76.地の底
浮かんでいた。どこかに。
ふわりとした浮遊感だけを感じて、漂っている。
いつからここにいたのかわからない。
ただただ揺蕩っている。
何も感じない。
何/痛みも苦しみ/も感じなくて、それが心地よかった。
ただ、やっと解放されたという思いだけがあった。
ずっと耐えてきた務めがようやく終わったのだ。
……一体何のことだった?
「──なるほど。なぜ己がこのような場所で、このようなものを延々と見せられ続けていたのか、ようやく理解した」
誰かの声がした。
聞いたことのない、男の人の声。
不思議と落ち着く声だった。
とても穏やかで、優しくて、温かい。
「地母龍様はお見通しと言う訳だ。随分と未来を見据えていらっしゃる」
彼は一体何を言っているんだろう。
喋っている言葉が理解できない。
そもそも、彼は自分に語り掛けているのだろうか?
……自分って、何だったっけ?
「──少年。君はこんなところで何をしている?」
その言葉は、はっきりと自分を指し示してのものだった。
自分は、少年と呼ばれるような存在だったらしい。
「君は未だ道の途中。終わりに足るものを得ていない」
道の途中って、どういう事だろうか。
だって、ここはもう、終わりだ。
どうしようもないほどに、直感的に分かることだ。
終わってしまったんだから、どうしようもない。
「君はその程度で諦めることができないはずだ。それだけの存在を君は得ている」
俺は何を持っていた?
……分からない。思い出せない。
やっと苦しみから解放されたのだから、もう放っておいてほしい。
「いいやきっと後悔する。ここで諦めてしまっては、君が今まで受けてきた痛みも、苦しみも、全てが無意味になってしまう。それではあまりにも救いがない」
……分からない。
今まで歩んできた地獄を帳消しにしたっていいと思えるようなモノを、俺は本当に得ていたんだろうか?
それだけ大切な存在が、本当にいたのだろうか?
「君にもう一度立ち上がれと言うのはとても酷な話だと理解している。……それでも己は言おう。立ち上がれ、少年」
もう一度、あの地獄を味わえと。
この人はそう言っている。
そうしなければ、地獄を歩んできた意味が失われてしまうと。
分からない。
分からない、分からない分からない分からない、分からない!
どうしてまた苦しい思いをしなければいけないんだ!?
「その答えを君はもう知っているはずだ。──人は、大切な存在のためならば、信じられないほどに強くなれる」
────/────。
その言葉が、心を穿った。
それは。
その事実は。
知っている。
分かっている。
この心が、覚えていた。
──例え、どれだけの痛みや苦しみがこの身を蝕んだとしても。
その人が側にいてくれたのなら──。
役割を終えた炉に火が灯る。
再び拍動を打つ。
自分よりも、大切な存在が、いた。
確かにあった。
──俺は、俺だけの存在を見つけていた!
焦燥感が急激に沸き上がる。
こんなところにいる場合ではないと。
こんなことをしている場合ではないと、本能が叫んでいた。
「今すぐここを出ろ。己が少しばかり力を貸す」
この人は、俺に力を貸してくれるようだ。
会ったばかりの俺になぜそこまでしてくれるのか分からないけれど、とてもありがたかった。
……前にも、こんなことがなかったっけ。
連鎖して呼び覚まされた記憶は、七彩の輝き。
記憶の欠片。
地獄を照らした光──始まりの記憶。
「──ジルア様を頼む。己にとっても娘の様な存在なんだ」
「!」
その、名前、は──、
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*** ***
***
浮かんで/沈んで/ゆく。
上昇/墜落/する。
相対する二つの流れに翻弄されながら、再び地獄へと向かう。
泡のような何かが、身体を突き破るように弾けていった。
記憶だ。
このボロボロの身体の一体どこに残っていたのか分からないほどに、膨大な量の、記憶。
地獄を染め上げるほどに色鮮やかな出来事たちが、浮かび上がってゆく。
***
*** ***
*** *** ***
始まりの虹の記憶。
『あぁ! オジサンのことはオジサンと呼んでくれ! これでも娘がいる歳なんだ! 歳は……そうだなぁ、君と同じくらいだよ』
『え? 髭でも生やしたらどうかって? 髭はチクチクするから生やすのヤなんだよなぁ……』
『ん? あぁ、冒険者だと色々便利──ではなく! オホン……単純に冒険は楽しいからさ!』
『冒険者になったら、まずは仲間を探さないとな。……それに、きっと君に一番必要なのは、仲間だ』
オジサンは不思議な人だった。
物語に出てくる正義の味方のような超然的な雰囲気を持っているのに、親しみやすい人柄をしていた。
後、自分のことをオジサンと呼んでいたけど、どう見ても青年ぐらいの歳にしか俺には見えなかった。
『──オジサンは今までずっと幸せだったから、これからは辛いことしか待っていないんだ』
これはいつの事だっただろうか。
俺は何と答えていいのか分からず、ただ黙ってオジサンの言葉を聞いていた。
*** *** ***
銀の剣の記憶。
『レイルよぉ、お前さんは本当に愚直というか……歯に衣着せずに言うとバカだよなぁ』
『おいっ! なぁにそんな隅っこで縮こまって座ってやがんだレイル! こっちゃこい、こっち! お前の昇格祝いだろうが!』
『あん? 俺ぁ固定で誰かと組む気は無いっての。旦那に頼まれたから二爪まで面倒は見てやったがな。これからはお前の力で全部やっていくんだよ。……ま、たまにゃ一緒に依頼受けたりもしてやるから、安心しろい』
ダニーはぶっきらぼうだけど優しい人だ。
俺が冒険者としてやっていけるまで、面倒を見てくれた。
見かけに全くそぐわない華麗な剣技は、いつも俺の憧れだった。
『すまんレイル、金貸してくれ……!』
……少し、アレなところもあったけど。
いつも、俺を見守っていてくれているのは、知っていた。
*** *** ***
白い初雪の記憶。
『きゃっ!? ……えっ。……あ、ありがとうございます! い、いえ、少し迷惑していたので、助かりました……!』
『レイルさんっ、こちらへどうぞ! 今回はどの依頼になさいますか? ……そうですね、モンスター討伐でしたらこの辺りがオススメですっ』
『三爪への昇格おめでとうございます! 私も嬉しいです!……だって、レイルさん頑張ってたんですもの』
ミーシャさんはいつも優しく微笑みかけてくれる。
こんな俺にも分け隔てなく接してくれる人だった。
俺が冒険者としてやっていけたのは、間違いなく彼女のおかげだった。
『あっレイルさんっ! あ、いえ、特に用とかではないんですけれどっ! ……さ、最近はパーティを組んで活動していらっしゃるみたいで、良かったです!』
パーティを組んでからは俺が受付に行くことがなくなってしまったので、彼女と話す機会も殆ど無くなっていた。
けど、偶に会った時には必ず気に掛けてくれていて、嬉しかったのを覚えてる。
それと同時になぜか他の冒険者からの風当たりが強くなったのも覚えている。
*** *** ***
優しい黒色の記憶。
『こ、これは魔術で顔を隠してるだけで、人間だ……。何か、わたっ……オレに用でもあるのか』
『……今日なったばかりなんだ、冒険者』
『はぁ……昨日の礼だ。わた……オレが代わりに依頼を読んでやるよ』
『レイルーっ! こっちだっ! 早く早くっ!!』
『む……大丈夫だって言ってるだろ。子供じゃないんだから』
目まぐるしく変わる表情を幻視する。
何もかもが魔術で黒く塗りつぶされていたけれど、きっと彼(そもそも人間?)は表情豊かな人物なんだろうと思った。
ジェーンは初めて接するタイプの愉快な人だった。
偶々助けたのがきっかけで、翌日一緒の依頼でパーティを組んだのが始まり。
中々に不思議な巡り合わせだなぁ、なんて思っていたのを覚えている。
『気にするに決まってるだろ』
『身体が丈夫だからって、傷がすぐに治るからって──痛いものは、痛いだろ!』
『……スキルや魔術で傷は癒せても、受けた苦痛なんて、時間が巻き戻りでもしない限り、なかったことにはならない』
『……お前は、多分、すぐに治るからって、痛みや苦しみばかり背負って生きてきたんだろうな……。……短い付き合いだけど、絶対そうだって、分かる』
『──……助けてくれて、ありがとう。それと、ゴメン。オレのせいで、痛い目に合わせてしまった。……一生の借りだ。必ず返す』
そんな事を言われたのは、初めてだった。
この程度の外傷なんて慣れきって、感覚すら麻痺していたはずなのに。
そう言われてから、じくりと傷跡が痛くなったことを、今でも覚えている。
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