森走り、逃げる男を嘲笑う幻猿
新章開始になります。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
森の中を走るものがいる。
「はぁ、はぁ、ぜぇ、はぁ」
走る息遣いは男のものであり、ところどころ後ろを一瞥しては必死の形相で複雑な道なき道を駆ける。
「きぃきぃ!」
「ひぃ!」
男が走る中、森の中から高い鳴き声が響く。
男はその声を聴くと、額からにじみ出ていた汗が噴き出し、顔の血色が悪くなる。
「きぃきぃ!」 「きぃ、ききぃ!」 「きききっ!」
未だ森から響く声はまるで走る男を嘲笑うかのように鳴き、さらにそれは複数いることを嫌でも知らされる。
男は辺りを走りながら見渡すが、笑う者の姿は視えず、木々の葉が擦れる音と笑い声は男の精神を蝕んでいく。
そしてそれは、一つの失敗を生み出す。
「うわっ!?」
男は上を見ることにかまけ、下を見ることを怠ったせいで、一部盛り上がっていた木の根に足をひっかけ、転倒した。
加えて足を捻ってしまったらしく、男は転んだまま体を丸め、足首のあたりを手で押さえる。
「う、うぅ……」
「ききっ?」 「ききぃー!」 「ききゃっ、ききゃきゃきゃきゃ!」
動けない男を確認した鳴き声が、獲物に近づいてくる。
ずたっ、と地面にそれなりの重さである生物が降り立ってくるが、その姿は確認できない。
しかし、そこにいることはわかる。
ざっ、ざっ、ざっ、ぱきっ、土を踏む音と落ちている枝を踏む音が、男の周りから着実に近づいてくる。
そして、その音が男の耳元で聞こえるようになり、遂に男はその正体に気づいた。
「きききぃー!」
猿なのだ。
それも、ただの猿ではない、身体は斑な緑色をしており、足元は茶色や緑。それだけではなく、時間が経つごとに徐々に徐々にだがその模様は変わり、まるでその空間に溶け込むように、猿は存在した。
「み、ミモジュ……」
男の呟いた言葉はその猿の名前だった。
背丈は男の膝ほどしかないが、集団で行動し、何十という数で群れを成す雑食性の魔物である。
現在は三体のミモジュが男を囲うようにしているが、直に仲間もやってきて、喰われるのだろう。
ミモジュは基本的に獲物を殺さない。いや、結果的に死んでいるのだが、殺すまでの過程がムゴい。
まず、ヤツらは鋭い牙と歯によって獲物の最低限の動きを封じる。
そして獲物が満足に動けなくなったとき、何十という数で獲物に殺到し、生きながらにして獲物を食いだすのだ。
死んでいない獲物はリアルタイムで痛みを感じながら四肢の先から中心へと食われていき、最後に頭を残されて獲物は死を迎えるのだ。
「ききぃー!」
男を囲うミモジュの一匹が、男へと向けるのではなく、森に向けて鳴く。
恐らくも何も、仲間を呼んでいるのだ。
「ひ、ひぃ!」
男も、なまじミモジュの獲物への態度を知っているからこそ、この後やってくるであろう恐怖に、涙を流し、鼻水をぶちまけ、男の穿いているズボンの股間は濡れ、それは水たまりを作って服をさらに濡らしていく。
そしてそれを、周りにいるミモジュ二体は嘲け、馬鹿にするように手を叩き、高い笑いを上げる。
「きぃ? きぃ、きききぃ!」
だが、そこで異変が起こった。
仲間を呼んでいたミモジュが、首をかしげ、男を笑っていた二体のミモジュに何かを伝える。
そしてそれを聞いた二体のミモジュは、お互いの顔を見合わせ首をかしげる。
「アンタ達が呼んでるのって、コレ?」
突如、森の中から女性の声と思わしき声が聞こえ、それと同時にお互いに顔を見合っていたミモジュの間に何かが飛来し、ミモジュ二体はそれに驚いて後ろへと跳ぶ。
「ききききききーっ!?」 「きき、ききききき、きぃ、きぃ!」
飛んできたモノ、それは薄紫色の毛に茶色い体皮の、絶命した猿だった。
そしてこれこそ、ミモジュ本来の毛色であり、肌の色なのだ。これを知ることが出来るのは、ミモジュが死んだときか、意識の無い時だけである。
仲間が死んでいることを確認したミモジュは驚嘆と怒りの声を上げながら、仲間の飛んできた方向を見やる。
「とりあえず、仲間は来ないわよ。椋と悼也が、いま動いてくれてるから。そんで……」
「ききぃー!」 「ききっ、ききぃー!」
「わ、た、し、の。仕事はアンタら、よ!」
「きぃ!?」 「きぃ?」
木の枝上には一人の少女が居り、ミモジュへ向けて話す。
さらに、いまだ興奮しているミモジュに、どこにいるかも遠目からでは視えないはずの少女は、二体のミモジュそれぞれの体側面へとなにかを投擲。見事に当たると同時に、真っ赤な液体が飛び散る。
「さぁて、これでアンタたちのお得意の『かくれんぼ』は通じなくなったんだから、覚悟しなさいよ」
少女が投げたのは落ちにくい染料。それを、ミモジュの特性を潰すのには十分すぎるものだった。
何せ森は、緑と茶色が豊富な場所であり、その中でも異色を放つ赤というのはそれだけで目立つ。
木から飛び降りた少女は危なげなく地面へと着地し、ラグをほとんど持たずに染料で汚れているミモジュの一体に肉迫。
「はっ!」
「ききぃ~!」
走り込み、ミモジュの目の前に出ると同時に水面蹴り。
体の大きさがそこまで大きくないミモジュにとって、この蹴りは足ではなく胴体へと当たり、軽い体はそのまま吹っ飛ばされる。
「きー! きぃー!」
仲間の一体が吹っ飛ばされたのを確認し、もう一体の汚れたミモジュが背を向けている少女へと跳びかかり、鋭い爪で切り裂こうとする。
しかし、少女は背中に眼があるのかとでもいうように前方へ前転。ミモジュの攻撃は外れる。
「おちなさい!」
「きぎっ」
少女は前転からのしゃがんだ状態から後方へとバック宙。空中にて足を伸ばし、その爪先はミモジュの頭部へとクリーンヒットする。頭頂部を蹴られたミモジュは、地面へと叩き付けられ気絶した。
男はその光景をみて、言葉を失う。
自分よりも下であろう子供。それも少女が、こうもあっさりとミモジュを倒しているということに。
「さて、こっからが厄介ね」
「え?」
「きぃー、ききー、きぃー!」
いま少女が倒したミモジュの数は二体。
男を囲っていた時にいたミモジュの数は三体。
つまり、まだ一体いるのだ。それも、目印も何もつけられていない無傷の一体が。
仲間二体がやられている間に、残りの一体であるミモジュは動いていた。
木に木に、枝に枝に。身軽な身体を活かし、視えないという特性を活かし、縦横無尽に少女の周りを動き回る。
ここでこの一体が逃げなかったのは、仲間の敵討ちということなのだろう。
「きー!」
飛び回り移動する中、ついにミモジュの鳴き声は攻撃を意図するものへと変わる。
どこかの木の枝を蹴ったのだろう、枝に生える葉がこすれ合い音を立てる。
「っ!」
少女は攻撃の意図を察知し、低い姿勢になる。
その瞬間。チッ、と音がし、それと同時に少女の長い髪が幾数本宙を舞う。
さすがの少女も攻撃が来るとわかってもどこからくるかまでは完全に予想できてないらしく、攻撃された場所を予想してその移動先に立ち上がって視線を向ける。
しかしまた、別の木からミモジュが鳴き声を発し、今度は木の幹を蹴ったのか鈍い音を立てた。
少女は立ち上がった姿勢を崩さず背を反らすと、服の一部に切れ目が入る。
「ききぃー!」
そして同じようなことが二度三度と続いていく。
少女はそれを急所に攻撃されずとも、掠ったりしながら服の切れ目が増えていく。
だが、それが途中から徐々にだが減っていく。
ミモジュは相変わらず移動しながら鋭い爪を駆使し少女を襲っている。が、その爪が、空を切り始めた。
少女の動きは明確に、正確にミモジュの視えない攻撃を回避し、少女の視線はミモジュが視えているかのように自信を持った表情している。
「きききききぃ?」
それにミモジュも気づき始めたのだろう。
先ほどからは完全にミモジュの攻撃は当たらなくなり、ミモジュはそれに疑問を覚えながらも攻撃の手を休めない。
そしてそれに、少女は溜息をつく。
「もうネタも割れたし、そろそろ潮時かな」
少女はそう言った。
そしてその瞬間に、ミモジュの攻撃が少女の背へと襲い掛かる。
「だから、もう終わり!」
振りかぶり、降ろされた爪の攻撃を少女は半身にすることで回避。
さらにそのまま円回転で振り上げた右足を、勢い任せに落とす。
「ぎぃ!」
それは見事にミモジュに当たったようで、地面に軽く埋まるようにして猿型の跡が土に出来上がり、それと同時に視えていなかったミモジュの身体は元の毛の色を見せた。
「ちょっと、手間かかったけど、これで私の仕事は終わりね。あ、そうだ」
少女は動かなくなったミモジュを一瞥すると、少女の少し後方にいる男へと視線を向ける。
男は少女と目が合い、一瞬身が竦むも自分を襲うわけではないのだから安堵する。
「あなた、街路にあった荷物の持ち主?」
「そ、そうだが……」
「ならよかった。道覚えてないでしょ? 案内しましょうか?」
確かに、少女の言葉は正しく、ありがたくもあった。
商売品である荷物を紛失しては自分は一文無しになる。
加えて、今の自分の服は汚れてしまい、余裕が出来るとそれが不快に感じてもきたためさっさと服を変えたくもあった。
「た、頼む」
「了解。それじゃ、ちょっと待ってね。このミモジュ連れて行かないといけないから」
「? どういうことだ?」
「依頼の証拠品にしないと。それに、殺してないからちゃんと処置しておかないと目覚めちゃうしね」
そういうなり少女は足元にいるミモジュを拾い上げ、次に蹴り飛ばされた二体のミモジュも拾ってくると、一体一体に動けないよう縄で縛って行った。
男はその間に立ち上がり、自分の姿を見て情けないとは思ったが、それはそれでもうどうしようもないものだと割り切った。
「それじゃ、行きましょうか。こっちよ」
「あ、ああ」
少女が先導して森の中を歩いていき、男もそれについていく。
そして歩くこと数十分。
整地された道へと少女と男は出て、そこには一台の荷馬車があった。
「俺の馬車!」
「そ、これでよかったのね」
男は喜びながら馬車へと近づいていき、荷物を確認する。
無事だった。
「ありがとう! よかったら、名前を教えてくれないか。是非ともお礼がしたい!」
男がそういうと、少女は少し悩んだ素振りを見せたが、すぐに面を上げて返事をする。
「椛。ピメンタにあるギルドの一人です」
「モミジか。わかった、ありがとう。俺はこれからフェルラによってからピメンタに行くところだったんだ。ピメンタに着いたときにはギルドにてお礼をするからな!」
「ありがとうございます」
「ああ。本当に助かったよ。それじゃあな!」
男はそういって、汚れていた服を変えた後、無事であった馬に鞭を入れて走り去って行った。
椛は、それを見送ると、荷馬車はすぐに小さくなり、消えるのだった。
「ふぅ~、終わった~。あ、椛ちゃ~ん!」
「椋。そっちは終わった?」
荷馬車が去った後、一人の少女が姿を見せる。
椛は椋と呼び、その少女は大きな麻袋を担いでやってくると、椛の手前でそれをおろす。
「う~ん、やっぱ数が多いと大変だね~」
「あら、苦戦したの?」
「そうだね~、やっぱここまで十二匹も運ぶのはね~」
椋にとって十二体のミモジュを相手にするよりも、それを一斉に運んでくる方が辛いらしい。
さすがに軽いといっても一体で五~六キロはある。それが十二体なのだから大の大人一人分を担いでいるようなものだ。
「それより椛ちゃん、やけに服とか髪とかアレだけど、大丈夫?」
「それは平気よ」
「そっか、それならいいけど。お、悼也君も終わったみたい~」
「………………」
そういいながら悼也も麻袋を担ぎ、森の中から現れる。
「えっと、私が三体。椋が十二体。で、悼也が八体。だったわよね」
「そうだよ~」
「ああ」
「よし、それじゃあ運びましょう。あ、椋。二体ぐらいまでなら私も余裕あるから持つわよ」
「ありがと~」
椋はお礼を言って麻袋を開け、中から二体の気絶したミモジュを取出し、椛の持っている麻袋へと入れる。
そして三人はピメンタへと歩き出し、日暮れのころにはギルドへと帰還するのだった。