108.アリューゼの虹橋
ゆっくりと地上へ近づいていく。
間違ってもジェーンの身体に障ることが無いように。
足元に見える風景には、大きな橋があった。
場所は分からないが、王都の中だし危険はないだろう。
橋の麓へ降り立つことにした。
「レイル……」
「ジェーン、もう大丈夫だ」
着地して、ジェーンをそっと横たえた。
ジェーンの顔色は蒼白を通り越して土気色になっていた。
このままだと危険なのは明らかだった。
ああ、人を辞めていてよかったと思う。
じゃなきゃ、きっと最後の最後に助けられなかった。
【カースドスキル∴ドラゴンブラッド:リザレクション 発動します。】
口内を噛み千切り、血を含ませた。
そして口移しでジェーンへと飲ませる。
「ん……」
俺の血をジェーンに飲ませるなど、人であった時なら考えられなかったことだ。
竜械人などという化け物を生み出すかもしれない血を、何よりも大切な人に飲ませようだなんて、普通は考えない。
だけど、スキルの正しい知識を与えられた今なら別だ。
竜の血には強い回復と強壮の効果が秘められている。
それに特化させたスキルを発動した。
「かはっ!」
ジェーンが口から大量の血液を吐き出した。
苦しそうに顔を歪め、それでも必死に耐えている。
竜の血は効果が強すぎる。
体力を失った状態で接種するのは本来なら危険行為だ。
けれどもうこれしか方法はなかった。
俺はジェーンの意識を保つために呼びかけを続けた。
「ジェーン、もう少しだ。頑張ってくれ」
「……レイ、ル。私、は……?」
顔に生気が戻り始めてきた。もう大丈夫だろう。
よかった、本当に……。
「ぁ、レイル……! オマエ、そんな……」
「いいよ、何も言わなくて」
ジェーンは助かった。
けど、もう自分には時間がなかった。
だから、ジェーンが何かを言い出す前に制した。
「何で、こんな……私が、最後に油断したから、だから」
「ジェーン」
「待って、何とかするから。絶対に何とかする」
「ジェーン、もういいんだ」
泣きそうな声で訴えるジェーンを宥める。
間違っても最後に涙を流させたくはなかった。
「ジェーンが無事で本当によかった」
「オマエが無事じゃなきゃ意味がないんだよ!」
大粒の雫がボロボロとジェーンの瞳から零れ落ちてしまった。
ああ、泣かせたくはなかったのに。
……でも、そんな顔すらも愛おしいと思ってしまうのは、不謹慎だろうか?
「なんでだよ……! 全部上手くいってたのに、どうしてっ!?」
「ごめんな」
「オマエは何も悪くないッ! 私がッ、もう少し注意深かったら、こんなことにはならなかったッ……!!」
「ジェーンのせいじゃないよ。きっと誰も悪くない。龍様だって予想できなかったことなんだ」
「だからって、こんなのっ、こんなッ……!」
きっと今ジェーンの心の中では様々な感情が渦巻いているのだろう。
最後は悲しい終わりで在りたくない。
せっかく俺は役割を果たせたというのに、悲しい雰囲気のままは嫌だった。
「っと……」
「レイルっ!?」
バランスを崩してジェーンの方に倒れてしまった。
胸にダイブするようなカッコ悪い形で抱き留められてしまう。
気付けばもう下半身は消えてなくなっていた。
「ごめん、もう自分の身体も支えられないみたいだ」
「ゃ……待ってくれよ……こんな、何でっ!」
ジェーンの声音は震えていた。
聡明な彼女の事だから、どうしようもないということが分かってしまったのだろう。
抱きしめられる腕に力が入っているのか、白く細い指が俺の硬質に変化した皮膚に食い込んで、血が滲んでいた。
もう感覚はない。
彼女の感触も、温かな体温も、甘い匂いも、感じられなくなっていく。
けれど、まだ目と耳だけは残っている。
ジェーンの悲しみに歪む顔がはっきりと見えて、苦しそうな声が脳髄に響く。
──俺は、こんなにも、彼女の心に傷を残せたのだ。
自分の持ち物に名前を書くように、宝物に所有権を刻むように。
ジェーンの心に残ることができた。
ほの暗い喜びが満足感となって、心を満たしてゆく。
……やだな、こんなの、まるっきり悪い竜そのものじゃないか。
「ジェーン、最後に言っておきたいことがあるんだ」
「最後とか言うなバカっ! 何諦めてんだ! 言いたいことがあるなら生きて何度でも言えよ!!」
生きて何度でもか。……そうできたらよかったな。
自分の身体を見下ろす。
腕も消えて、頭と上半身だけ残っている有様だ。
助からないことなど分かり切っていた。
「──、──!」
必死に回復魔術を使ってくれたところでどうにもならない。
肉体の問題ではなく、根本がダメになってるんだ。
存在自体を消されているような感覚、というのはきっと当事者にならないと分からないだろう。
「ジェーン」
さぁ、最後の言葉は何にしよう。
何を言えば彼女は納得してくれるのだろう。
何を伝えれば彼女は前に進めるだろう。
考える時間はあまりない。
だから、一番伝えたかったことを口にすることにした。
──君と出会えて、幸せだった。
「好きだ」
全然違う言葉が口から漏れてしまった。
あれ? おかしいな。
伝える言葉はそうじゃないはずなのに。
「愛してる。誰よりも、何よりも、ずっと。君だけを想っている」
止まらない。
最後なのだと思うと、隠していたものが全部溢れ出てしまった。
想いが、感情が、胸の内にあったものが次々と零れ落ちて行く。
もしかしたら、醜い欲望すらも漏れてしまっているかもしれない。
……けれど、それでもいいと思った。
この気持ちを、最後に、彼女に知って欲しかったから。
「ッ……! やめろ、こんな時に告白なんて、卑怯だぞ……!」
「……ごめん、俺弱虫だからさ……こうでもないと、伝えられないんだよ」
「~~~ッ!! バカ! 答えてやらないからな!? 何言い逃げしようとしてんだ! 生きろよ! ちゃんと、生きて、私をッ……!」
「……ごめん」
困らせてしまうと分かっていても、止められない気持ちがある。
……誰に言われたのだったか。
俺は本当に最後の最後まで、自分の気持ちに気付けなかったらしい。
大好きな人を困らせるほどに大きな感情が、自分の中に確かに在った。
「一人に、しないでよぉ……」
──、……ごめん。
謝罪の言葉は声にならなかった。
もう声も出なかった。
最後に見る君の顔が、泣いて悲しみに歪んでいるのは、少し惜しいけれど。
でも、君の腕の中で眠れるのは、とても嬉しいことだと思う。
目を閉じた。
「待って……行かないで……私はレイルがいないと、何もできないんだ……。頼むから、お願いだから、置いていかないで……」
「嫌だよ……レイル……レイル、起きてよ……なんで、どうして……」
「あぁぁっ、嘘っやだっ、消えないでっ、何でもするからっ、お願い、レイルを消さないでえぇぇっ」
*** *** ***
アリューゼの虹橋。
王都に流れる河川に架かるアリューゼ橋には、とある言い伝えがあった。
そこで恋人に求婚をして、虹が架かれば、必ず結ばれるのだという。
とある英雄がこの場所で恋人と結ばれた結果、虹の橋が架かったという逸話から生まれたものだった。
そして、今は──。
レイルが最後の力として放出した虹の龍気が、空に大きなアーチを作り出していた。