第92話 まだ早い
——どうしよう。まだ早いだろうか。
——焦っているように思われるかも。
——あまりに頻繁に呼んでは、煩わしく思われるのではないか?
恋心にも似た葛藤を抱きながら、湖底で龍は微睡んでいた。いつでも呼んでと言われても、いくら想い焦がれても、そういうわけにはいかない。頻繁に国を留守にするわけにはいかないのだ。
——ああ、でも。そろそろいいわよね。
浮上しかけて、また思い直す。それを幾度繰り返したことか。その度に、穏やかなはずの湖面が揺蕩う。
そんな彼女が、一瞬にして決断した。きっかけは、ほぼ時間差なく伝わった事実。彼女の気づきに遅れて、眷属の一人が湖に飛び込み、すでに主の知った情報を報告する。
行かなくては。確かめなくては。一刻も早く。その焦燥が彼女を激流に投じる。身を隠す雨雲を身に纏い、しかしそれを置き去りにして、暴風よりも早く空を駆ける。
目指す場所は大雑把な範囲しかわからない。しかし、その範囲の中心に、かつて彼女が同じように焦がれ、注視していた場所がある。そこだ、と彼女には確信できた。
国境の山脈を越え、大森林に目を向ける彼女は、奇妙な物体を目にする。天に向かって伸びた巨木の枝、に見えた。そこに貫かれた龍の体に驚愕し、それは急ぐ彼女を留めた。
『貴方は、黒龍帝のところの……。まだ息があるのか!?』
『…………ぅけ、て……たの……む……』
それが何者であろうと、黒龍は縋った。
『まあいいわ。とりあえずはこれで』
彼女は木の枝、正確には根を水刃で切断した。流れる龍の血に染まる木の根は、まるでそれを養分に生長したかのように強靭だったが、彼女には問題ではなかった。体を貫く根を抜き、同時に黒龍を水球で包む。
水球は赤く染まり、すぐに元の色に戻る。その頃にはすでに、水球は彼女と共に目的地を目指していた。感謝を漏らす黒龍の言葉は、彼女の耳に届かない。彼女の意識はその先、『祭壇』の地にあった。
『なんだ、これは。————リグっ!』
『ん、ああ。カロスケイロスか』
見上げるリグの前に、カロスケイロスは降下した。背後で、癒しの水球に包まれた黒龍もまた着地していた。
『オマエ、ソイツを助けたのか。癒しの術を持つ奴らは、皆そうなのか? ただ治療すれば満足なのか?』
カロスケイロスと、再びラースを預けたイシュカとを交互に見、リグは水球に正対する。その小さな腕の一振りが水球を裂き、中で浮かんでいた治療半ばの黒龍を堕とした。
『何をする、リグっ!』
『オマエが余計なことをするからだ』
『なんだと————、いや。今はいいわ。それよりもリグ、ラースはどうした? どこにいる? お前と一緒ではないのか?』
わずかに声を震わせ、彼女はリグに迫った。彼女の身体はその場の誰よりも長大で、鬣なびく頭部もリグの全身よりも巨大だ。しかしリグは、見掛け倒しだとでもいうように息を吐いて彼女を睨み返していた。
『オマエは、また覗いていたのか? 相変わらず神の真似事なんてしているようだが?』
『のぞ……? 私は、ラースのことが解る。彼に与えた『水龍紋』の路が途絶えたのだ。答えろ、リグ。ラースはどうしたっ!』
詰問に、リグはしばし無言だった。ただ視線に込めた力を強め、アイスブルーの瞳を射抜く。抑えきれない震えが露わになる前に、彼はイシュカに声をかけ、赤子を手にした。
『————ここに、いるだろ。これが、今のラースだ』
『な、何を言っている? この子がラース、だというのか』
『そうだ。ラースはな、治癒が間に合わない傷を負った。だからオレが奪ったんだ。ラースの『時』を。そうすることで、ラースは生きることができた。全てを戻すことでしか、助けられなかったんだ』
『お前が、これを? いや、待て。なぜ……なぜ! わからない。何がどうなっている!』
『なら、オマエに理解できることだけ言うぞ、カロスケイロス。そうやってラースの命を奪ったのは、コイツらだ。オマエが助けようとしていたコイツと、向こうの肉塊だ』
その言葉は、リグの言うとおりにカロスケイロスに働きかけた。この上なく容易く、曲解のできない事実として、彼女に刻まれた。
『リグ……、今のラースの状態は……』
『見た目通りだ。生後一年、いや、半年といったところか。それ以降は存在しない。オレのことも、オマエのことも、『施術』のことも————。記憶は残っていない。何もない』
感情を抑えた声だった。悔恨すら表さないそれは、言葉にすることさえしたくない、という思いからだった。
『なに……も……』
信じがたい現象に、つぶやきが漏れる。しかし、前提さえ認めてしまえば、彼女には理解できてしまう。それでも、尋ねずにはいられなかった。
『覚えて、いないのか……?』
『そうだ』
『私のことも……。『施術』のことも……』
『そうだ』
『ならば、もう……』
ギリ、とその音が伝わる。
『そう……、そう! そう、なのね!』
猛然と頭を上げ、彼女は黒龍ガリウスレクスを、名も知らぬ金龍の兄弟を睨みつける。『祭壇』の地を覆うほどの龍身を揺らしながら、蒼く染まった絹のような鬣が逆巻く。
この場が、変容を始めた。
カロスケイロスの全身から、ソレは立ちのぼっていた。光を歪ませる、昏き何か。魂奪い取る、死霊の如き寒さ。排泄物混ざる、汚泥の如き異臭。別次元から漏れ出たような名状し難きソレは、言うならば《混沌》。あらゆる生物を、物質を生み出す原初にして終末の存在。
その本来の存在に意思は無い。しかしカロスケイロスの顕現させたソレは、彼女の意を反映し、全てに対して害を齎す、悪意の塊と化していた。
短く悲鳴を漏らしたのはイシュカだった。カロスケイロスから発したものが、まるで《邪精》であるかのように見えていた。かつて自らが生んだ《邪精》、それによる《濁り》。それらを煮詰め、最もおぞましき不快な成分だけを抽出したかのような存在に、全身を震わせ涙を流していた。
治癒半ばだった黒龍ガリウスレクスは、血を流しながら硬直していた。死の恐怖、ではない。ただ死ねるならば、それは幸いだ。魂を歪められ、取り込まれ、あの穢らわしいモノの一部となって生きながらえる。彼という存在が、永遠に汚物となって在り続けなければならない。そう思わせる目の前の《混沌》に、彼は恐怖していた。
そして金龍の兄弟は。ただ、迎えが来たとぼんやり思うだけだった。
『馬鹿がっ! 抑えろ! ラースに障るだろうがっ!!』
咄嗟に障壁を展開し、リグは激昂しながら叫ぶ。それがカロスケイロスに正気を取り戻させる。あとわずか対応が遅れたら、侵食する《混沌》に赤子は耐えられなかっただろう。
『あ、ああリグ、私は。すまない、ラース。大丈夫だったか』
《混沌》を治め、彼女は恐る恐る鼻先でラースに触れる。《癒しの水》がラースを包み、彼に平穏を与える。柔らかな頬が緩むのを目にして、ようやくカロスケイロスは自らの落ち着きを取り戻していた。
『すまない、で済むかっ! オマエもラースを害するなら、容赦しない』
『……もう二度と、こうはならない』
悔恨の表情を浮かべて彼女は頭を垂れた。
『そうだな。《混沌》の名を持つ龍————オレは封じたと思ったんだがな。未だ、完全ではないんだな』
『そんなことはない。私は——』
不意に違和感が湧き上がり、彼女は言葉を切った。
『リグ? なぜそれを知っている? なぜお前が『封じた』などと言うのだ?』
『ん? 以前にオレがオマエと封じただろう? それを思い出しただけだ』
『なにを言っている。いや、聞いていたのか。お前はリグルヴェルダスから——』
その名を口にすることで、カロスケイロスの内に、思考が閃光のように輝き、疾った。リグの腕の中にいる赤子に視線を落とし、ついでリグに目を向ける。発した言葉は震えていた。
『以前、に……?』
リグは答えない。己で到達しろ、とでも言いたげに、上目遣いに睨み付ける。半身を翻して、ラースを隠した。
『私と、お前が……』
信じられない。しかし、その思いを信じたい。そうであってほしい。いや、そのはずだ。そうでなければ、この胸の高鳴りが理解できない——。
半ば以上、願望に過ぎない思いを抱いて、彼女は動揺する。強く牙を噛み締めたのち、か細い唸りを漏らす。
『私は……お前が彼の子とばかり思っていた。彼が残した子だと。でも、貴方は。貴方こそがリグルヴェルダス————私の、ヴェル、なのね——』
勇気を振り絞った言葉に、リグはため息を漏らした。感慨もなく返す。
『オマエの、じゃあないけどな。けど、正解だ、カロスケイロス』
『ヴェルっっ!!!』
感極まって、カロスケイロスは飛び込んだ。リグの小さな頭に、首に、自らの鼻先をすり寄せて、涙を流した。
『ヴェルっ!! 私は、私はっ! ずっと会いたかった! なのに貴方は、また私を置いて行ってしまって。私がどれほど焦がれたと思っているのだ!』
『戻っただろ。それと、置いていくもなにも。オレはそんなにオマエと一緒にいたか? そんな記憶はないぞ』
『なにを言う! 私は、ずっと、見ていたではないか! ああ、素晴らしき美しさ。強さ。英知。そして私を救ってくれた貴方を! 離すことなどできようかっ!』
『黙れ』
再びのため息とともに、リグは本気で押しやった。熱弁とともに吐き散らすものに顔をしかめながら、ラースをさらに遠ざける。
『弁えろよ。ラースがいるんだぞ。それと言っておくが、オレをヴェルなどと呼ぶな』
『なぜっ! 貴方はヴェルなのでしょう!? その姿でも、貴方の魅力は些かも変わりなく——』
『オレのことはリグ、と呼べ。オレには————オレにはその名は、まだ早いんだ』
強く発した言葉は尻すぼみに沈んでいた。ラースに視線を落とす姿に、カロスケイロスの心は平静を取り戻す。寂しさを感じとる。
『リグ……。そう、ええ、そうします』
『それでいい。それとな、オマエが来たのは好都合だ。皆を集めろ』
『皆、とは? 誰のことを?』
『『会合』の奴らだ。オマエらは、まだ続けているんだろ。オマエらの戯れが、こんなことになった一因だと思わないか? こんな奴らが侵入してくるんだからな』
反応する力も失った金龍と、硬直したままの黒龍を一瞥する。リグの視線を追うと、カロスケイロスの怒りが再燃した。しかし、彼女はそれを強く抑え込む。怒りが消えたわけではない。が、リグの存在が彼女の心に癒しを与えていた。
『わかったわ、リグ。緊急の『会合』を召集しましょう』
【次回予告】
開催される龍達の『会合』。
現れた金龍の長に対してリグは激情をぶつける。
次回、「どの記憶よりも素晴らしいもの」
よろしくお願いします。




