2.僕は大馬鹿野郎だ
いつも遅くに学校に着く。できるだけ寝ていたいからだ。
人の姿が見えない下駄箱で、上履きの先をトントンと床に当てていると、玄関から駆け足で近寄ってくる玲奈の姿が見えた。
「櫻井君おはよー!」
「おはよ。どうしたの今日?」
「今日が楽しみ過ぎて、通話の後起きてから寝れなかったの」
玲奈は満足げな笑みを浮かべて、こちらに近寄ってきた。
「ね、今日の放課後楽しみだね」
「そ、そうだな」
と僕が言うと、いつものように駆け足で廊下を走っていく。
僕はその姿を後方から眺めるのが、月に数回の楽しみだ。
ドアの前でたむろっている女子たちに挨拶をする玲奈は、教室に入っても同じようなことを繰り返す。
僕はと言えば、窓際後方に陣取っている冴えない男子数人と挨拶を交わす程度だ。
この差よ。
その後も笑顔を絶やさずに友達と話す玲奈に対して、僕たちは静かにソシャゲの話をする。
昼休み。玲奈は数名の生徒と食堂に向かう。僕は母親の手作り弁当を食べる。
味気ない。
僕の高校生活は、モノトーンだ。
いつものメンバーと共に机をくっつけてから、弁当の蓋を開ける。
今日のおかずは卵焼き。もう見飽きた。心の中で溜息をつくと、前方の友達が目を丸くして俺と後方を交互に見ていた。
何ごとかと思い振り向くと、僕の右頬に人差し指が食い込んでいく。
「引っかかった!」
パンを片手に、無邪気に笑う玲奈がいた。
「東雲……?」
「一緒にご飯たべよって思って!」
「で、でも、いつもは紗季さんと食べてるんじゃ?」
「なんか、みんな職員室で用事があるらしくて」
「今日くらい、一緒にどうかなって? ダメかな?」
「ちょ、ちょっと待った! お前と東雲さんがなんで!」
恭介の大声で教室が静まり返る。ジーッとという視線が僕らに向いていた。
一部の女子生徒は、まるで僕らが玲奈に不埒なことをしたかのような目で見てくる。
怪訝そうに眉を顰めて。
ああ、僕の頭は真っ白になっていく。
「私たちは……」
言葉を濁した東雲は、僕を一瞥すると、はにかんだ。
「友達!」
「おいおい櫻井。おまえ、なんで東雲さんと」
「おーい櫻井! 聞いてんのか!」
眼前のやかましい友達を無視して、僕は再び教室を見渡した。
ひそひそ話。
「東雲さんと付き合ってるのかな?」「んなわけ」「でもなんか距離感ちかくない? 東雲さん嬉しそうだし」「でも相手は櫻井だぜ?」「羨ましいなでもさ」「東雲、意外と押せばやれるタイプか?」
「東雲さんマジ?」「櫻井くんのどこがいいの?」「変わってるよねぇ東雲さん」「櫻井の金とか?」「ちょっと声大きいって」
僕は床を蹴った。
ドアを乱暴にスライドさせると、廊下を駆ける。
しかし、特に行く当てもなく、屋上へと続く階段に辿り着いた。
気持ちが悪い。全力疾走をした後の疲労感と、クラスでの陰口。
僕は倒れ込むように、階段に座った。
落ち着かせるように深呼吸をしてから、上がった息を整える。
それから額の汗を拭った僕は、ようやく平静さを少し取り戻せた気がした。
「何やってんだ僕」
格好が悪すぎる。
玲奈は勇気を振り絞ったというのに、僕は周りの視線に耐え切れず、逃げてきた。
僕は長い溜息を吐き出すと、ブーンという振動が太ももに伝わってくる。
『早く謝れ馬鹿』
『俺に対応は任せろ。東雲はいただいた……それは嫌だろ?』
ああ……終わったと感じた。
今日の放課後は夏祭り。今後の玲奈との未来が潰えていく。
玲奈からの連絡もない。完全に嫌われた。
僕は結局、予鈴がなるまで、どうすることもできなかった。
☆
教室の引き戸を開けると、クラス中の視線は僕に向いていた。
興味津々そうにニヤニヤしている者、ガッツポーズしている者、軽蔑している女子数人。
僕はとぼとぼとした足取りで、席に戻る途中で、玲奈を横目で見た。
玲奈は、背を向けている。いつものような覇気がなく、背中が幾分丸まっているような気がした。
授業中にも、僕は玲奈の表情が気になり、チラリチラリと何度も横目に見た。
沈んだ表情をしている。時折、僕と目が合うと、視線を黒板に戻す。
それを繰り返していると、僕は罪悪メーターは徐々に高まっていく。
僕は最低だ。
悲しい顔は見たくない。とにかく謝らなければならないと思った。
湿る掌でスマホを取り出すと、机の下で画面をタップする。
『ごめん。僕は最低なことをした。僕は……恥ずかしかった。友達にからかわれるのが。東雲さんが馬鹿にされるのも嫌だった。僕は卑屈な人間なんだ』
だから、期待に沿えない言動をしてごめん。
そこまで入力して、僕はその文章を消した。
僕は玲奈との未来を自分で摘み取っている。そうじゃない。
――僕はどうしたいんだ?
卑屈な僕。人の目を気にしたり、玲奈や他人の感情を勝手に気にしたり。
それでも、玲奈は僕を好ましく思ってくれているんじゃないのか。
また玲奈を傷つけようとしているメッセ―ジを送ろうとしていた。
僕が傷つきたくないから。
「櫻井くんは、この問題を解いてねー。今野さんは2番を」
若い女教師は、数学の問題をノックするように右手で叩いていた。
問題自体は大したことがない。だというのに、僕は黒板に着くまで何も考えられなかった。
問題を解き終わった後、自席に戻る途中に玲奈の顔を横目で見た。
ほんの一瞬だけ目が合った。
玲奈は慌てるようにピクリと体を震わせると、廊下側の壁に向けて顔をそむけた。
まぁ、そうだよな。
落胆する気持ちすらなかった。そもそも、こういう状況がデフォルトの僕の生活だ。
僕はたった今、振られたも同然だった。
それもそうだ。体裁を保つために、僕は玲奈に酷いことをしたのだから。
そうだというのに、僕の中で湧き上がってくる感情がある。
外から舞い込む夏のジトっとした温風で頭がおかしくなったに違いない。
下唇を噛み切っているように痛む。血は出ていない。
――僕は、失ってから気づいた。
僕は、玲奈に振られるのが何よりも嫌だった。心臓がぎゅーっと締め付けられる感覚。苦しい。
向日葵のように明るい笑顔を見せる玲奈を、僕は悲しませた。
僕は大馬鹿野郎だ。
男友達の目? そんなことどうでもいいじゃないか。
僕と玲奈のの噂話? そんなことどうでもいいじゃないか。
付き合うのが恥ずかしい? そんなことどうでもいいじゃないか。
玲奈が友達にセンスがないと思われるかも? それはただの言い訳だ。
どちらかを得れば、必ずどちらか失う。僕は体裁をとった。
――大馬鹿だった。
あれから数時間しか経っていないというのに、後悔の波が押し寄せてくる。
心臓がギューッと何度も締め付けられる感覚。
玲奈に謝ろうか。いや、好きと伝えようか。
でも、結末は分かり切っている。どうせ振られるんだろう。
僕は再び玲奈を見た。
触角後方の横髪が耳に掛けられている。考え事をしているのか、行儀よく座っている玲奈は視線を落として硬直しているように見えた。
ああ、これから先、僕は玲奈と連絡できないんだろうな、と思った。
そう思うと体から力が抜けてくる。
「櫻井くん。早く席に戻ってね。はい、それじゃあ次は、二次関数y=x2のグラフについて説明します」
僕は立ち尽くしていたらしい。
のそのそと自席へと戻る途中で、もう一度玲奈を見た。
目が合った。
驚いたように一瞬だけ目を丸くした玲奈は、やはりすぐさま目を逸らした。
心臓がギューッと締め付けられる。
こんなにも、好きな人に嫌われるのが辛いなんて思わなかった。
僕が今まで考えていた体裁なんて、どうでもいい。
僕は、心の底から東雲玲奈が好きなんだ。
失うなんて嫌だ。急に考えを変えた僕は、自己中心の馬鹿野郎かもしれない。
それでも、嫌なんだ。
自席に急いで戻ると、ポケットからスマホを引き抜いた。
『放課後、話がある。書庫で待ってる』
そう入力すると、素早くスマホを閉まって、拷問のような午後の授業を過ごした。