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ヘルドゥラの神々:漆黒の女王  作者: 渡弥和志
第五章

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3. 瞋恚の王

 海は、静かすぎた。


 静けさというより、音がどこかで封じられている。

 波の線が消え、港に繋がれた船は、腐った果実のようにただ浮かぶ。

 漁師たちは作業の手を止め、城壁の内に入り、帽子を握りしめて祈っていた。

 市場の女たちは口に布を当て、子を抱く腕にさらに力を込める。

 笑い声や口論や商人の呼び声──いつも満ちていた生活の音が、まるで遠い別の世界のものになっていた。


 ただ一点、水平線の上だけが歪んでいる。

 そこに、宙にぶら下げられたような巨大な球体があった。

 灰色の空よりもなお色のない闇で、輪郭はしかし、いやに鮮明だった。


 球体──影の王から、これまでに二度、攻撃があった。

 一度目は都にほど近い山を抉りとった。

 二度目は郊外の村を消し去った。

 闇の奔流ともいうべき、黒き閃光が撃ち放たれた。それは光のようでありながら、影よりも暗かった。


 そこに住んでいた人々の名も、営みも、記憶さえ曖昧にされていく。

 兵たちはそれを見ていた。

 見て、なお戦わねばならなかった。


 ほどなくして三度目が予測された。

 徐々にその狙いはこの、シル・エザリスの都、アラミラスに近づいている。


 その間も、球体の方角からは絶え間なく『異形』が湧き、戦力を削がれる。

 シル・エザリス軍と『禿鷹の傭兵団』は、防戦で手一杯だった。


「あれでは手を出せねえ……どうすればいい」


 ダインが唸った。


 球体がわずかに脈動した。

 海が呼吸を止め、暗雲が沈む。

 その瞬間、街のすべてが耳を澄ませた。

 音が、遅れてやってくる。


「……来る」


 アディルがつぶやくと同時に。

 球体の中央が、口を開くかのように大きく窪んだ。

 次の瞬間──黒い閃光が、一直線に吐き出された。

 空気が裂け、光は地上をなぞるように走る。

 触れた場所から、音も影も消えていった。

 そして、城壁の一部と商業街が──失われた。

 塔が、商館が、人影が、〝在った〟という事実ごと、消え失せた。


 城壁の上で悲鳴が止み、代わりに沈黙が広がった。

 悲鳴よりも、沈黙の方が重い。

 誰もが理解したからだ。

 ──これは「戦い」ではない。

 ただ、少しずつ世界が切り取られていく作業なのだ、と。



 シル・エザリス首長ヘルゲンは、膝を折りそうになりながら縁にしがみついた。


 彼は臆病ではなかった。

 若い頃は先陣に立ち、今もなお領民のために金も名誉も捨てて動いてきた。

 議会では〝律法の番人〟と呼ばれるほどに発言力、そして指導力があった。


 そして何より、信心深く、神々の救いを心から信じていた。

 メドゥルへの肩入れを決めたのも、信仰心が故だった。

 だが──今それが、音を立てて崩れようとしていた。


「こんなことが……」


 呆然と呟いた。


「これでは、滅びを待つばかりではないか……

 これが、あの神子の、神の意思だというのか」


 ダインがその虚ろな眼を見据え、強く訴えた。


「考えろ! 戦う意思を棄てるな!」


 その身を城壁に乗り出す。


「もう、救いはない……」


 ヘルゲンの声は、誰にも届いていないようだった。

 手の甲には無数の噛み跡があり、眠れぬ夜の痕が刻まれている。


「私は、誰一人……守れなかった」


 その背が、ほんのわずか揺れて──落ちた。


「……!」


 助けを求めるでもなく、振り返ることもなく。

 遥か下の海面に飛沫が上がり、すぐに、海に呑み込まれる。

 何事も、最初からなかったかのように。



 ダインは言葉を失った。

 衝撃と同時に、奇妙な理解が走った。


 ──逃げたんじゃない。

 ここで折れたのだ、と。

 そして、だからこそ、自分はまだ折れるわけにはいかないのだと、喉の奥が焼けるほどに思い知らされた。



「……ダイン、術を使える人を集めて」


 アディルが呟くように言う。


「土の術を、この『盾』──サリスレドゥアに集中するの」


 アディルに向き直ったダインは意を察して叫ぶ。


「何を考えてる……!

 あれを盾で受けるつもりか!?」


「それしか、思いつかないわ。

 次の攻撃には、都の中枢を貫かれる。時間もない」


「……くそっ! 術士をかき集めろ!」


 ダインは兵に叫びながら戦場へと戻る。


「だが、他にも手はあるはずだ!

 考えるんだ……!」



 城下では、兵も民も入り乱れて逃げ惑う。

 異形が跳ね、石畳を砕き、その度に土煙と血の匂いが風に混ざる。

 ダインの号令が飛ぶ。

 走り、振り向き、倒れ、また走る。

 指示は的確でも、守りは追いつかない。


 悲鳴が途切れず、瓦礫の間を人影が走っていた。

 倒れた父を抱え、少年が動けずにいる。『異形』が迫り、兵が身を投げ出す。

 助かったはずなのに、少年は泣かなかった。ただ、空だけを見上げていた。


 ダインは歯噛みする。


「剣に術の補助を! 火矢を集中しろ! 街に入れるな!」


 指示は飛ぶ。だが、どれも届かない。


(足りねえ……まだ何か……!)


 アディルは、そのすべてを見てしまっていた。

 盾は重い。

 だがいま、重いのは盾そのものではない。

 ──自分が選ばなければ、誰が選ぶのか。

 そう思った瞬間、喉の奥の震えが止まった。


 彼女は盾を抱きしめた。

 手が震える。逃げ出したい。

 それでも、消えた商業街が脳裏にちらついた。


(──なら、私が)


「やはり無謀だ!

 アディル、お前を失いたくない……!」


 叫ぶダインにアディルが近づく。

 その肩に両手を置いた。


「怖いの。正直に言うと」


 息が震える。

 俯いた顔から雫が落ちた。


「でも、私の役目は……それしかない。

 誰かの代わりじゃなくて、私自身として」


 背伸びをして、その顔を近づけた。

 口づけは短く、祈りのようだった。


「私に出来るのは、これくらい」


 そして、強くその肩を突き放した。



 街の中央部を背に術士が集められ、その前にアディルが立つ。

 両脇を騎士や傭兵たちが固め、『異形』の群れを食い止めていた。


 球体が波打ち、その口が開かれる。


 術士たちが土の術を合わせ、アディルに集中する。

 その『盾』がまばゆい光を放ったと思うと、巨大な光の盾が生まれた。


 ────刹那。

 黒き閃光が盾に受け止められる。

 激しい衝撃。

 盾に触れた瞬間——

 黒い光束が、押し潰すようにのしかかった。

 重い。骨にまで食い込んでくる。

 アディルは苦悶を浮かべる。


 土の魔力が盾へ集まり、闇の奔流の重みが腕から肩、胸へとのしかかる。


 世界が裏返るような感覚に襲われた。

 痛みではない。〝砕けてはいけない〟という命令のようなものが、 骨に直接、打ち込まれてくる。

 呼吸は浅く、視界は白く波打つ。

 誰かの声がした気がするが、もう聞こえない。

 それでも、盾は離さなかった。


 空気が重くなり、音が消える。

 ただ、自分の鼓動だけが耳の奥で鳴った。


 砕ける。骨が。意識が。


「こんなところで────倒れるわけには!」


 叫びとともに、盾が一層の輝きを放ち、闇は反転し、光となって球体へ返された。

 影の王から、耳を(つんざ)く音が響き渡り、海面を震わせた。


 アディルは初めて、ほんのわずかな「手応え」を感じた。

 勝てたとは思わない。

 だが、届いた、と。


 そして、静寂が戻ると同時に、膝が崩れた。

 息を吐くたび、胸が焼ける。


 ダインが駆け寄り、肩を支えた。

 その瞳は涙に揺れている。

 それを見て呟く。


「……らしくない、ね」



 その時、影が落ちた。

 見上げると、空を裂くように竜が降りてくる。

 背に、小柄な少女の姿があった。


「……クリス!」


 赤き竜は城壁の外れで静かに止まり、クリスは二人を見下ろす。


「よかった……本当に、間に合わなかったかと……」


 どこか、安堵と同時に自分を責める色があった。


「私は……踏ん張っただけ」


 アディルはかすかに笑った。


「ううん。アディルが──お姉ちゃんがいたから、退けられた」


 少女が手をかざす。


「──ここから先は、一緒に」



 ダインは二人を見比べた。


「状況は最悪だ。まだ終わっちゃいねえ。

 これからどうする?」


 クリスは海の彼方を見やった。


「あれは、また来る。

 けど、時間は稼げた。

 ……だから先に、ガルドとミリアのところへ」


「……私は、行くわ」


 アディルがダインに言う。


「もう無茶はしない。だけど、戦いをやめるつもりもない」


 ダインは苦笑した。


「結局、誰も楽はしねえんだな——

 わかった、ここは俺に任せて行け」


 アディルと目を合わせようとはしなかった。

 唇の感触が残る。


「あと、あんなのは……ナシだ。

 ああいうのはもっと、こう……」


 口ごもるダインにアディルが微笑し、遮るように言う。


「……死なないでね」


 竜皇が低く唸った。

 それは同意のようでもあり、急げと言っているようでもあった。


 三人は短くうなずき合う。


 海はまだ灰色で、遠くでは影が蠢いている。

 しかし──もう、沈黙だけではなかった。

 言葉があり、体温があった。

 そして、同じ方向を見る者が三人いた。


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