るまでの距離は先ほどより離れており時間はあるが、それでも差としての時間は数秒にも満たないほどだ。
しかし、そのほんの少しの時間が全てを変える可能性を秘めている。
突進における何がしかにあの竜は技能も何もない。つまり、先ほどの焼きまわしに他ならない。ならば、対策は簡単であり、対処は容易である。
「……ゥ」
浅く呼吸。現象をイメージする。より強く。
イメージするは壁。この無数に存在する雨の壁。壊れても構わない。ともかく、邪魔をする為の壁。
大気に存在する雨粒たちが、変化する。小さな粒は集まり、大きな粒へ。大きな粒は収束し、薄い水膜へ。薄い水膜は幾重に重なり、ぶ厚き壁に。
『無駄だ無駄無駄ァ!!』
竜王は、そんなものなど意に反さない。小さな抵抗など、無いに等しい。
そう、故に、それは慢心であり、油断となる。
壁にぶつかる。薄紙を破くかのように、突き抜けようとした。
しかし――
『――ヌゥッ!?』
一瞬の抵抗。壁は、一つの存在としてあったのではない。何重にも水の膜は存在し、それは小さな抵抗を何度も何度も何度も、竜王に与えてくる。一枚破れば、また同じように一枚。それが、無限に感じられるほどに、竜王の躰は違和感に包まれる。
そして、鬱陶しくもあった。
『小賢しい真似を!』
もともと理性などほとんど存在してない。苛立たしいことには直情的に、怒りを表す。
だから気づかない。
自身の躰に、破ってきた水が纏わりつき、それもまた竜王の突進の妨げをしていることに。
最初とは比べものにもならないほどに、突進の速度が落ちていることに。
何より、本来の標的である、椋の存在を失念していることに。
「シッ!」
その声が聞こえたのは、竜王の頭上。
低空での突進を行ってきた竜王はそもそもの高度が低く、椋が飛び越すには簡単な位置であった。
椋が行ったのは、壁を囮とするもの。時間を稼ぎ、自身の存在を隠匿し、隙を突くためのもの。
見事にそれは成功し、今、初めて椋は空の王者から制空権を奪った。
竜王の頭部へ向けて、椋は落下する。ただ落下するのではない、得物を纏う水は先ほど以上に増大し、肥大し、最初に握っていた得物を覆うだけであった水は、柱ともいうべきまでの極大の棒となっていた。
それを重力に任せ、落ちる。
圧収縮されながらも十分すぎるほどにぶ厚い得物。ただ勢い任せに、竜王へと、叩き込んだ。
『――――――ヅァッ!?』
声にならない声。それは先ほどの息吹を放つ時のようなものではない。
驚きに満ちた声。
自身が最も信じられないだろう。竜王が、地に伏しているなどと。
地面は陥没し、頭だけが、土に埋もれている。
圧巻ともいうべき、光景だった。
「ふぅ」
竜が土に埋まって少し、椋は危なげなく地面に着地する。
元々高所からの飛び降りの際に衝撃を軽減させる技術や訓練を行っていた椋には何の心配もなかった。
「んー、やりすぎた?」
少し心配になる。さすがに、頭を地面に陥没させるのは不味かったかと、思った。
『……ッ……ァ……ェ』
「あー」
が、それも一瞬にして霧散した。
うめき声が聞こえたから、だけではない。
その声が、先ほど以上に、怒気を孕んでいたからだった。
何が起きても対処できるよう、椋は椛の盾になる位置に移動。同時に、先ほど同様の水壁を作る。
地面が揺れた。
竜王の黒鱗は震え、全身が動こうとしているのがわかる。
『ガァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
咆哮。怒りを存分に蓄えた、凄まじい咆哮。もし何の準備もせずに聞いていれば、鼓膜がおかしくなっていただろう。
「さすがに怒っちゃったか~」
『ギィィヤァアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!』
咆哮を上げ、我を完全に忘れ、狂竜は翼を動かし、己の躰を遥か上空へと運ぼうとする。
「残……念、それ以上は、飛ばせないわよ」
しかし、そこに声が響いた。
椋の声ではない。その後ろにいる、ずっと集中していた少女の声だった。
「椛ちゃん!」
「ありがと、椋。なんとか上手くいったみたいね」
『ギゥ!?』
変化は、それこそ訳が分からなかった。
先ほどまで翼を雄々しく羽ばたかせ、飛んでいた竜が、一瞬にして躰の均衡を崩し墜落したからだ。
激しい衝突音と振動を発生させ竜は地面に這いつくばる。
『ガァ! ギッ! グルァ!』
だが、そんな状態を甘んじる存在ではない。あがき、竜王は立ち上がろうとする。
しかし、それは叶わなかった。
まるで何かに押さえ付けられるかのように翼も腕も上がっておらず、躰は地面に縫い付けられていた。
「椛ちゃん、あれどいうこと?」
無論、疑問に思っていた椋は椛に聞く。
「一種の牢屋よ」
「牢屋?」
「ええ、牢屋。ちなみに格子はこの、雨よ」
「???」
「正直、椋にこれ説明してもわからないのよねぇ……」
椛が行ったのは真空の空間を生み出すことだった。
元来、世界には摩擦が存在する。地面にはもちろんのことだが、空気にも存在する。それが、空気抵抗だ。
理論上、雨が高所から降る場合、この空気抵抗が存在していないと雨はとんでもない速度によって地面に叩きつけられる。それを現実に起こし、さらにはその無数の雨による一種の結界を作った。さらに、この真空状態を起こすことで竜の飛ぶ動作を封じた。翼を用いて飛ぶということは、翼が生む斥力によって躰を上へ上へと運んでいく。ならば、その斥力を生むための存在である空気を無くしたらどうなるかを考察した結果、翼をどれだけ羽ばたかせようとも、飛ぶことは出来ないという結論に達したのだ。その推論が今、証明された。
「ともかく、これであの竜王さんは身動き取れなくなる、っていうわけよ」
目の前でもがく竜王。
その光景を以て、『命がけの喧嘩』は幕を落とすのだった。
物理法則無視とかそういったのはこういった世界ではよくある話です。
なお、今回出てきた様々なものも推論のみで成り立っているので、現実とは大きく異なることがありますので、ご了承ください。




