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ヘルドゥラの神々:漆黒の女王  作者: 渡弥和志
第六章

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V. 救済の代償

 その空間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 ヴァルスは、理由も分からぬまま呼吸を浅くする。

 冷たいわけでも、重いわけでもない。

 ただ、ここだけが、世界から切り取られたように静かだった。


 音が消えたのではない。

 音を許されない場所に踏み込んだのだと、身体が先に理解していた。

 鼓動さえ、壁に吸い取られていくような錯覚があった。


 気づけば、皆が足を止めていた。

 床に刻まれた五芒の意匠が、はるか上から注ぎ込む光を淡く返していた。


 その周囲──五つの頂点には、明らかに〝在るべき場所〟があった。


 神器の形に穿たれた、空の凹み。


 カルラが、一歩、前へ出る。


「……そこよ」


 声は柔らかかった。

 髪の色が、漆黒から少し薄れているように見える。

 座を見据える瞳が光を受け、わずかに青緑へと揺れた。


「四つの神器を……座へ。残る一つは、私の中」


 誰も問い返さなかった。


 カルラは五芒の頂点に立つ。


 神器が、動く。


 それは、それぞれの手から自ずと離れた。

 空気を裂く風も、鎖の鳴る音もない。ただ、重さだけが持ち上がった。

 神器は落ちるのではなく、〝迎え入れられる〟ように凹みに沈んでいく。

 まるで最初から決められていた役割をなぞるように。


 ガルドの手元にも、もはや光は残っていなかった。

 あの『剣』も、すでに座に迎え入れられている。


 ヴァルスは、その場に取り残されたまま、剣から手を離せずにいた。


 指の感覚が、どこか遠い。

 まるで、この剣だけが現実につなぎ止める楔のようで、離せば自分まで崩れてしまいそうだった。


 それぞれの神器が、凹みに嵌った瞬間、石床の奥で、何かが応えるように脈打った。


 低い振動が、足裏から骨へと伝わる。

 それは音ではなく、呼吸のような周期だった。

 遺跡そのものが、ゆっくりと目を覚ましていく。



 そして五芒が、ゆっくりと輝きを増す。


「……私の胸から『玉』を取り出して、据えれば」


 カルラの声が、かすかに揺れた。


「封印は、再生される……」


 短い沈黙。

 その瞳の奥から、先ほどの温度が消え、闇に沈んだ。


「……または」


 彼女の視線が、ヴァルスの黒い剣へと落ちる。


「その剣を突き立て、座を砕けば……世界は闇に沈み、私は、解放される」


 ────解放される。


 言葉が胸に刺さる。


 迷うことはない。


 世界がどうなろうとも、姉さんを────

 それだけが、正しいと信じた。


 いや、正しいかどうかなど、分からない。

 それでも、そう思わなければ、立っていられなかった。


 逃げ道は、とうに塞がれていた。

 振り返れば父がいて、前には姉がいて、そのどちらも失う未来しか見えなかった。

 ならばせめて、選んだと思える形で終わりたかった。


 剣を突き立て、振りかぶった──その瞬間。


 ガルドが、古びた剣で斬り止めようとした。

 しかし、その名もなき剣は、黒い刃の前に虚しく折れた。



 砕けた刃が床に散る音が、やけに大きく響く。

 愕然とするガルドの目を尻目に、意を固めた。


 もう、邪魔をするものもない。

 止められるのが怖かったのではない。

 止まりたくなる自分が、いちばん怖かった。


 そう思った、その時。


「……もう、終わりにしよう……カルラ……」


 短剣を手に、歩み寄る影があった。

 メドゥルだった。


 その胸元へ刃を向ける。


 短剣を構えた父の手が、震えているのが見えた。

 その震えが、どうしても、止まらない。


 父の喉が、乾いた音を立てた。


 次の瞬間、金属音が床に響いた。

 父は、刺せなかった。


 それを、カルラは拾った。


 ほんの一瞬。


 だが、その視線は確かに、父を見ていた。

 そして、次に向けられたのは──ヴァルス。


 血に濡れた額。

 歯を食いしばり、剣を握り締める、その姿。


 カルラは、躊躇うように手を伸ばし、それでも確かめるように、その傷に触れた。


 瞬間、剣を握る手が震えた。

 痛みよりも先に、懐かしい温度が伝わってきた。


 幼い日の、木剣の傷に触れた手が重なる。

 失ったはずの記憶が、一気に押し寄せ、胸の奥が軋んだ。


 震える指先が、血をなぞる。

 その瞳は、青緑だった。


「……もう……二人とも、やりすぎよ」


 叱るでもなく、責めるでもなく。

 まるで、幼い頃のように、静かな声だった。

 ヴァルスの喉が、かすかに鳴る。


「……姉さん」


 その呼び声に、カルラは微かに微笑んだ。


 涙がこぼれ落ちる。


 その笑顔は、神のものではなく、確かに、姉のものだった。



 ────姉の手が、自分から離れたのが分かった。


 次の瞬間、胸元へと向かう刃が、はっきりと見えた。


 その動きに、ためらいはなかった。

 まるで、ずっと前から決めていた答えを────

 ようやく選び取ったかのように。


「──やめろ」


 声にならなかった。

 ただ、口が動いただけだった。


「カルラ!」


 ガルドが叫んだが、もう遅かった。


 彼女は、自分の身体に、刃を突き立てた。


 短い衝撃。

 衣が裂け、肉が裂け、鈍い音が響く。

 血が、指の隙間から溢れ出す。


 ヴァルスの喉から、声にならない叫びが漏れた。


「……姉さん……!」


 だが、彼女は倒れなかった。

 歯を食いしばり、刃を押し進める。

 苦痛に歪む表情。それでも、目だけは、はっきりと前を見据えていた。


「……これで……」


 誰に言ったのか、分からない言葉。


 胸の奥へと手を差し入れ、血に濡れた指先で、確かにそれを掴む。


 姉の胸から引き抜かれたそれを、直視できなかった。

 それでも、紅い光だけが視界に焼きつく。


 カルラの膝が、ゆっくりと折れる。

 ヴァルスは共に崩れるように抱き留める。


 腕の中の重さが、現実だと理解するまでに、時間がかかった。


 叫んでいるのが自分だと気づいたのも、遅れてからだった。


「何を……! こんな……こんな形で……!」


 震える声。

 だが、カルラは首を振った。


「……違うの……」


 血に濡れた指で、ヴァルスの袖を掴む。


「あなたが……間違ってたわけじゃない……」


 それが、何よりも残酷だった。

 間違っていなかったなら、どうして、こんなことになる。


 視線が、ガルドへと向く。


「……あなたも……」


 そして、もう一度、ヴァルスを見る。


「ごめん、ね……ちゃんと……聞こえてたよ……ずっと……あなたの声が」


 言葉が、途切れる。

 それでも、最後の力で、『玉』を差し出した。

 震える手からガルドの手に。


「……お願い……世界を……」


 指が、力を失って、落ちる。


 その瞬間、座に据えられた神器が、一斉に光を放ち始めた。


 封印の座が、動き出す。

 眩い光が部屋を、城を、世界を照らす。


 だが、その中心で。

 カルラの体温だけが、腕の中で静かに、失われていった。


 ガルドは、震える手で、『玉』を五芒の頂点に据えた────


 降ろされた世界の帳が、静かに、開いてゆく。


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