3. 瞋恚の王
海は、静かすぎた。
静けさというより、音がどこかで封じられている。
波の線が消え、港に繋がれた船は、腐った果実のようにただ浮かぶ。
漁師たちは作業の手を止め、城壁の内に入り、帽子を握りしめて祈っていた。
市場の女たちは口に布を当て、子を抱く腕にさらに力を込める。
笑い声や口論や商人の呼び声──いつも満ちていた生活の音が、まるで遠い別の世界のものになっていた。
ただ一点、水平線の上だけが歪んでいる。
そこに、宙にぶら下げられたような巨大な球体があった。
灰色の空よりもなお色のない闇で、輪郭はしかし、いやに鮮明だった。
球体──影の王から、これまでに二度、攻撃があった。
一度目は都にほど近い山を抉りとった。
二度目は郊外の村を消し去った。
闇の奔流ともいうべき、黒き閃光が撃ち放たれた。それは光のようでありながら、影よりも暗かった。
そこに住んでいた人々の名も、営みも、記憶さえ曖昧にされていく。
兵たちはそれを見ていた。
見て、なお戦わねばならなかった。
ほどなくして三度目が予測された。
徐々にその狙いはこの、シル・エザリスの都、アラミラスに近づいている。
その間も、球体の方角からは絶え間なく『異形』が湧き、戦力を削がれる。
シル・エザリス軍と『禿鷹の傭兵団』は、防戦で手一杯だった。
「あれでは手を出せねえ……どうすればいい」
ダインが唸った。
球体がわずかに脈動した。
海が呼吸を止め、暗雲が沈む。
その瞬間、街のすべてが耳を澄ませた。
音が、遅れてやってくる。
「……来る」
アディルがつぶやくと同時に。
球体の中央が、口を開くかのように大きく窪んだ。
次の瞬間──黒い閃光が、一直線に吐き出された。
空気が裂け、光は地上をなぞるように走る。
触れた場所から、音も影も消えていった。
そして、城壁の一部と商業街が──失われた。
塔が、商館が、人影が、〝在った〟という事実ごと、消え失せた。
城壁の上で悲鳴が止み、代わりに沈黙が広がった。
悲鳴よりも、沈黙の方が重い。
誰もが理解したからだ。
──これは「戦い」ではない。
ただ、少しずつ世界が切り取られていく作業なのだ、と。
シル・エザリス首長ヘルゲンは、膝を折りそうになりながら縁にしがみついた。
彼は臆病ではなかった。
若い頃は先陣に立ち、今もなお領民のために金も名誉も捨てて動いてきた。
議会では〝律法の番人〟と呼ばれるほどに発言力、そして指導力があった。
そして何より、信心深く、神々の救いを心から信じていた。
メドゥルへの肩入れを決めたのも、信仰心が故だった。
だが──今それが、音を立てて崩れようとしていた。
「こんなことが……」
呆然と呟いた。
「これでは、滅びを待つばかりではないか……
これが、あの神子の、神の意思だというのか」
ダインがその虚ろな眼を見据え、強く訴えた。
「考えろ! 戦う意思を棄てるな!」
その身を城壁に乗り出す。
「もう、救いはない……」
ヘルゲンの声は、誰にも届いていないようだった。
手の甲には無数の噛み跡があり、眠れぬ夜の痕が刻まれている。
「私は、誰一人……守れなかった」
その背が、ほんのわずか揺れて──落ちた。
「……!」
助けを求めるでもなく、振り返ることもなく。
遥か下の海面に飛沫が上がり、すぐに、海に呑み込まれる。
何事も、最初からなかったかのように。
ダインは言葉を失った。
衝撃と同時に、奇妙な理解が走った。
──逃げたんじゃない。
ここで折れたのだ、と。
そして、だからこそ、自分はまだ折れるわけにはいかないのだと、喉の奥が焼けるほどに思い知らされた。
「……ダイン、術を使える人を集めて」
アディルが呟くように言う。
「土の術を、この『盾』──サリスレドゥアに集中するの」
アディルに向き直ったダインは意を察して叫ぶ。
「何を考えてる……!
あれを盾で受けるつもりか!?」
「それしか、思いつかないわ。
次の攻撃には、都の中枢を貫かれる。時間もない」
「……くそっ! 術士をかき集めろ!」
ダインは兵に叫びながら戦場へと戻る。
「だが、他にも手はあるはずだ!
考えるんだ……!」
城下では、兵も民も入り乱れて逃げ惑う。
異形が跳ね、石畳を砕き、その度に土煙と血の匂いが風に混ざる。
ダインの号令が飛ぶ。
走り、振り向き、倒れ、また走る。
指示は的確でも、守りは追いつかない。
悲鳴が途切れず、瓦礫の間を人影が走っていた。
倒れた父を抱え、少年が動けずにいる。『異形』が迫り、兵が身を投げ出す。
助かったはずなのに、少年は泣かなかった。ただ、空だけを見上げていた。
ダインは歯噛みする。
「剣に術の補助を! 火矢を集中しろ! 街に入れるな!」
指示は飛ぶ。だが、どれも届かない。
(足りねえ……まだ何か……!)
アディルは、そのすべてを見てしまっていた。
盾は重い。
だがいま、重いのは盾そのものではない。
──自分が選ばなければ、誰が選ぶのか。
そう思った瞬間、喉の奥の震えが止まった。
彼女は盾を抱きしめた。
手が震える。逃げ出したい。
それでも、消えた商業街が脳裏にちらついた。
(──なら、私が)
「やはり無謀だ!
アディル、お前を失いたくない……!」
叫ぶダインにアディルが近づく。
その肩に両手を置いた。
「怖いの。正直に言うと」
息が震える。
俯いた顔から雫が落ちた。
「でも、私の役目は……それしかない。
誰かの代わりじゃなくて、私自身として」
背伸びをして、その顔を近づけた。
口づけは短く、祈りのようだった。
「私に出来るのは、これくらい」
そして、強くその肩を突き放した。
街の中央部を背に術士が集められ、その前にアディルが立つ。
両脇を騎士や傭兵たちが固め、『異形』の群れを食い止めていた。
球体が波打ち、その口が開かれる。
術士たちが土の術を合わせ、アディルに集中する。
その『盾』がまばゆい光を放ったと思うと、巨大な光の盾が生まれた。
────刹那。
黒き閃光が盾に受け止められる。
激しい衝撃。
盾に触れた瞬間——
黒い光束が、押し潰すようにのしかかった。
重い。骨にまで食い込んでくる。
アディルは苦悶を浮かべる。
土の魔力が盾へ集まり、闇の奔流の重みが腕から肩、胸へとのしかかる。
世界が裏返るような感覚に襲われた。
痛みではない。〝砕けてはいけない〟という命令のようなものが、 骨に直接、打ち込まれてくる。
呼吸は浅く、視界は白く波打つ。
誰かの声がした気がするが、もう聞こえない。
それでも、盾は離さなかった。
空気が重くなり、音が消える。
ただ、自分の鼓動だけが耳の奥で鳴った。
砕ける。骨が。意識が。
「こんなところで────倒れるわけには!」
叫びとともに、盾が一層の輝きを放ち、闇は反転し、光となって球体へ返された。
影の王から、耳を劈く音が響き渡り、海面を震わせた。
アディルは初めて、ほんのわずかな「手応え」を感じた。
勝てたとは思わない。
だが、届いた、と。
そして、静寂が戻ると同時に、膝が崩れた。
息を吐くたび、胸が焼ける。
ダインが駆け寄り、肩を支えた。
その瞳は涙に揺れている。
それを見て呟く。
「……らしくない、ね」
その時、影が落ちた。
見上げると、空を裂くように竜が降りてくる。
背に、小柄な少女の姿があった。
「……クリス!」
赤き竜は城壁の外れで静かに止まり、クリスは二人を見下ろす。
「よかった……本当に、間に合わなかったかと……」
どこか、安堵と同時に自分を責める色があった。
「私は……踏ん張っただけ」
アディルはかすかに笑った。
「ううん。アディルが──お姉ちゃんがいたから、退けられた」
少女が手をかざす。
「──ここから先は、一緒に」
ダインは二人を見比べた。
「状況は最悪だ。まだ終わっちゃいねえ。
これからどうする?」
クリスは海の彼方を見やった。
「あれは、また来る。
けど、時間は稼げた。
……だから先に、ガルドとミリアのところへ」
「……私は、行くわ」
アディルがダインに言う。
「もう無茶はしない。だけど、戦いをやめるつもりもない」
ダインは苦笑した。
「結局、誰も楽はしねえんだな——
わかった、ここは俺に任せて行け」
アディルと目を合わせようとはしなかった。
唇の感触が残る。
「あと、あんなのは……ナシだ。
ああいうのはもっと、こう……」
口ごもるダインにアディルが微笑し、遮るように言う。
「……死なないでね」
竜皇が低く唸った。
それは同意のようでもあり、急げと言っているようでもあった。
三人は短くうなずき合う。
海はまだ灰色で、遠くでは影が蠢いている。
しかし──もう、沈黙だけではなかった。
言葉があり、体温があった。
そして、同じ方向を見る者が三人いた。




