本来は温厚であり基本は草食
くまー
「うわぁあああああああ!!!」
声を上げる。
自分でもこんな声が出ることにも内心驚いてはいたが、そんなものは今目の前にある恐怖によって塗り潰されており、それどころではなかった。
男性は尻餅をついて後退る。しかし、それで現状が解決するとは微塵にも思っていない。それでも、そうしなければいけないような気がした。
「ぐるるるるる」
そびえ立つのは、二足立ちでありながら狂暴で凶暴な魔物。
全身を覆う茶に紅の混ざった毛皮。その紅は斑点だったり線だったり波打っていたりと、返り血を想像させる。
魔物の目は男性を捉えており、威嚇なのか襲うという意思表示なのか、両腕を上げ今にも覆いかぶさらんとしている。
口から洩れる荒い息に、覗かせるのは鋭い牙。噛まれればただでは終わらず、こちらを食い千切るまでは離さないだろう。爪もまた鋭く磨がれ、掠めただけで皮膚は綺麗に裂かれるが想像できる。
「く、来るなぁ! 来ないでぇ!!」
突然の遭遇と、視界に存在を入れたことによる驚き。そして、魔物からは殺気というものが伝わってくる。それだけで、背中からは汗が流れ落ちていき、頭の中はまともに動いてくれなかった。
「ぐるぉおおおおお!!!」
吼える。
警戒をしながら対象を見極め、狩れる相手だということを魔物は確信した。
一歩、重たい足が地面に踏み込む。
「ひっ」
魔物動いたことで男性も短い悲鳴を上げ、両手を顔の前に出し、視界を遮った。
自分が、ここで殺されるということを確信して。
悲鳴が聞こえたと同時に、悼也が前を走り、後ろに椋、椛が続いた。
なぜ未開拓領域に悲鳴が聞こえたことに疑問を覚えたが、それよりも早く悲鳴の対象を助けることが優先として一旦疑問を頭の隅に置いた。
並び立つ木々を抜け、悼也が前進しながら、椛は椋の背を追いかけながらも所々の木に幹に標を施していくことは忘れない。万が一にも遭難しないためだ。
「悼也、あとどれぐらい!?」
「もう少しだ!」
「……見て椛ちゃん、あそこ!」
「あれは……ッ!!」
走る最中、椋の指さした方面を椛は視る。
そこに、恐らくは悲鳴を出したであろう者がおり、状況があった。
ここからでも目立つ金色の髪に、色白い肌。身長は悼也と同じぐらいだろうか、大人と子供の合間にいるぐらいの年齢かと思われる。
その少年は今尻餅をついており、少年の目の前には二本足でそびえ立つ獣がいた。
獣が少年を襲うというのはすぐにわかった。それは何より、殺気立っているからだ。ああまで殺気立っているのがなぜかはわからない。椛の見立てではあの獣は『熊』だ。本来熊というのは温厚であるはず。それなのに、あそこまで殺気立っているのかがわからなかったが、すぐにその理由は判明した。
「魔物になってるわ!」
そう、熊は魔物となっていた。瞳に理性は宿しておらず、通常の獣とは違う禍々しさのような、明らかに獣とは一線を画く『なにか』があった。
となれば少年が襲われるのは時間の問題である。生来の生物としての警戒心は本能として残っているためまだ襲い掛かってはいないが、大丈夫だと判断されてしまえば次の瞬間にでも少年は殺されるだろう。
目の前で自分と同じ形をした生物が殺されるものほど気分の悪いものはない。それ以上に、ここで助けなければいけないような気がした。
「悼也、どんな手を使ってでもあの魔物の注意を私たちに向かせて!」
「わかった」
ひとまずは、少年から椛たちに注意を移す。そうすれば少年の助かる確率は大幅に増えるだろう。
悼也の行動は早い。咄嗟に腰に掛けている金棒の一本引き抜くと、走りながらにして魔物へ向けて投擲した。
空を切って真っ直ぐに金棒は飛び、狙い誤らず棒は魔物の頭部にぶつかった。
「ぐろぅぉ」
魔物が突然の頭部への衝撃に呻く。だが大した痛みは無かったのかすぐに立て直し、首を左右に振って己に危害を加えて者を探す。
さらに、悼也はもう一本の金棒を投擲して、今度は魔物にわざと気づかせるように胴体へとぶつける。
果たして魔物としてはそれで十分であり、悼也の存在が魔物にとっての外敵であるということが認識された。
「ぐるぉおおおおおおお!!!」
怒りを込めた咆哮と殺気が、悼也に向けて浴びせてくる。
余波として後ろにいる椋と椛も間接的に殺気を浴び、椋の表情は硬くなり、椛の表情は緊張感が増した。
相手に逃げ去る意志はない。
ここからは人助けではなく。
ここからは、魔物の討伐だ。
体長は椛の知識として知っている熊の約二倍。巌のようなグリュークよりも一回り以上は大きい。
椛も今まで見てきた二本足で立つことの出来る魔物としては大きい部類にはなるが、それでもかつて相対したクリムゾンドラゴンよりは小さく、かつ環境もあの場所とは違い快適だ。
注意すべきは図体の大きい生物はどれも力が強い。一撃でもまともに喰らってしまえば重傷は免れないだろう。当たり所が悪ければ即死する。
「視界を奪うわ、目を瞑っていて!」
先制を仕掛けるために、椛は素早く皮袋から球体を取り出すと、魔物の足元手前に投げつける。
瞬間、閃光が辺り一面を白く染め上げた。
「ぐるぉおお、おおおおおおおお!!」
椛のすることを把握している椋と悼也は腕で閃光を直視せず、狙い通りに魔物は閃光を浴びて視界を潰された。体をのけ反らせ、苦しげに喚く。
その隙をついて、椋と悼也が魔物に肉迫する。
「やぁ!」
「シッ!」
椋は太腿に巻いてある帯から短い棒を組み立てて一本の長い棒にし、魔物の胴体を突く。悼也は拾い上げていた金棒を両手に握り、魔物の膝を表と裏から殴りつけて駆け抜ける。
「ぐらぅぁ!?」
二人の攻撃は手ごたえありで、片膝を殴られたのちに強制的に曲げられ、さらには胴体を突かれたことで上体を崩して転倒した。
といっても倒れた瞬間に攻めることは出来なかった。
倒れたときに魔物が我武者羅にもがき、どう腕を振り回すのか予想できないために危険だからである。
「あなた、今のうちに少し離れていてくれる?」
「え? ……あ、はいっ!」
「一応、他のところから魔物とか来ないように、この子をつけるわ。……風莉!」
『なんじゃ?』
「精霊!?」
「風莉、この子を少し離れたところに誘導してあげて。それと、危害を加えそうな魔物や獣が現れたら追い払うか私に知らせて」
『承知した』
それでも、十分な時間稼ぎにはなるため、椛はその間にまだ尻餅をついている少年に手を貸して立たせ、巻き込まないように離れさせる。
次に、風莉を呼び出して少年の護衛にする。この時何故だか少年は精霊を見て驚いていたが、椛も気が動転しているから驚いただけだと思って何も言わなかった。そして風莉を少年につかせたのは、どこかに行かないための監視という意味も兼ねていたので、悟られないようになるべく会話を避けたというのもあった。
『行くぞ』
「わ、わかりました!」
すぐに風莉は少年を連れていくと、付近に残されたのは椛、椋、悼也。そして魔物だけ。
丁度良く魔物は目が視えるようになったのか、ふらつきながらも立ち上がる。
「ぐるぁおおおおああああああああああ!!!」
先ほどよりもさらに、怒りのこもった咆哮が発せられる。そして、二本足だったのは前足を地につけ、四本足になった。
さらに、力を溜める間もなく突進する。狙いは悼也だ。
真っ直ぐ直進に、猪突猛進。
脇目もふらず、目標に向かって駆ける。
「ふん」
だが、そんなわかりやすい突進を悼也が当たるわけがない。
魔物が悼也にぶつかる寸前、悼也は大きく跳躍し魔物の飛び越える。
目の前で突然の目標を見失った魔物は咄嗟に止まることも叶わず。速度を維持したままで一本の木に衝突した。
「うわ……」
魔物と木が衝突した瞬間、木が折れた。改めて、まともに喰らってはいけないと椛は認識して呆れの声を洩らした。
木にぶつかったおかげか、まったく損傷を受けた素振りの無い魔物は木の藻屑を身を震わせて払いながら、悼也の方を再度見定める。どうやら、今のところは悼也しか眼中に無いようだ。
そしてどうやら、魔物は体が強化されても、元になったであろう熊の動きと大きく変わったものは無いようだ。このことは大きな情報だ。
魔物はまったく懲りていないのか、またも悼也に向けて突進した。
「椋、次お願いね」
「は~い」
椋もまた、魔物がどれほどの殺気と怒気を放っていても獣という枠からはみ出しきれていないということに気付いたのだろう。口調はいつもの様に柔らかくなっている。
そして二度目の突進は、悼也が左に体をズラし、さらには金棒で顎をカチ上げた。
だらしなく涎を撒きながら開いていた口を無理やり閉じさせられ、突き抜けた衝撃は脳を揺さぶって魔物の平衡器官を狂わせる。それに合わせるように椋も跳び出した。
一時的な脱力状態は決定的な隙を生み、脊髄動物にとって最も重要な急所である首、そして首があり頭の存在する生物に必ず存在する脳を破壊することにおいて今の状況こそが好機。
椋は魔物の頭頂に掌底を、悼也は魔物の脊髄に金棒を――
「ハァ!」
「ハッ!」
叩き付けた。
「ぉぉ…………」
首の骨の折れる生々しい音が周囲に響き渡り、音はしなくとも確かに魔物の脳は椋の掌底によって壊された。
魔物はか細い呻き声を上げた方ともうと狂気と怒気に染まっていた目は濁り、全身を細かく痙攣させると、力尽き地面に伏したのだった。
「さて、もう大丈夫よ。出てきて!」
「は、はい!」
完全に絶命したのを確認し、椛は少年がいるであろう方向に呼び掛ける。すると少年も戸惑った声をしながらも木の陰から姿を現した。
「………………」
「怪我は?」
「ありません」
「そう……」
「ありがとうございました」
「うん。大事がなくてよかったわ」
どうやら、何事もなかったようだ。それを確認できて安心した。
「あ、あの……」
「ん?」
椛が安堵していると、少年は言葉を詰まらせながら、椛に声を掛ける。
「助けてくださったのには感謝しています。
それで失礼を承知でお聞きになりたいのですが……」
「どうぞ」
「御三方はもしかして、『人間』ですか?」
「は?」
少年のいきなりの質問に、椛は面喰った。それは椋も悼也も同様で、椋は目を丸くして、悼也は眉根を僅かに上げて。
「それは当然って、なん――」
動揺しながらも、当然の事なのだからどうしてそのような事を聞くのか尋ねようとしたとき、椛もまたあることに気付いた。
目の前の少年にはあって、椛たちには無いもの。そして、目の前の少年には無くて、椛たちにはあるものに。
「えっと、こっちも聞きたいことがあるんだけど……」
「はい、どうぞ」
「もしかして……『エルフ』?」
「『エルフ』?」
そう、椛の呼んだ種族名称のエルフ。
その代表的特徴である、尖がった耳があったのだ。
「あの、『エルフ』というのは僕のことを言っているのですか?」
「私たちの指している『エルフ』っているのはね――」
「はい」
「――髪が金色で」
「金色ですね」
「――肌が白くて」
「確かに白いといえますね」
「――耳が尖っているの」
「『人間』は耳が丸いのですね」
「………………」
「どうしたんですか?」
言葉もない。
まさか、探していた『エルフ』が本当に存在し、今目の前にいるのだから。
だが目の前の『エルフ』の少年はまったく驚いていないのかなんなのか、不思議そうな顔をしているだけだ。
「あなたの言った通り、私達は『人間』って分類される生物ね。そして、あなた達のことを私たちは『エルフ』って分類しているの」
「そうだったんですか」
「ええ。だからって『エルフ』だとか『人間』だとか呼び合ってるのもアレね。
初めまして。私の名前は椛。あなたは?」
「僕はフィップルと言います」
「ボクは椋だよ~」
「悼也だ」
「よろしく、フィップル」
「はい。モミジ、リョウ、トウヤ」
エルフの民であるフィップル。
彼との出会いは、命懸けでありながら気の抜けたものだった。
魔物化した獣は魔獣と総称されてたりもします。
魔獣は獣よりも身体能力や体格が上昇したとお考えください。




