最後のタバコ
ホラーといっても残酷、残虐シーンは一切ありません。
ジャンルを決める時にいつも迷ってしまうのですが、ホラーというよりも不思議系のお話しになります。
俺はホームレス。
橋の下にテントを張って生活している。
こんなにも自分が腑抜けてしまうとは思ってもいなかった。
こんな生活になったのは、妻を失ったのがきっかけだ。
生きるということの全てに、妻はなくてはならない存在だった。
眼が覚めればみそ汁の匂いが家の中に漂っていたし、必要なものは常に妻が用意してくれていたし、仕事を終えて家に帰れば俺の食べたいものが食卓に用意されていた。
逆に、俺は仕事に追われてあまり妻には特別なことをしてあげていなかった。
彼女の誕生日でさえ忘れていることが多々あったし、感謝の言葉を言うことも無かったように思う。
そんな俺に対して彼女が感情を高ぶらせて怒ることもなく、いつも静かに笑っている姿がある。それが俺の日常だった。
ところが三年前のある日、朝食の支度を終えた彼女が「あなた、なんだか今日は少し気分が悪いの」と告げたのを最後に、夫婦の日常が戻ってくることはなかった。
その日の午後に、病院から会社に電話が入り、妻が買い物途中で倒れて意識を失ったという知らせがあった。
会社を早退し、病院に駆けつけたのだが二度と彼女のはにかんだような静かな笑みを見ることはできなかった。
なんでこんなに急なんだ。
夫婦で旅もしたかったし、彼女の我侭を一度くらいはききたかった。
俺は彼女にしてもらうばかりで、何一つ彼女にしてあげることができなかった。
だからなんだろう、彼女が亡くなった後は、毎日ひたすら自分を責めた。
自分は幸せになってはいけない、ぬくぬくと生活をしてはいけないという気持ちと、彼女が作る音や匂いがまるでなくなった家での寂しさが常に心を落ち込ませたのだった。
家の中にある全ての物が、妻と結びつく。
台所を見れば皿を洗っている姿を、テーブルを見ればそこに頬杖ついて小さく笑う姿、家の中の全てが俺を苦しめ続けた。
妻の思い出がある家に住むのは、歳をとった自分には辛すぎたんだ。
だから妻と二人で暮らした家を売り、仕事も辞め、過去の全てに終止符を打ってホームレスの生活を選んだのだった。
家を売ったお金の大半は、彼女の亡骸を埋葬するために惜しみなく使い、残ったお金とわずかな年金によって俺の生活は支えられていた。
もともと博打には興味が無く、酒も飲まないというのもあって、タバコだけが日々をただ生きる者にささやかな安らぎを与えてくれていた。
しかし、世の無常というものがホームレスの俺の下へもやってきた。
経済の下降とともに、タバコは徐々に値上がりした。
以前は千円札一枚で四箱買えてお釣りまで貰えたのに、今は千円で一箱も買えない。
金を持っていないホームレスなどは、他人が吸った残りを拾い集めていたが、喫煙者も楽ではないようで、拾ったタバコはみなフィルターぎりぎりまで吸ったものばかりだった。
俺はまだ年金や家を売った時の金があったから幸いではあったのだが、それでも一日二箱すっていた以前と比べ、特別な時のみの一日一箱と抑えていた。
税金やタバコ税と物価は高騰しているにもかかわらず、年金でさえかなり削られて、さすがにタバコを止めないと食うことに困ることになりそうだ。
なんて悲しい末路だ。
妻を亡くして生きがいもない、年金暮らしのホームレスの老いぼれにとってたった一つの楽しみだったのに。
世の流れには逆らうことはできないと禁煙の決心を固め、その日の朝に行きつけのタバコ屋に最後の一箱にするタバコを買いに行った。
いつものタバコにしようかと思っていると、窓口の横に大きな看板があった。
看板には「最後のタバコ」と大きく書かれていた。
見たこがない名前のタバコだ。
どういう味かということよりも、「最後のタバコ」というネーミングに強く惹きつけられて、思わずそれを買ってしまった。
値段は他のタバコの二倍だったのだが、最後に特別なものを吸いたい気持ちがあったので、吸いたくなるその時まで大事に胸のポケットに収めた。
夕方になり、住んでるテントの上の土手に座り夕日を眺めていた。
今日もただ単に生きてしまった。
楽しみが一つ減るだけで、こんなにも生きていることが寂しく感じる日もない。
沈み行く夕日の姿が、俺の心を物悲しく感じさせる。
きっと今が、あの特別なタバコを吸う時なのだろう。
胸のポケットから薄く小さな「最後のタバコ」の箱を出してみた。
他のタバコのように、「健康を害する恐れがあります」との注意書きはなかった。
その代わりに、「お一人様一箱のみの効用となります。再び同じタバコを服用しても最後のタバコとしての効用が働くことはありません」と注意書きが添えられていた。
ということは、同じタバコをまた吸っても、普通のタバコと同じってことか。
箱のシールを剥がして中を見ると、三本のタバコが入っていた。
三本しかはいっていないのに、二十本入りのタバコの二倍の値段とは、さぞかし何かが特別なのだろう。
一本取り出し、百円ライターで火を付けて吸い込む。
ふぅーっと息を吐き出し、静かに目を閉じる。
閉じた目の中の中に、妻が作ってくれた料理の数々が浮かんできた。
目覚めのみそ汁の匂い、蒸した茶碗蒸しの卵の匂いがする蒸気。
懐かしい匂いや温度まで感じる。
俺の口の中にはたくさんの唾液が押し寄せてきた。
不思議だ、タバコを服する度に、よりはっきりと匂いや温度を強く感じる。
遠くで小さく包丁がトントンとリズムよく何かを切っている音が響いてきた。
妻がそうしていたような懐かしい響きが少しずつ近づいてくる。
「あぢぃ!」
タバコの火は、フィルターの近くまできていた。
熱さに気づくと同時に、今まで感じていた匂いや温度が全て消えていた。
久しぶりの妻の手料理の匂いがとても懐かしかった。
それとともに、楽しかった夫婦の食卓風景まで思い出した。
彼女は俺の箸が進む様子を、いつも小さな笑みを浮かべて見ていたっけ。
幻は、止まっていた時間がまた動き出したような感覚を与えてくれた。
これが特別なタバコの意味なのだろうか?
それにしてもなんという幸せ感なのだろう。
タバコの火がフィルターまで届く時間は、ほんのわずかだ。
そんな短い時間なのに、俺はまるで妻に初めてあった時のときめきにも似た幸せを感じていた。
二本目のタバコを吸ったのは、それから一週間後になった。
俺のテントがある橋の下には、他にもう一つのテントがあった。
一つは、俺のように天涯孤独になった老人がいた。
彼がその日なかなか起きて来なかったのを心配して中を除いてみると、冷たくなっていたのだ。
いずれ俺もこうなるんだ、と思うとやるせない気持ちになった。
そんな気持ちを癒すかのように二本目のタバコに火をつけたのだった。
ふーっと息を吐くと、遠くから「あなた」という妻の声が聞こえてきた。
「あなたお風呂沸いたわよ」という声と暖かい蒸気が体を包みこむ。
最後に風呂に入ったのはいつだったかなぁ。
「新しいタオル持っていくわよ」
スリッパが軽快な音をたて、忙しく動き回っている音がする。
今から思うと、自分は妻と共に本当に幸せな日々を生きてきたのだと思った。
妻さえ生きていてくれたなら、俺は幸せな日々を今でも送れていたのだろう。
「あぢぃ!」
またもや幻に夢中になっていて、タバコはフィルターを焦がしていた。
しかし、いつもこれからというタイミングでタバコは燃え尽きてしまう。
どうしても妻に会いたくて、仕方なく残りの一本にも火をつけた。
やわらかな女の匂いがして、妻が俺の目の前に立っていた。
「妙子!」
彼女は生きていた頃と同じようにはにかんだ笑みを見せていた。
俺は恋しい女を目の前に涙を抑えることができなかった。
「お願いだ。俺を、お前のところに連れて行ってくれ!」
そういって右手を伸ばして彼女の手を掴もうとした。
彼女は少し悲しそうな顔をしてこう言った。
「だけどあなた、こっちの世界は禁煙よ。これを最後のタバコにできるなら、私あなたを連れて行くわ」
俺は迷わず答えた。
「ああ、約束する。これが最後のタバコだ。二度とタバコは吸わない。だから、お前のところに連れて行ってくれ」
妙子はにっこりすると俺の差し出した手を握った。
俺は心からこの「最後のタバコ」に満足した。
それから数日後、犬の散歩途中の男性がホームレスの老人の遺体を発見した。
発見者、警察、病院関係の人たち全ての人が老人の遺体を見て、同じ言葉を発した。
「なんて幸せそうな顔をして亡くなっているんだろうねぇ」