3品目:淡く光る短剣
森の奥へと進むにつれ、霧はますます濃くなり、空気は異様に重くなっていく。
通常ならこのあたりですら危険だが、今はさらに瘴気の密度が増している。
(やっぱり、何かがおかしいわね……)
リュシアは慎重に足を進めながら、瘴気の流れを観察していた。
本来、瘴気は森の中に均等に広がるものだ。しかし、今の瘴気には明らかな偏りがある。まるで何かを中心に、渦を巻くように流れているようだった。
(これは……自然現象じゃないわね)
何者かが意図的にこの状態を引き起こしている。
男も同じ異変を感じ取ったのか、低い声で呟いた。
「……ここまで濃い瘴気は初めてだ」
「私もよ。これはただの森の変化じゃないわね」
リュシアは慎重に辺りを見回す。
「気をつけなさい。もしかすると、瘴気を発生させている“元凶”がいるかもしれないわ」
その言葉に、男の表情が僅かに強張った。
二人は慎重に進みながら、目的の素材を探す。
「……あった」
男が指差した先、古い倒木の根元に深緑色に光る苔が生えていた。
これこそが、今回の調合に必要な「魔力を持つ素材」だった。
リュシアはしゃがみ込み、慎重に指先で触れる。
「……間違いないわね。これなら使える」
彼女が小さな瓶を取り出し、苔を採取し始めた——その時。
——ガサッ!
突然、霧の奥から何かが動く気配がした。
リュシアと男が同時に視線を向けると、霧の中から異形の獣が姿を現した。
全身が瘴気に包まれ、ただれて変形した皮膚。赤黒く濁った瞳が、獲物を見つけたかのように光る。
「……厄介なのが来たわね」
リュシアは静かに立ち上がり、腰のポーチに手をかける。
「こいつ……魔獣か?」
「いいえ。もともとは普通の獣だったものが、瘴気の影響で変異した存在よ」
「……瘴獣、か」
男は低く呟くと、腰のナイフを抜いた。
瘴気の影響を受けた魔物は、通常の個体よりも攻撃的で、さらに異常な回復力を持つことがある。放っておけば、この森の異変をさらに加速させる厄介な存在だった。
そして、目の前の瘴獣は——間違いなく戦わなければならない相手だった。
「……やるわよ」
リュシアはポーチから小さな瓶を取り出し、男に短く言った。
「こいつ、普通に斬っても倒せないわよ。瘴気の影響で耐久力が上がってるからね」
「じゃあ、どうする」
リュシアは淡々と笑う。
「毒で殺すのよ」
そう言って、瓶の中身を男のナイフに垂らした。淡い紫の液体が刃に馴染むと、それは一瞬で透明に変化する。
「これなら、こいつの回復力を削げるわ」
「……効果は?」
「一撃で仕留められるほど甘くはないけど、確実に動きを鈍らせる。あとはあなたの腕次第ね」
男は短く頷き、構えを取った。
瘴獣が低く唸ると、次の瞬間——猛然と二人に襲いかかってきた。
男は瞬時に反応し、素早く横へ跳ぶとナイフを逆手に構える。
「はっ!」
鋭い突きを放つが、瘴獣の皮膚は異様に硬く、刃が深く刺さらない。さらに、瘴気に適応したせいか、動きも異常に素早かった。
(こいつ……ただの魔獣よりも厄介だ)
男はすぐに態勢を立て直し、距離を取る。瘴獣はすぐさま追撃しようとするが、その隙を突いて男は毒を塗ったナイフを横薙ぎに振った。
ナイフが瘴獣の脚を切り裂く。確かな手応えがあった。
「……効いたか?」
男が低く呟いた瞬間、瘴獣の体が僅かに痙攣し、動きが鈍る。
「毒が効いてるわね。でも——」
リュシアは冷静に言いながら、瘴獣の様子を観察する。
「それでも、まだ動くつもりみたいよ」
瘴獣は動きを鈍らせながらも、再び攻撃の構えを取る。赤黒く濁った瞳が、男を標的として睨みつけていた。
「チッ……!」
男は再び攻撃を仕掛けようとするが、瘴獣の素早い反撃に対応しきれず、紙一重で爪を避ける。
(……このままじゃ、持たないな)
毒の効果は確かに効いているが、それでもなお瘴獣の攻撃力と耐久力は脅威的だ。
リュシアはその様子をじっと見つめながら、静かに溜息をついた。
「……仕方ないわね」
彼女はポーチから小さなガラス瓶を取り出した。中には淡い青色の液体が揺れている。
「派手なのは好きじゃないけど……こういう時には便利なのよね」
リュシアは瓶を軽く振り、地面に向かって投げつけた。
——ボンッ!
強烈な閃光とともに、衝撃波が周囲に広がる。
爆裂ポーション——とはいえ、単なる爆発物ではない。威力自体はそれほどではないが、瘴気を吹き飛ばす特殊な効果を持っている。
爆風と共に、周囲に充満していた瘴気が一気に霧散する。
「なっ……!?」
男は驚きながらも、すぐにこの変化を察知した。
(瘴気が……消えた?)
その瞬間、瘴獣の動きが明らかに鈍る。
「瘴気に適応した魔獣にとって、瘴気そのものが生存環境なのよ」
リュシアは冷静に言いながら、ポーチの中を探る。
「つまり、それを奪えば動きが鈍るってこと」
だが、瘴気を払っただけでは完全に倒せるわけではない。瘴獣は依然として生きており、今も怒りに満ちた唸り声を上げている。
リュシアは静かに目を細め、ポーチの奥から一本の短剣を取り出した。
「……仕方ないわね。少しは働くとしましょうか」
彼女が取り出した短剣は、シンプルな作りながらも、刃に僅かに魔力の波動が宿っていた。
リュシアがそれを握り、そっと魔力を流す。
淡い蒼白色の光が、刃全体を覆った。
男はそれを見て、驚いたように目を見開いた。
「お前……剣も使えるのか?」
「使えるというほどじゃないけどね」
リュシアは微笑みながら、短剣を軽く振るう。
「ただ、錬金術士だからって、戦えないとは思わないでほしいわね」
瘴気の消えた戦場に、魔力を帯びた短剣の刃が、蒼白い光を放つ。
瘴気を失った魔獣は明らかに動きが鈍くなっていたが、それでもまだ戦闘不能にはなっていない。
「さぁ、そろそろ終わらせるわよ」
リュシアはそう言うと、軽く足を踏み込み、短剣を構えた。
男もナイフを構え直し、リュシアの隣に並ぶ。
「俺もやる」
「好きにしなさい。でも——」
リュシアはチラリと男を横目で見ながら、冷静に言う。
「ついてこれるなら、ね」
次の瞬間——リュシアの姿が消えた。
「……っ!」
男は目を見開いた。
速い。いや、異常なほど速い。
まるで霧の中をすり抜けるように、一瞬で瘴獣との距離を詰めていた。
「はっ!」
リュシアの短剣が、瘴獣の頸部をかすめる。刃が淡く輝くと同時に、まるで魔力が込められたように切れ味が鋭さを増し、硬い皮膚すら容易く切り裂いた。
瘴獣が苦しげに唸る。
男も後を追って攻撃しようとするが——
(……くそっ、追いつけない!)
彼の動きが遅いわけではない。むしろ、経験豊富な冒険者なら普通についていけるはずだ。
しかし、リュシアの動きはそれを遥かに超えていた。
(なんだ、こいつ……なんで錬金術士のくせに、こんなに動ける!?)
男が驚愕している間に、リュシアは再び鋭い一撃を叩き込む。
「ふっ!」
短剣の刃が瘴獣の関節部を斬り裂き、魔獣の動きがさらに鈍る。
このままいけば、もう反撃の余地はない——そう思った瞬間。
「——グゥオォォォォッ!」
瘴獣が最後の力を振り絞り、暴れ出した。
異常な筋力で地面を砕きながら、巨大な爪がリュシアを狙う。
「危ない!」
男が叫ぶが——リュシアは眉一つ動かさない。
「遅いわよ」
彼女は軽く足を踏み込み、魔獣の懐に潜り込む。
そのまま、短剣を逆手に持ち替え、魔獣の首筋に突き立てた。
——スッ。
まるで水面をなぞるような軽やかな動作だった。
瘴獣が、まるで理解が追いつかないとでも言いたげに、ギラついた目をリュシアへ向ける。
だが——
「——もう遅いわよ」
リュシアが囁くように言った瞬間、瘴獣の体から力が抜け、ズシリと地面に崩れ落ちた。
「……終わりね」
短剣を静かに引き抜くと、紫黒い血が滴り落ちる。
男はしばらく呆然とその光景を見つめていたが、やがて低く呟いた。
「……なんで、お前、そんなに強いんだ……?」
リュシアは軽く肩をすくめる。
「別に、特別なことはしてないわよ。ただ、“必要だったから”戦い方を覚えたの」
彼女の言葉に、男は何かを言いかけたが、結局黙り込んだ。
(こいつ……ただの錬金術士じゃない)
男の中で、リュシアへの認識が大きく変わる瞬間だった。
瘴獣の死体を前に、リュシアはポーチから小さなナイフを取り出し、魔獣の体を調べ始めた。
「何をしている?」
「せっかく倒したんだから、使えそうな素材がないか調べるのよ」
彼女は魔獣の体表を丁寧に観察し、傷の少ない部分を探る。
「……これは使えそうね」
リュシアが慎重に取り出したのは、瘴気を帯びた獣の爪だった。
「どうするつもりだ?」
「瘴気の影響を受けて変質した素材って、うまく調合すれば強力な抗体を作れるのよ」
リュシアは手早く素材を確保し、短く言った。
「よし、必要なものは揃ったわ。街へ戻りましょう」
街へ戻ると、リュシアはすぐに工房に籠り、瘴気に耐えられる薬を調合。
男の仲間に使用すると、無事に回復し、意識を取り戻す。
その後、男が冒険者ギルドに寄ると、受付の者から驚きの事実を告げられた。
「えっ……? 瘴気の森で瘴獣を討伐した?」
ギルド職員が目を見開く。
「ちょうど最近、あの森の異常な瘴気のせいで、討伐対象になっていたんですよ! 誰がやったのかと思ったら……」
男はリュシアを横目で見る。
彼女はどこ吹く風といった様子で、酒を片手にくつろいでいた。
「……お前、本当に何者なんだ?」
男の問いに、リュシアは微笑みながら答えた。
「ただの錬金術士よ」