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ヘルドゥラの神々:漆黒の女王  作者: 渡弥和志
第三章

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V. 黒の目覚め

 トルイデア軍陣営───


 夜営に入った陣中は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 兵たちは中央の陣幕を避けるように焚き火を囲み、視線だけをちらりと向けては、すぐに逸らしていた。

 あの中に誰が居るのか、誰も口にしない。

 口にすれば、それだけで何かが起きてしまう気がしたからだ。


 厚布で囲われた陣幕の内には、張り詰めた空気が(おり)のように溜まっていた。

 ヴァルスは調停の使者との面会を終えて、ゆっくりと幕をくぐった。


 背後で布が擦れる音が止まった、その時。


「……ガルドか」


 低く、抑えた声が響いた。

 メドゥルだった。

 返事を求めていない声だった。

 ただ、それを確かめるように。

 ヴァルスは父の目を見ることなく、小さく頷いた。


「まだ生きていたか」


 その一言に、胸の奥がひくりと痛んだ。

 冗談でも皮肉でもない。ただ、事実を確かめるような声音だった。


 ヴァルスはゆっくりと向き直り、父を見据えた。


「まさか────」


 問いかけようとした、その瞬間だった。

 陣幕の入口が大きく開き、兵が駆け込んでくる。


 彼の両手には、淡く光を放つ一枚の盾が抱えられていた。

 それは、夜闇の中でもはっきりと存在を主張する、異質な輝きだった。


「……屈したか」


 メドゥルは一目見ただけで悟ったように呟いた。


「お前の望み通り、戦は避けられたな、ヴァルス」


 その言葉に、ヴァルスは何も返せなかった。

 胸の内に広がるのは安堵ではない。形を持たない、不吉な予感だった。

 ガルドの顔が、脳裏をよぎった。

 丘の向こうで、何を思っているのか。

 戦は阻止されたはず。

 それなのに、この胸騒ぎは何だ。

 父の背中が、あまりにも遠い。



「……それを、私に近づけないで……」


 かすれた声が、陣幕の奥から聞こえた。


「……だめ……っ」


 カルラだった。


 寝台に横たえられていたはずの彼女が、身を起こし、必死に首を振っている。その顔は青ざめ、唇は小刻みに震えていた。


「想定より、早い」


 静かな声が、陣幕の奥から告げる。

 いつの間にか現れていたナルバだった。


 次の瞬間、兵の手から盾が離れた。

 何かに引き寄せられるように、盾は宙へと浮かび上がる。

 拒絶するように震えながら、カルラの方へと飛び、その目前で静止した。


 ナルバは一歩も動かなかった。

 それは躊躇ではなく、傍観する眼。

 彼の視線は、盾でもカルラでもなかった。

 彼にとって今起きていることは、避けるべき事故ではなく、確かめるべき必然かのようだった。


「……っ」


 カルラは呻くような息を漏らし、何かに抗うように震える左手を差し出した。


 指先が盾の表面に近づき、わずかな光の波紋が走る。それは彼女の顔を歪めて映し返した。


 そして盾に触れた瞬間──その光が大きく揺らいだ。まるで、内側から軋むように。


 ガラン、と乾いた音。

 盾は力を失ったように地に落ち、無造作に転がる。その音だけが、静寂の陣幕に大きく響いた。


 空気が、変わった。

 暗く、冷たい気が辺りに満ちる。

 カルラの手がだらりと下がり、首が前に垂れた。


「カルラ……?」


 メドゥルの声に応えるように、彼女はゆっくりと顔を上げた。


 鈍色だった長い髪が、根元から漆黒へと染まっていく。見通せぬ夜闇のような黒だった。

 その眼もまた、外側から黒に侵され、かつての紅は深く沈んでいた。


「……お父様、やっと会えた……」


 その声は、確かにカルラのものだった。

 だが、声は同じなのに、温度がなかった。

 まるで、思い出だけをなぞって作られた声を聞いているようだった。


「この時を、どんなに待ったことか……

 私の力を、どうか役立ててください」


 言葉が終わるより早く、陣幕の中の影がざわめいた。

 壁際、柱の陰、布の重なり。

 あらゆる場所から影が滲み出し、ずるりと擦れ合いながら集まり──獣や蟲、そして人の形を成していく。

 焦げたような、腐ったような匂いが陣幕に満ちた。低い唸りのような音が、そこかしこから響く。


 それは陣幕の外へも広がり、陣全体を覆い尽くすようだった。

 現れた『異形』たちは、それぞれ何かを待っているように静止している。


 兵たちの悲鳴が、遅れて陣中に響き渡った。


「おお……カルラ……!」


 メドゥルは歓喜に目を見開き、その瞳を潤ませる。喉の奥が震え、言葉にならない声が漏れた。


「ああ……お父様、お父様。会いたかった」


 だがヴァルスには、その声がひどく遠く聞こえた。昨日までの姉の声と、決定的に何かが違う。


「邪神オーヴの片鱗です」


 ナルバは淡々と続けた。


「急ぐのです。次は竜族の『冠』────」


 メドゥルは鋭く振り返った。


「五神器を集めて、どうすると言った?」


「『座』に、全てを据えるのです。カルラ様の『玉』を取り出し────」


 淡々とした説明だった。

 その言葉を聞いた瞬間、カルラははっとしたように立ち上がり、メドゥルに縋り付いた。


「お父様……!」


 必死な声だった。


「そんな事をすれば、私は死んでしまいます!」


「邪神の言葉に耳を貸してはなりません」


 ナルバは即座に遮る。


「神器が揃えば、全ては正しい形に戻り────」


 ほんの刹那、カルラの黒に沈んだ瞳の奥が揺れた。


「助けて……! お父様……!!」


 その叫びが、陣幕に響いた瞬間。

 鮮血が、赤く布を染めた。


「────!」


 ヴァルスは思わず一歩踏み出しかけた。

 だが、足が動かなかった。

 腰から下の感覚が抜け落ちたようで、膝に力が入らない。

 倒れ伏したナルバの身体から血が溢れ、床に広がっていく。


 一瞬、音が消えたように感じた。

 焚き火の爆ぜる音も、兵の息遣いも、すべてが遠のく。

 残ったのは、鉄の匂いと、床に広がる赤だけだった。


「神器など────」


 メドゥルは剣の血を振るい、冷え切った声で言い放つ。


「カルラの命を脅かすものなど必要ない。

 世界がどうなろうともな」


 崩れ落ちたナルバは、血を吐きながら微かに笑った。


「……愚かな……

 しかし、それも人の選択か」


 それを最後に、声は途絶えた。

 その身体から紅い光が抜け出し、カルラの胸元に吸い込まれていった。


 沈黙の中、盾が持ち上げられ、ヴァルスの前へと無造作に投げ捨てられる。

 鈍い音を立てて、転がった。

 ヴァルスはそれを見下ろしながら、ただ立ち尽くしていた。


 盾が足元で止まる。

 姉はもう、昨日の姉ではない。

 父も、どこか遠くへ行ってしまった。

 戦よりも深い場所で、何かが静かに壊れていく音だけが、胸の奥に残った。


 もう、元には戻らない──

 その確信だけが、静かに広がっていった。


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