雲は集い嵐を起こす
「これじゃあ足りない……」
呟いたのは椛だった。
目の前では親友と竜王が、正面から打ち合っている。
互いの打撃は激突し、行き場のない力は両者を弾くことで逃げていく。だが、両者は弾かれた勢いすら利用し、自身を加速させていく。
一見、互いは互角のように見えるだろう。
「どうにかしないと……」
しかし、それは間違いである。
そもそも、竜との打ち合いを可能にしているのは精霊の力だ。椛にも椋にも悼也にも、精霊を使役する力はある。しかし、精霊自身の力を持っているわけではない。故に、ほぼ零から瞬時に十にすることは出来ない。一から二にすることは出来ても、一から五へとするには大きな時間を必要としてしまう。
それが人間としての限界を表すものであり、それが竜と人間の絶対的な差である。
そして今、椋はクロアと打ち合うことで十は削られていく。削れていくことで十は減り、既に底は近い。
いずれ零へとなれば、この打ち合いは終わる。椋の敗北を以て。いや、負けるだけなら幸運だ。最悪、椋は死ぬ。
「椋が死ぬのだけは、阻止しないと……!」
椛は思考する。
頭を回転させる。
出来ることと出来ないことを瞬時に洗い出す。
まず、椛が両者の間に割り込む、または椋を援護するよう攻撃を仕掛けることは絶対にできない。今にも崩れそうな均衡を自らの手で崩すなど論外である。
では、椋に足らない水を与える。それも難しい。先ほど同様、集中している場所に下手な変化を起こすわけにもいかない。起こすのであれば、一瞬にして劇的に、大規模に行わなければならない。
その一心で椛は打開策を模索する。
「………………」
考えれば考えるほどに、いくつもの案が生まれては消えていく。
額からはいつの間にか玉の汗が浮かび上がり、重さに耐えられなくなって汗が頬を伝う。
そこに僅かではあるが風が吹き、汗のなぞった個所を冷やした。
乾いた風ではなく、水気の増した、体に纏わりつくような風。
「あ……」
その瞬間、椛の中で『ソレ』は浮かび上がった。
途方もない、果てしなく実現など不可能に思えるようなことを。
先ほど自分で思いつきながら、あまりにも非現実的すぎて頭の片隅に追いやった方法を。
「こんなこと……いや、でも――」
「――ハァッ!」
「――くっ!」
「椋!?」
今も、親友は全力を賭して竜王と戦っている。それを見た瞬間に、椛の中で躊躇いは無くなり、覚悟が生まれた。
「悩むぐらいなら、やってやるわよ!」
実現できるなど、微塵にしか信じられない。しかし、その微塵にしか信じられないことに、挑戦し、打ち勝つしか方法は存在しない。
「集中しなさい……私。風莉ッ」
『承知した!』
傍らにいた風精霊は、主の言葉を意思として受け取り、行動する。
そして椛もまた、自身に言い聞かせ、集中する。
平凡な想像力では実現などしない。
簡素な集中力では保たない。
真っ当な神経では考え付かない。
それを、現実へと顕現させる。
自身が機械であったなら、回路が焼切れるほどに脳と神経は働いているのではないかというほどに集中することで。
全身から汗が噴き出す。しかし、そんなことは気にも留めない。
一心に、『ソレ』を起こすことを思考する。
漠然と想像などしない。明確に、正確に、物理法則に従うことはなく、しかし物理法則に辻褄を合わせながら。
風が吹いた。
弱い風だ。この山脈の頂上であれば、当たり前に吹いているような風だ。
また風が吹いた。
今度は、椛の髪が靡く程の強さで。それでも、天候によってはこの山脈では当然のように吹く風だった。
再度風が吹いた。
踏ん張りを入れなければ、吹き飛ばされるほどの強さだった。
さらに風は吹く。絶え間なく。それならば、何も驚くことはない。だが、また風が吹く。
微風から強風に、強風から暴風に、暴風から烈風を超え、強さは増していく。
既に、その風は椛の体を吹き飛ばすぐらいならば簡単に出来るほどの規模であった。それでも椛が吹き飛ばないのは、その風が彼女を中心に吹き集まりながら、彼女を中心に上空へと吹き上がる風だからだった。
変化は、最初から起こっていた。
彼女の周りにではない。彼女の、『上空』に。
吹き荒れる風は上空で集合し、ぶつかり合う。
そこに、『雲』が生まれた。
小さく希薄であった雲は、吹き荒れる風に飛ばされることはなく、その存在を濃密にしていき、肥大していく。黒く、黒く。
山脈には影が差していた。
日の光を遮るだけの、ぶ厚い雲が存在することで。
「あ?」
「これは……」
その変化に、打ち合い、集中していた二人も気づく。何せ自身の視界が暗くなっているのだから、気づくのは当たり前である。
しかし、それでも両者の動きが止まることはない。
それでも――
「はっ、マジかよ……!」
「椛ちゃん」
誰がこの現象を起こしたことだけは、わかっていた。なにより、吹き荒れる風がそれを証明していた。
「やって、……やったわよ……!」
疲労した表情でありながら、やり遂げた表情を浮かべた椛。
その言葉と同時に、ついに『ソレ』は起こる。
黒い斑点が、地面に浮かび上がった。
それを契機に、次々に地面には黒い斑点が増えていき、やがて全てが黒く染まっていく。
乾いていた地面は濡れていた。
椛の髪からは水が伝って落ちていく。服は肌に張り付いている。椋も同様であり、クロアもまた艶のある髪はしとどに濡れていた。
世界に、水の打つ音が響く。
そうそれは、今この瞬間において無限を表すだけの、『水』を発生させる自然現象、『雨』だった。
元来、人間の手によって自然現象を起こすなどという行為は土台実現不可能な話である。
自然の調和が存在する。精霊の流れによって雨は降り、日は照る。だからこそ、精霊を扱うことで多少の自然現象に干渉が人間はできる。それでも、瞬間的に干渉は起こり、やがて現象は元へと収束していく。だからこそ、『雨』という現象は埒外な現象であったのだ。
だが、椛は『ソレ』を実現させた。
否、それ以上の副産物を生み出していた。
「ぬっ!?」
「うわぁ!?」
世界が白く染まる。
同時に、全てを砕かんとする音が響き渡る。
雷光が閃き、雷鳴が轟き渡る。
椛たちの世界では、神の力を象徴とする現象。
だがそれは、物理現象において空気中の塵芥、極小の氷晶が無数の衝突を繰り返し生まれた静電気が蓄積し発生するものだ。
そして、椛は雨を降らせるために急激な雲の発達を促した。それが、雷を発生させたのだ。
「椋!」
「うん!」
しかし、椛にとってはどうでもいい結果である。必要なのは、水を用意すること。それができた以上、彼女はするべきことを果たしたのだから。
椋は集中する。親友がこれほどまでの手助けをしてくれた。それに応えるために。
幸いにも、先ほどの雷鳴と雷光によってクロアの動きは一時的に止まっていた。その好機を逃すわけにはいかない。
想像する。
雨粒は惹かれるように椋へと収束し、水を成し、握っていた得物は急速に水を纏い、これだけの水に喜ぶかのように、幾何学模様は強い発光を発していた。
「よそ見は良くないよねっ!」
「っ! そうだったなぁっ!」
あくまで正面から、椛はクロアと相対する。
クロアもまた、自身の不始末を思い出し、目の前にいる椋へと打突する。
ぶつかり合う互いの一撃。それは、先ほどまでと同様の、弾き合いを起こすものと思われていた。
「ぐっ!?」
しかし、そうはならなかった。
椋の打ち払いがクロアの打突に押し勝ち、クロアの体を後退させる。
「ハァッ!」
相手が仰け反ったのを見逃す馬鹿はいない。
椋は一歩踏み出し、雨の中でありながら目にも止まらぬ突きを放った。
「チィ!」
目の前で放たれれば、距離など把握できない点打撃をクロアは体を反らせることで『回避』。
だが、その選択肢が椋に追撃を許した。
クロアの眼前を通り過ぎた得物が、脈を打つ。同時に、先端にあった水球は形を変形させ、鎚が形成された。
「えぇい!」
水鎚は、振り上げる動作を必要とせず、真下へと……クロアの顔面へと、打ち下ろされた。
激しい衝突音と衝撃音が鳴り響き、濡れた地面にクロアの躰はめり込む。
これが、初めてクロアへと与えたまともな一撃だった。
椋は構えなおす。水鎚も水球に戻っていた。
これで、終わるわけはない。
「は、はは」
それを示す通り、陥没した穴からは、笑い声が響く。
「ハハハハハハハハハハッ!!」
笑い声は大きくなる。
同時に、めり込んだ場所の土が、隆起し、盛り上がる。
『ハハハハハハハハハハハハハハッ』
人間の女性の声ではない。脳に響く、野太い声。
『手』が、穴から這い上がってきた。いや、『腕』と表現することが正しい。
最初は小さな、それこそ人間と変わらぬ大きさの『腕』が、徐々に大きく、黒き鱗を纏いぶ厚くなっていく。
時間にして一分も掛かってはいない。それでも、徐々に大きくなるさまは、進化の過程を目にしているかのようにも錯覚した。
『久々だ、我に痛みを与えたのは』
そして、目の前にはクロアの本来の姿が顕現していた。
黒鱗紅眼の、竜王が。
『さぁ、まだまだ楽しもうではないかッ!』
竜王の本気。
それを以て、二回戦の幕が開けた。
※この作品はフィクションです。この作品における様々な事象が正しいと鵜呑みしないでください。本当のことが知りたい方はしっかりと調べましょう。
などということで、この章も戦闘が終われば八割は終わったようなものです。といっても、戦闘自体はもう少々続きますので、それまでお付き合いください。




