47.誰に認めてもらえずともⅤ
「はぁ……」
酔いを醒ますため、レネグはテラスに出ていた。
茹った頭に夜風が心地良い。
(場の雰囲気に呑まれて、言われるがままに飲まされ過ぎたな……)
リュグネシア王女結婚記念の祝宴──。
普段このような社交の場に連れ出されることすら稀だった。
他がどうかは知らないが、イドリース家では、次男というものは長男のスペア品扱いだった。
爵位を継ぐ長男に多くの期待や関心が寄せられるのは必然であり、次男は万が一の場合の保険に過ぎない。
リュグネシア王女の結婚という一大イベントでもなければ、連れ出される事もなかっただろう。
(挨拶に連れ回され過ぎて、もはや誰が誰であったのか記憶が危うい……)
レネグの生まれであるイドリース家というのは侯爵位の家柄である。
王国の中では高位の大貴族。その恩恵に預かろうとする者は大勢いる。
レネグのようなスペア品であっても、コネを作らんとする輩は後を絶たなかった。
「……いかん、相当だな」
酒精に浸されすぎて、視界も思考もぐらついている。
テラスに出る前に水を貰うべきだったと反省しつつも、足は動きそうにない。
気分が落ち着くまでここで涼んでいくしかなさそうだった。
「……ん?」
手摺にもたれ掛かり、パーティ会場をぼんやりと眺めていると、それに気付いた。
テラスの外側に向かって開かれたドアの内側。
そこに、何かがいた。
「足?」
ドアの硝子の向こうに、真紅のハイヒールが見えた。
ハイヒールだけが、見えた。
「……」
それが何なのか理解できなかったが、ジッと意識を集中させて見つめていると……次第にそれはハイヒールだけではなく、姿形を成していった。
最初は朧気な輪郭だけだったが、徐々に色彩を帯びていき、やがて真っ赤なドレスを纏った少女の姿となった。
「……」
「……」
パチクリ、とドアの向こう側にいる少女が瞬きをした。
「あー、その……見えてる?」
「えぇ。麗しいレディの姿が、今しがた見えました」
人形の如く整った顔立ち。艶やかな金髪。そして透けるような白い肌。
酔いが覚めるような美少女だった。
まだ成人はしていない幼い姿だが、成長すればさぞかし美しい女性になるだろうと確信できるほどに。
「クソ、バレたか……中々目が良い奴だな、オマエ」
「お褒め頂き光栄です」
そう言うと、少女はドアの内側から出てきてレネグに近づいてきた。
近くで見るとその美しさは一層際立っており、纏うドレスもそれに劣らない程の豪奢なものだった。
(この衣装と奔放な物言い、さぞや高名な家柄の令嬢と見ましたが……)
「さっきから見てたけど、大分気分が悪そうだな。大丈夫か?」
「! ……これは、お恥ずかしいところを見られてしまったようですね」
「酒の飲みすぎか? 匂いが濃いぞ」
「ははは、仰る通りです。……慣れない場なもので、進められるがままに飲み過ぎてしまったようです」
「無理やり連れてこられでもしたか。私と一緒だな」
いつの間にか少女がレネグの目の前に立っていた。
月灯が少女を照らして輝かせる。
まるで彼女がこの場の主役であるかの様に、その姿は煌めいていた。
小柄な少女ながらも、その堂々とした佇まいはまるで王様のよう。
「手、貸してみろ」
「はい?」
「いいから、ほら」
「なっ!?」
少女がレネグの手を無理やり取って、自らの胸に押し当てた。
むにゅん、と柔らかい感触が手の甲に伝わる。
「何を──」
「光、浄化せよ」
「!」
淡い魔術光が発し、レネグの身体を包みこむ。
少女の口から紡がれたものは魔術詠唱。
状態異常を回復する魔術だという事は、数少ない魔術についての知識でも知っていた。
「ど、どうだ? 杖が無かったから、自信が無かったんだけど……」
「──……!」
身体から酒精は抜けていた。
少女の魔術は正しく効果を発揮したのだろう。
「酔いが、抜けました……。レディ、感謝致します」
「わっ! ひ、跪くな! 礼なんていらないってば」
レネグは握り締められていた少女の手を恭しく取り、膝を着いて頭を下げた。
酒精は身体から抜けていた。
ただその代わりに湧き上がるのは、初めて感じる抑えきれない衝動だった。
──少女と言えど、女性から手を握られたこと自体が、レネグには初めてだったのだ。
「レディ、不躾ながら。お名前を伺っても、よろしいでしょうか?」
「え。あー……いや、名前は──」
「ジル! やっと見つけたわ!」
「!!」
突然の声に振り向いた先に居たのは──祝宴の檀上の中心に座っていた麗しき乙女。
この宴の主題。その張本人。
リュグネシア王女に他ならなかった。
「王女殿下……!?」
「ゲッ!? 姉さん……!」
「なっ──」
姉。
姉、と少女は確かに言った。
それは、つまり。
この、少女は──、
「もう、またあの人みたいに汚らしい言葉遣いをして! ずっと姿を見せないと思ったら、こんなところで何をしているの」
「こーいう場に出るのヤダって前から言ってるだろっ! 挙式と披露宴の時は大人しくしてたんだから、もういいでしょ!」
「そんな訳にもいかないの。王族として、ちゃんと皆の前で模範的な振る舞いを見せないと」
「だーっもう! まっぴらごめんだってば!」
「あっ、待ちなさいジルッ!」
その言葉を皮切りに、スカートの端を翻してテラスの先へ少女が走って逃げてゆく。
こんな狭いスペースでは逃げ切ることもできまい。
そう思ったレネグは、一体どうすべきかを思案したが──疾走する少女は、なんとそのまま柵を飛び越えてしまった。
「じゃな。まだ気分悪いようなら水を飲めよ」
ぴょん、と兎のように飛び跳ねた少女が、丸い月と重なった。
その姿は──月光を浴びる天女のようで。
(──……)
「ジルッ! 危ないっ!」
「危なくなーい! 私の心配してないで、姉さんはスヴェンと乳繰り合ってればいいんだよ──」
そのまま自由落下して、闇夜に溶け込みながら、彼女の声が離れていく。
魔術を使うのだ。この程度の高さから飛び降りても何の問題もないだろう。
「ああぁ……。あの子は全くもう……」
傍らで王女が頭を悩ませているのが見えたが、レネグは別の事に心奪われていた。
心を、奪われてしまった。
「ジルア、王女……あの方が……」
ジルア・クヴェニール。
知識としては知っていた。クヴェニール王家の第二王女。
第一王女に劣らない容姿と、素晴らしい魔術の才を秘めているらしいが、滅多に人前に出てこないという。
その有り様に、貴族の次子としてレネグはどこか既視感を覚えていたこともあった。
──が、比べるのも烏滸がましいとすぐに打ち消した。
「輝かしい」
自分とは比べるべくもなく、美しい魂の輝きを放っていた。
長男と比較されては厭世的な心地に浸っていたレネグにとって、それは眩し過ぎるほどだった。
そして同時に──男として、惹かれずにはいられなかった。
「……」
握られた左手を右手でそっと包み込む。
そこにはまだ温もりが残っているように感じた。
レネグは恋をしたことがない訳ではない。
だが、こんなにも激しく胸を焦がすような想いは初めてだった。
「……はは」
月を見上げると、彼女の姿が網膜に重なった。
それほどに強く、さっきの光景が結びついてしまった。
(もう一度、会えるだろうか)
レネグはその頭脳をフル回転させて、王女ともう一度出会えるような方法を模索する。
──それが、王国騎士を目指す切っ掛けになったのだった。
*** *** ***
いつだって目を閉じれば、その記憶は鮮やかに蘇ってくる。
たった数瞬の出来事であっても、レネグにとっては生涯忘れることなどできないほどに鮮烈だった。
「いつまでも、その輝きが損なわれる事がありませんように」
例え一方的で、身勝手な祈りだとしても、それでも願わずにはいられないのだ。
「──どうか、幸せになってほしい」
そう。
誰に認めてもらえずとも、この想いだけは、初めて会った時からずっと変わらない。
ジルア王女の在り方は、今も変わらず閃光のように輝いている。
それを守りたいと思うのは、独りよがりの勝手な想いだろうか。
けれど、止められない。
あの瞬間に、胸に灯った炎が消えることはないのだから。
「……さて、これからどうすべきか」
これ以上の手助けはいらない、と(暗に)言われてしまった。ならば大人しく帰るべきなのだろう。
だが、あの王女様は意外とドジを踏んでしまう性質だ。
裏方から手を回しておけば、何かあった時に役立つかもしれない。
レネグがそんな事を思案していると、唐突にそれは聞こえてきた。
──『錆び付く倫理』
「……?」
レネグは御者席から立ち上がり、周囲を見渡した。
誰もいない。何の気配もない。
何かの魔術通信が入った訳でもない。
だが、レネグの耳には確かに聞こえた。
理解はできるが、謎の語句。
「……なんだ、今のは」
──『形而上の幽世』
「……誰だ? どこにいる!」
またしても聞こえる男とも女とも判別しない音声。
今度は先程よりもはっきりと聞き取れた。
相変わらずその語句に何の意味があるのかは不明。
抜剣する。
が、改めて辺りを見回しても、発言の主は見当たらない。
ぞわり、とレネグの背に冷や汗が流れた。
(何か、とてもいやな予感がする……!)
──『崩壊する概念』
「やめろ!」
ミシリ、と何かに罅が入った。
この言葉をこれ以上は聴いてはいけない。
レネグの脳が警鐘を鳴らしている。
(呪詛の類か……!)
レネグは竜車から飛び降りて、脇目もふらずに走り出した。
──『氾濫した秩序』
「やめろ……! やめろやめろやめろっ!!!」
走り出したレネグの耳には変わらず呪詛が届いている。
その度に何かが壊れていく音がした。
まるで頭の中から直接聞こえているような──。
ミシリ、ミシリ──パキン。
レネグ・イドリースという男の、何かが砕けた。
壊れてはいけない何かが。
──『昇華せし炎』
レネグの足は止まり、地に膝を着いた。
自己を失認する。
バラバラに砕け散ってゆく。
発狂するほどの意味飽和の嵐の中で、レネグは思い出してしまった。
──自身が既に壊れてしまった後の残骸なのだと。
「ああぁぁあッ! クソッ私はもう……!」
反転する。
何もかもがぐちゃぐちゃに混ざり合う。
自己が失われるたった一瞬の間、空白だった記憶の辻褄合わせが行われる。
自身が無意識に行っていた背信の所業。
最も恋慕う少女の幸福を願いながら、 にその情報を漏洩させていた。
その事実を知ったとき、レネグの心は崩壊した。
「私は、何という、裏切りを……」
──『帰郷せよ』
プツリ、と。
仮初めの糸で縫われていた人格は解け、抜け落ちた。
そうして後に残ったものは。
「──……同志ホシザキ。手間を掛けた」
抜け殻の男の前に、いつの間にか、赤い長髪の女が現れていた。
その手の甲には──紋様のような痣があった。
「よく戻りました同志フルカワ。任務の報告を」
「ああ」
レネグ・イドリースという男は死んだ。
いや、とうの昔に絶命していたのだ。
帝国の手によって殺されて、人格だけの操り人形と化していたのだから。
***
読了いただき、ありがとうございます。
ブクマ・評価・励ましの感想などを頂けたら作者は飛び上がるほど喜びます。