V. 断裂の鎖
ヴァルスは、呆然と立ちつくしていた。
何もかも、分からなくなった。
滅びの宣言、街の混乱、絶望。
父はあの瞬間から、覇気を失い、姉──女王の言うがままとなった。
それは恐れからなのか、それともまだ娘として想うあまりなのか。
空洞のような目で、ただ前を見ていた。
虚な議場に据えられた玉座。
議論する者も、抗議する者も、もうここにはいない。
何かを間違えたのか。
抱いていた疑念の全てを、訴えるべきだったのか。父を裏切って。
しかし父を、姉を否定する言葉を、自分は持っていなかった。
「ヴァルス、これは神意。ヒトへの試練なのよ。
私が代わりに伝えているの」
姉の姿をしたものは饒舌だったが、その言葉は姉のものとは思えない。
その沈んだ紅の瞳が、ヴァルスを見つめる。
「ヒトはどちらを選ぶのかしら。
滅びによる救済か────縛めによる緩慢な自滅か」
陽光が暗雲に遮られ、昼間にも関わらず薄暗かった。
城下では市場の賑わいが消え、祈祷所だけが明かりを灯している。
────人の滅び。世界の終焉。
誰もが嘆き、やり場のない叫びを静かに抱えていた。
泣き声を止められない子供と、膝をついて祈る母。
酒に溺れる者。不行跡をはたらく者。
兵舎では行き場を失った鎧の音が、寒気の中で細く響いていた。
空が落ち窪み、遠く三つの方角に紫黒の光芒が現れてから七日後。南の光が消えた。
「試練を超え、神器がひとつ目覚めたわ」
カルラは窓から赤黒い瞳を見据える。
「あの者たちならきっと、残りも」
そしてヴァルスに向き直った。
「最後の試練は────あなたよ」
言葉が胸の奥に沈んだ瞬間、足元が消えた。
色も音も剥がれ落ち、世界が裏返る。
落ちているはずなのに、風は感じなかった。
上下の感覚が曖昧になり、どこまでが自分で、どこからが世界なのかも分からなくなる。
衣服を纏っている感触すら、いつの間にか消えていた。
これは夢なのか、と理解しようとするよりも先に、抗う意味がないと、心のどこかが悟っていた。
脳裏に響く姉の声。
「ヴァルス……私のヴァルス」
(姉さん)
幼い頃の記憶が、滲むように浮かび上がる。
夜泣きをした自分を、カルラが抱き上げていた。
父は執務で不在。母の姿は、思い出せない。
あの頃から、自分を見てくれていたのは、姉だけだった。
姉であり、母でもあった──
それはガルドにとっても。
「────ガルド」
胸の奥が、僅かに震えた。
「あなたは、ガルドをどう思ってた?」
(──友だ)
「羨ましかった?」
(嫡流と庶流、生まれが違うだけ)
「疎ましかった?」
(そんな事はない)
「憎かった……?」
(そんな事は、ない……!)
「ヴァルス。あなたは一度も選ばれなかった」
声はひどく優しかった。
胸の奥に沈殿していた感情が、ゆっくりと攪拌される。
怒りでも、悲しみでもない。
しまい込んでいた感情。
(どうしてだ。剣は俺の方が上だ)
「選ばれるのはいつもガルド」
(学も、礼法も──
領主として必要なものは──
全部俺が持っているのに)
「父からも。国からも。誰からも」
(それでも、人はガルドを見る)
「だから今度は、私が選ぶ」
(俺には姉さんだけが)
縋るような思考を、
カルラは抱きしめるように受け止めた。
「小さい頃、泣き虫だったあなたを抱きしめたの、覚えてる?」
素肌の温もりが触れた。
頬に、首に、胸に、熱が伝わる。
冷えた心の奥底を癒すように。
その指はやさしかった。
安心が、広がる。
その代わりに──胸の奥で、何かが静かに削れていった。
思考が、緩む。
正しさや誇りが、どうでもよくなる。
祝宴の記憶がよみがえった。
父は最初にガルドを称え、臣下は皆、その名を口にした。
ヴァルスの椅子の前には、冷めた料理だけが残っていた。
功績があればそれはガルドのものに。
失態があればそれは自分のものになった。
「選ばれるのは、いつもガルド」
囁きは、真実の形をしていた。
(なら────正すだけだ。
俺のものを、俺の場所を)
「私はあなたが好きよ」
(姉さんだけが────)
「でも、ガルドも好き」
(……)
「ガルドを愛してる」
──何かが、ひび割れた。
「ガルドが、試練に破れたら──」
──奥底にしまい込んでいた闇が、染み出るように心を支配し始めた。
「私は、あなただけのものに」
(ガルドさえ────)
思考の先で、何かが静かに形を取った。
(奪うんじゃない。取り戻すだけだ。
本来、俺が持つはずだったものを)
視界が開ける。
そこには姉の姿があった。
微笑んでいた。
あの日、幼いヴァルスを労ったときと、同じ笑みで。
今は、疑いようもなく、愛する姉────
ヴァルスはゆっくりと立ち上がった。




