1. 紅の目覚め
おお、漆黒の女王が来たる
闇と魂の支配者
彼女がヘルドゥラに至るとき
世界の帳は下ろされるであろう
『ゲルス書紀・バロマウル七章一節』
────今、世界には影が落ちていた。
世界を取り囲むように存在する『魔境』。
かつては人の立ち入らぬ不毛の地にすぎなかったその領域から、人ならざるもの、〝魂喰い〟とも呼ばれる『異形』が現れ始めた。
その数は、年々増している。
理由を知る者はいない──
──そして更なる災いを呼ぶ禁忌が、どこで行われているのかも。
トルイデア領フィレアル城。
その地下深く、長い廊下の先に隠されるように存在した扉の中。祭壇に向かい白いローブをまとった魔導士が、低く呪文を唱える。
その声は波動となって生い茂る蔦のように広がり、神殿の石畳に絡みつき、中央に据えられた祭壇の上で脈打つように紅く輝く神器 『玉』に集まっている。
『玉』からは魔力を帯びた風が巻き起こり、燭台の火を消さんとばかりに激しく揺らした。
祭壇の前には、一人の男が膝をついている。
トルイデア騎士団長、メドゥル・ストリフ。
領主の信望も厚い屈強な壮年の騎士の背は、今は哀しみと執着に打ちひしがれていた。
「カルラ……」
皺深く刻まれた彼の眼窩は虚ろで、その視線の先には、まるで生ける人形のように表情を失った娘が腰かけていた。
父と同じ深い青緑の瞳には生気がなく、鈍色の長い髪が『玉』から漏れ出る風にたなびいているのみで、その身体は微動だにしない。
その娘は、生きていた。
────だが、魂が欠けていた。
「メドゥル殿、これが唯一の機会です」
魔導士、ナルバは囁く。
「この神器に宿る神の魂は、貴殿の娘君の〝欠けた魂〟を埋め合わせるでしょう。
対価は────世界の民が長く忘れていた、古き神の神意を聞き入れること」
メドゥルは顔を歪ませ悩み、苦悶した。
────
城の上空に、黒紅の雲が渦を巻いていた。
領主クレドの嫡子にして若き剣士、ガルド・メル・フィルは、配下の兵二人を連れて急ぎ地下へ続く廊下を走る。
「父上の不在時に何が起きたというんだ……!」
「ガルド様、ヴァルス様も向かわれているようです!」
ガルドは足を早めた。
カルラの魂の欠損──その救済のため、メドゥルが何か危険な手段に踏み切る予感はあった。
『異形』の侵入増加を受けて、隣国レシャンクから魔導士ナルバが派遣された時から、彼に変調が見られていたのだ。
友であり騎士団仲間であるメドゥルの子、ヴァルスも同じ懸念を漏らしていた。
廊下を急ぐガルドの傍らに、老神官サルフェンが歩み寄り焦燥した様子で叫ぶ。
「ガルド殿、急いでくれ! あの魔力は……ヴィリド神の遺骸──神器、『玉』。あれを用いて魂の補完など、うまくいきようはずがない!
神器とは神そのものが宿った器──みだりに触れるのは危険すぎる」
「──!? 『玉』は、レシャンクに封印されているはずだろう!」
「ナルバが持ち込んだのだ。封印を如何にしたかは分らぬが……魔境の活性化で、五神の加護そのものが揺らいでいるのかもしれぬ……」
「ナルバ殿が?」
「知識は深いが、何を考えておるのか読めぬ。いずれにせよ、今止めねばカルラ殿は──」
険しいサルフェンの顔を一瞥し、ガルドたちは地下への階段を駆け降りた。
長い廊下を走る三人の前に、ナルバ配下の二人の魔導士が立ちはだかる。
剣士らが躍り出て魔導士の杖を押さえつけ、その詠唱を阻んだ。
「ガルド様! ここは我らにお任せを!」
「頼んだ……!」
突き当たった扉の向こうからヴァルスの声が漏れる。
「父上! 本当にこれで姉さんが救われるとお思いですか!」
メドゥルの悲痛な叫びが響く。
「カルラは魂を欠き、このままでは生ける屍も同然……!
ヴィリド神の力ならば補えるはず……
私は、ただ……戻ってきてほしいのだ……」
「魂の、補完……まことにそのような事が……」
ガルドは扉を開け放ち、目を疑う光景を見た。
儀式陣は黒紅の渦と化し、『玉』が宙へと浮き上がっている。紅き玉は一層その輝きを増して、カルラの胸元へと近づいていた。
その傍らにはナルバが立ち、両手を輝きの方へとかざしている。
冷静な面持ちで、ガルドを見据えて言う。
「ガルド様、ここは危険です。お下がりを」
「しかし魂に触れるなど、人の道を外れている……!」
「魂とは、本来世界と深く繋がるもの。カルラ様は 『異形』との接触により魂を欠き、人として不完全な存在となってしまわれた。
この『玉』に宿るヴィリドは魂の本質を司る神。今こそカルラ様と世界の絆を取り戻し、あるべき人の姿へと戻す時なのです」
説明は理屈として通っているように思えた。
しかし目の前の異様な光景は、禁忌に触れた儀式のそれであった。
ガルドは剣に手をかけ、メドゥルの前へ歩み出る。
「メドゥル殿、これ以上は……!」
「黙れ! これは娘を救うため、ヴァルスのためでもあるのだぞ!」
ガルドは友に目を向けた。膝をつきうなだれたその姿に、胸の奥に刺すような痛みを感じつつも、その意を決した。
「領主クレドの名において続けさせる訳にはいかない……!」
ガルドが剣を抜き放つと、メドゥルもまた背の大剣を振りかざした。
二振りの剣が打ち合わされ、衝撃が走った。
ギリギリと鈍い音を立てる。
メドゥルは鬼気迫る視線をヴァルスに向け、絞り出すように訴えた。
「ヴァルス! 姉を取り戻したくはないのか!
今この時しか無いのだぞ……!」
ガルドの背後で、ヴァルスが呻くような声を漏らす。
「姉さんを……今、止めたら……」
立ち上がる気配を感じた。
ガルドがメドゥルの剣を擦り落とし、その気配に振り返るよりも早く──硬質な衝撃が後頭部を襲った。
友の剣の柄の感触が重くのしかかり、意識を闇へと引きずり込んだ。
視界が歪み、最後に見たのは苦痛に歪んだヴァルスの青緑の瞳。
剣が石畳に転がり乾いた音をたて、ガルドは倒れた。
「ああ……ガルド、許してくれ……」
ヴァルスは膝から崩れ落ち、苦悶の表情を浮かべてその手を覆った。
メドゥルは決意を固めたようにナルバに向かい、言った。
「この娘の瞳に、かつての光を戻せるのなら……私は、いかなる神意でも受け入れよう」
彼の声を聞きとどけたナルバが両手を組み、最後の呪文を唱えたその時。
『玉』がカルラの胸に吸い込まれるように沈み、そして地を揺るがすような恐ろしい轟音が響き渡り、城全体が震え、彼女を中心に、紅の光が爆ぜるように広がった。
魔力の奔流が渦巻き、それが収束する。
全ての波が彼女に収まると、部屋に静けさが戻った。
ぴくり、とカルラの細く白い指先が動いた。
その瞼がゆっくりと、薄く開く。
そこには血のごとく紅い瞳があった。
明かりが消え、暗い部屋が冷たい空気に包まれた。
「……儀式は完了しました、メドゥル殿。彼女の魂は補われました。いずれ自我を取り戻すでしょう。
そして、古き神の神意が示されます────」




