1話 死神少女と出会った
AM7:23。朝のホームには、仕事へ向かうスーツ姿のそれや制服姿のそれ、とにかく地味な色で溢れ返っていた。
普段は人の着ている服なんて気にも留めないのに、今日が人生最後の日であると感じた途端、そんな地味な色たちが実は若干の違いを持っていたことに気がついた。
……これから僕は、目の前にある線路に飛び込む。
僕の心はもうボロボロになっていた。
最後の晩餐として食べたメロンパンも味がしなくて、途中で食べるのをやめた。
今日は幸運にも電車の遅延等々ないそうなので、僕の冒険の始まりまであと2分程度。手癖で今日の授業で使う教科書などを持ってきてしまったが、ただ重いだけだった。
“まもなく、2番線に電車が到着します。危険なので、黄色い線の内側でお待ちください。”
機械的なアナウンスが流れる。僕は何も考えなくなった。
リュックを差し置き、黄色い線を大きな一歩で踏み越える。
「下がってください!!」
駅員がよく通る声で警告する。だが気にしない。
瞬間、視界の端に捉えた電車から聞いたことのないような音量の警笛が鳴る。全身の感覚が敏感になり、視界の時間がゆっくりと流れた。耳をつんざく警笛の音、僕の後ろに並んでいた人たちはスマホから顔をあげ、驚きの目で僕を捉える。想像通りの反応だった。
僕は目を瞑った。
*
快適な揺れが僕の背中を刺激して、ゆっくりと意識を覚醒させる。眩しい朝日が車窓から差し込んでいて、僕は思わず開いた目を細める。
そこは、僕は接触したはずの電車の車内だった。4人が座れるボックス席の窓際。そして僕の対角線上、通路側に人が座っている。白いワンピースを着た少女だ。幼い顔立ちをしている。肩あたりまで伸びた黒髪をハーフアップで纏めていて、その姿は夏を連想させるもので、季節感とどうにも合わなかった。
彼女は無表情でスマホを操作していたが、僕の方をチラリと見ると、声をあげた。
「あ、起きた」
「……僕、飛び降りたはずでは」
「そうだねえ、飛び降りたけど、私が直前で君にタックルして、接触を防いだからねえ。なので君、まだ死んでないよー」
おっとりとした話し方で説明する女性により一層幼さを感じつつも、僕は内心で彼女の存在に苛立ちを感じていた。
「なんでそんなことしたんですか」
「えー?だってタックルくらいしないと君と私の体重差が……」
「そういうことじゃなくて!」
先の警笛に負けないくらいの大きな声を出して、はっと我に帰る。車内を見渡したが、僕ら以外誰もそこには乗っていなかった。今朝のホーム内の様子とはまるで違っていて、それこそ僕はやはりあの世界とは別の世界へ来てしまったかのようだった。
「まー、そこが気になるよね」
「わざと、とぼけたんですか」
「私だって一端の社会人だったし、それくらいの意図は汲めるよ」
女性はにっこりと笑うが、瞳の奥には光がない。僕が大嫌いな笑い方だった。希望もないくせいに表情だけ取り繕って他者に媚びるためだけの表情。自分は一ミリも面白くないと思っている人の笑い方だ。
「ブラックジョークにしては漆黒すぎますね」
「あはー、そうかも」
なぜか、僕はそれ以上追求するのが怖くなってしまって、ふと車窓へと目を向けた。内陸の駅を出発したはずなのに、そこにはなぜか綺麗な海が映っていて。朝日に照らされてキラキラと輝く水面が美しかった。
女性もそれから少しの間話さなくなって、聞きたいことも聞けないまま10数分が経過した。
「……学校でいじめられてたんでしょ?」
「はい?」
おもむろに女性が口を開いた。
「それか彼女にでも振られた?あるいは生きる目的みたいなものが見出せなくて、とか?」
「それって僕が飛び降りようと思った理由についてですか?」
「そう」
電車は長いトンネルへと入った。ゴウゴウとトンネル内の空気を切り裂く音を聴きながら、僕はついに無表情になった女性を見る。瞳は黒く、口は水平に結ばれている。車内の蛍光灯に照らされた彼女の表情はあまりにも無機質でゾッとした。
「は、初めて会った人にそうポンポン話せるわけないじゃないですか」
「……あは、そうだよね」
女性は終始微笑みながら僕の言葉を聞いた。人が死のうとしているのに、全くマイナスな感情が感じられなくて、僕はひどく動揺していた。
だから、僕は自分の考えをぶつけてみることにした。
「でも本当にあそこから飛び降りようと思った理由は、もっと前向きな理由です」
「前向き?死ぬことに前向きな理由なんてあるの?」
「ありますよ、もちろん。僕は人生の先にある世界を冒険するために、飛び降りようと思ったんです。規格外の力を手に入れて異世界転生……なんてものは夢の見過ぎですけれど、例えば普通に全く別の世界に生まれ変わったり、本当に天国や地獄に行ったり。あるいは無限に続く無であったり。そんな世界たちを冒険したいと思ったんです」
僕はこの数週間、ずっと考えていた。この世界が嫌になったから死ぬのでは、この世界に負けた気がして、生まれた環境に負けた気がして、自分を許せなかった。
だから冒険。死なんて言葉を使うくらいなら、新たな世界への冒険の始まりと捉えた方が、変に悔いを残さないでいいと感じたのだ。
僕の話を聞くと、彼女の表情は驚愕の色から次第に明るくなって、車窓から溢れていた朝日のようにパッと明るくなった。警笛のような笑い声が、車内いっぱいに響いた。僕は真剣に僕の考えたことを言ったのに思ったような反応が返ってこなくて、不服そうに唸る。
「な、なんで笑うんですか」
「あははっ……!ごめんごめん。おかしいなぁと思って」
僕の考えは決して若くないと思ったのだが。
むしろ高校2年の中では人生というものを達観していて、それを超越して諦観すらしていたのに。クラスや学年の奴らに比べたら考えも行動も僕は彼らより大人だと自負している。
この女性が高校生がただのガキであるということを知らないのか、それともこの女性が見た目よりも年増であるのか、あるいはその両方なのかをこの場で問い詰めたい気分になった。
だが何かを話そうとすればするほど、この行動が無駄であるという結論に辿り着く。僕は諦めて、真っ黒な車窓を肘をつきながら眺めた。
「あれ、拗ねちゃった?若いって褒め言葉なんだよ?」
「僕にとっては見下されているような気がして不服です。」
「へぇ、そうなのか。それはごめんね?」
おっとりとした話し方にだんだんと苛立ちを感じていた時、電車はトンネルを抜ける。僕ははっと息を呑んだ。
長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。米粒のような雪が絶え間なく振り続け、海へと流れていく。
その景色を切り取った車窓はキャンパスのようで、一枚の絵画を眺めるような心持ちでそれをみていたが、気がつけば女性も僕の前に腰を降ろして、わあっと歓声を挙げながら一緒にそれを眺めていた。
そのうち駅に電車が停まり車内に沈黙が落ちた。彼女はチラチラとスマホを眺めていたが、不意に僕の方へ顔を向けると、無邪気な笑みを浮かべて言った。
「そんなに死にたいなら、いい死場所教えたげる」