第90話 それでオマエが助かるとでも?
リグルヴェルダスの究極的な誤算は、ラースを選んだことだった。
『記憶の間』でその状況を目の当たりにしたリグは、客観的にそう結論づけた。勿論、主観はそうでは無い。ラースであったからこそ、今の想いがあるのだから。
記憶までも奪われることを、リグルヴェルダスは当然ながら理解していた。ゆえに準備していた。この強力な地脈の力が発生する場所に、彼だけが侵入できる空間を創ることで。
『記憶の間』と称したそこに、それまでの記憶を蓄積させ、若返るための術の発動前後からの事象を記録する魔法陣を配し、稼働させていたのだ。
術の完了を発動条件として、彼自身にメッセージを発するように設定していた。それは想定通りに作動したが、問題は受け取る側にあった。目覚めたリグには、それを理解する余裕はなかったのだ。そのことを知った今でも、リグにはどちらが良かったかなど選べない。
『記憶の間』の中で、リグは己の記憶、膨大な知識と経験に向き合っていた。どれだけ時間をかければ満たせるだろうか。自らの内に蓄積されたものを余すことなくなぞるだけでも、膨大な時間が必要だと感じていた。ましてや深い理解を得るには。
彼がその空間を出たのは、振動を感じたからだ。頭上から微かに音が響いている。この場所は、洞窟の入り口からいくつかの地層を隔てた深部に位置する。すぐに影響が出るわけではなかったが、対処はしなければならなかった。
「リグ、戻ったんだね。ねえ、何かまずいよ」
ラースを抱えたまま待っていたイシュカは、不安気に長い耳を震わせる。
「ああ、上で何か始めたな。そろそろ行くか。奴らには報いを受けてもらう」
滲み出る殺意を必死に押さえながら、リグはラースに顔を寄せた。柔らかな毛皮に包まれた彼はうとうととしていたが、黒い瞳を精一杯開いてその姿を写した。
『ラース、行ってくるからな。少しだけ待っててくれ』
『らぁ?』
龍を真似て、短く発した。ゆっくりと腕を動かして、小さな手を龍の顔に添える。その離れ難い温かさが、リグの感情を和らげる。
「リグ、行くの? ラースは?」
「もう少し、オマエに頼むぞ」
イシュカは力強く頷いた。現象を理解できなくとも、これでいい、と自分に言い聞かせながら。精霊の働きをラースの内に認めることができ、少なくともそれがイシュカを安堵させていた。
岩盤を砕き、地上から一気に上空まで昇ったリグは、岩山を削る闇の球体を目にした。一軒家ほどもある球体が、洞窟の存在していた岩山を抉り、その破片を吸収していた。この物体が、先程までリグのいた空間を目指していることは、彼には明白だった。
同時に、彼の目に飛び込んできたのは、球体を監督するかのように佇む黒龍と、二体の金龍の姿。それを認め、リグはもう堪えきれなかった。抑えつけることなどできなかった。
『ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ア“ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!』
轟く咆哮は憤怒だった。敵への、己への許されざる怒り。そして悔恨。
その叫びは蒼空を引き裂き、大森林に響き渡り、森の大樹を脅かし、命あるものたちに知らしめた。新たな支配者の誕生を。あるいは再臨を。森の活性化に伴い力を得つつあった魔獣たちに、そんなものは幻想だと断ずる、狂気を孕んだような産声だった。
怒号と共に、感情が発散してしまったわけではない。リグは声を出さずに笑った。新たな、膨大な知識が、彼に愉悦をもたらしていた。
如何様にすることもできる。上空から見下ろす彼には、無限の選択肢があった。その一つを拾い上げ、術を発する。
『な、なんなの、今の!?』
眩暈に似た、あるいは兄の衝撃波の余波に似たものに襲われ、金龍の弟ファウススは頭を振る。
『あいつだ。見ろ、ファウスス!』
兄の視線がリグを捉えた。弟もそれを追う。
『リグ……? 埋まって死んだのかと思ったのに』
『ああ、けど、何か——』
見上げる二人の視界の端に、輝きが生まれた。リグの姿を認めた黒龍が飛び立つ。
『お、おいっ! ファウっ!!』
『えっ!?』
ファウススの足元に、魔素が陣を描いていた。そこから生成された鎖が、金龍の身体を絡めとる。巻きつき、締め上げ、無理やり大地に押さえつけた。
『ぐっ、に、にいちゃ……ん、これ——ぐきゅうぅっ』
細く甲高い声が漏れた。金属に比する鱗が軋み、巨体を支える骨までもが悲鳴をあげる。その圧に空気が絞り出される。鎖という大蛇を前に、金龍は捕食寸前の鼠だった。
『ファウ————ぎゃああっ!!』
駆け寄る兄の後脚を、土の刃が貫いていた。つんのめり体勢を崩す彼を、追撃の刃が襲った。魔法陣を介さぬ術の発露に、彼は気づけない。弟に一歩も近づけぬまま、彼の四肢は全て貫かれ、標本の如く大地に縫いとめられていた。
『た、助けて、兄ちゃん……』
『ぐ、く、くそ……くそっ』
どれ程の力を振り絞っても、二人に脱出は不可能だった。血が土の刃を染め、口から溢れる泡が鎖を濡すのみだった。
『——お前か。よくぞ生きていたものだ。ここの魔素を使い、傷を癒したのか』
黒龍ガリウスレクスは上空でリグと対峙していた。その巨大な体躯、広げられた翼は周囲を闇に包む。黒龍にとってリグの体は、彼が一握りにできる程度でしかない。リグが万全になろうと、相手足りえる存在だとは露ほども思っていなかった。
『ん、どうした? 何を震えている。仇討ちではないのか? 人間の方はくたばったのだろう?』
『……そうだな。オマエが、ラースにとどめを——』
『いいだろう。受けてやるぞ、小僧。もっとも、何をしようが無駄だろうがな。お前の不意打ちの術でも、俺の術を破れなかったのだからな』
黒龍は闇を纏っていた。元々が黒色の鱗ゆえに視認し難いが、その表面は魔素の衣が覆い尽くしている。それは彼を守ると共に、先に負った傷を隠していた。
『不意打ち、だと。オレが、あんな、ラースを盾に——』
リグは折れんばかりに牙を噛み締めた。そうせざるを得なかった自分の力に憤りを覚え、全身を震わせる。懸命に感情を抑え、リグは魔素によって一本の槍を生成した。
それは、ナイフほどの小さな刃を持つ、黒色の槍だった。彼の眼前に浮かび、その切っ先を黒龍へ向けた小槍は、しかし黒龍に嘲笑を誘う。
『なんだそれは。そんなものか?』
『不意打ちというならな。オマエに予習させてやる』
リグは腕を振り下ろした。その動きに倣うように、小槍は地上へ向けて飛翔する。
『ぎゃうぅっ!!』
鎖に拘束されたファウススが悲鳴を漏らした。槍は、鎖の隙間から彼の背に突き立てられていた。
槍は闇を吸い上げる。
ガリウスの術によって強化された金龍は、彼と同じようにその身に闇の衣を纏っていた。先のリグの術で一旦は破壊されたものの、再び与えられていたのだ。一見しただけではその存在を気づけない魔素の衣は、彼らの力を増幅させている。
しかし、本来目にすることのない衣は、今や蒸気のように立ち上り、小槍へと吸収されている。ファウススは鎖からの圧が、強まったかのように感じることとなる。
その様子を、二頭の龍は観察していた。一方は予想通り、と。他方は驚愕を以て。
『理解したか?』
リグは再び槍を生み出した。術は続く。小槍は生み出される。二本、十本、二十本————。針山の如く現れた小槍の群れは、両者を隔てる。
『なら、もういいだろ』
腕が振られた。黒龍へ向けて。
『ぐ————【吸源破魔】っ!』
知ってなお、黒龍は反射的に自らを守る術を発していた。これまで常に彼を守ってきた、攻撃を防ぐための球体状の闇の障壁だ。
受け止めた闇は、同じ闇に浸食される。彼らの術の精度が逆であれば、結果も逆だったのだろう。無論そんな事実はない。
障壁が融解するように消えゆく間に、黒龍は再度術を発する。張られた障壁の内で、笑顔の龍を見る。小さな顔が、歪む。
黒龍は刹那の輝きを見た。彼の意識が、障壁を通過する一条の光を捉えた直後、腕に熱を感じる。
『————っ? な、何、が!?』
腕を押さえる彼は、再びの煌めきを見る。腕に、両脚に、腹に、肉焦がす痛みが全身を駆け巡る。
『ああ、それを壊す必要はなかったな。以前に教えたと思うけどな。それが隙間だらけだと』
リグは楽しんでいた。湧き上がる無数の術の候補。それらを行使できることに。闇の小槍に拘ることなく、記憶に沿って術を繰り出す。
『何を、お前は、言っている————』
『なんだ、その顔は。まさか、何も変わっていないのか? 数百年、何もしていないのか、オマエは』
数百年、という言葉が黒龍の過去を掘り起こす。しかし、【吸源破魔】という彼の絶対的な術が破られたことなど、父を相手にしたとき以外思い当たらない。唯一の例外は、あり得ないこと、と彼は無意識に封じていた。
『ぐ、うぅっ! ————【吸源破魔】! 【吸源破魔】っ!』
障壁のみならず、自らの纏う闇の衣さえも貫通する攻撃に対して、黒龍は術を重積させる。都合五度。六重の障壁を以てようやく、その攻撃を阻んだ。
『や、やったか。これでもう————』
完全に余裕を失った黒龍は、息を切らしながら障壁の外に目をやる。積層された闇に霞んで見えるリグの姿は、最外殻の障壁に触れていた。
何を。そう疑問を浮かべた黒龍の眼前に、淡く光を発するもやのようなものが現れた。もやは、障壁の内側から滲みでていた。唖然と見守る彼の前で、もやは凝縮し、光の球と成る。
『な、がっ!!』
光の球は突如動き出し、彼の頭部を撃った。その衝撃に、障壁内で体勢を崩す。光は動きを止めない。黒龍を打ち据え、跳ね返り、障壁内部で反射し、再び黒龍を襲う。彼を守るはずの障壁と彼自身との間で、光の凶器が幾度も往復し、その速度を、衝撃を増しながら彼を攻撃し続けていた。
『ぐ、ぎっ、があっ!』
『射線を塞いでも、隙間だらけの障壁じゃあな。いくらでも術を通せるぞ。それと、オマエのボロ籠に反射させてみた。面白いだろ』
『あ、ああっ、ああああああーーーーーーっっ!』
たまらずに黒龍は自ら術を解いた。同時に、距離をとるべく羽ばたく。
周囲が薄暗かった。皮翼が何かに触れ、黒龍は気づく。すでに彼を囲う別の障壁が形成されていたことに。
黒龍は身構える。光球の襲撃に備えて。しかしそれは訪れない。代わりに周囲が輝く。
『な……ん、だ……。これ、は……』
彼を封じる結界の内側に、魔法陣が浮き上がっていた。全方位、視界全てが魔素の描く紋様の光に占拠されていた。
『オマエの防御を破る方法なんて、いくらでもあるな』
リグの言葉ののち、魔法陣が輝きを増した。眩しさとその精緻さに目を奪われた直後、黒龍を衝撃が襲った。
それは、純粋な圧力だった。球の内壁から中心に向かって発する圧。黒龍の体を均等に押し潰す力だ。
『ぐ、うう、うおおおおおきさ、まあぁぁっ!』
腕が折り畳まれる。足が曲げられる。翼が巻きつく。長い首が、尻尾が曲線を描き、自らの胴を抱く。まるで胎児のような姿。しかし、そのような安らぎは無い。等方からの力が、彼を球の中心に押し込め、抵抗を許さぬ力で彼の体を球状に圧しているにすぎない。
骨の軋む音を聞きながら、黒龍は全身に力を込める。その動きは全て、中心へと戻される。もがくことすら許さない力が、彼を圧殺せしめんと働き続ける。
ごきん、という破滅的な音が、ようやく黒龍に命の危機を実感させた。
『ぎっ、ぎさ……まっ、やめろ……っ。ぎさま……ごとき、が……』
『ああ?』
『俺は……おれ……は……、こく、りゅう、てい……の——』
『ん、そうだったな』
ひとり納得しながら、リグはこの圧縮のための術を解いた。力の束縛が消えてもなお、体を丸めたまま動けずにいる黒龍に近づく。
『黒龍帝——ガロアレクスか。そうだな、アイツにも責があるよな。けどな、その名に縋って————、それでオマエが助かるとでも?』
すでに恐怖を湛えていた瞳が、リグの言葉に波立つ。
『お、お前は、何者——』
『オマエに——、オマエがっ! オレの一番大切な者を奪ったんだっっ!!』
叫びとともに、リグの尻尾が黒龍の下顎を襲った。先端に魔素の刃を纏わせたそれは、下顎を容易に裂き、舌を、上顎を貫き、黒龍の口を串刺しにした。
『〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!』
くぐもった悲鳴が大気を震わせた。それに一切構うことなくリグは尻尾を引き抜き、黒龍の悲鳴をかき消す咆哮を轟かせ、豪炎の息吹を放つ。黒龍の体は炎に包まれながら吹き飛ばされ、まともに体勢を整えることもできずに、遠くの森林へ墜落した。
黒龍の体から燃え移った炎が、周囲の樹々を燃やし始める。黒煙にけぶる空を見つめ、リグは思い直す。彼の言葉が大気を変質させ、雨を、さらには雹を降らせる。とりわけ爆心地には、人の指先ほどだった雹をさらに成長させ、鎮火のためではなく、攻撃のために降下させた。
リグは火災を収め、術を解いた。すでに晴天の下で日差しが二人を照らしていた。彼が黒龍の元に降り立ち、その頭部のそばに寄っても、黒龍は反応を示さない。
『おい、立てよ。まだくたばってないだろ』
『う……く……たす、け……』
『あ? 何言ってんだ、オマエ。ラースはな、最後までオレを助けようとしていたんだぞ。オマエも、最後まで抵抗しろよ。なあ、立てよ!』
呻き声を漏らす頭部を乱暴に蹴り上げた。高温に融解した鱗が、黒龍の表情を固めていた。動くこともできずに、ただ弱々しい呼吸がリグの体にかかる。
『そうか。それなら、立たせてやる』
リグは濡れた大地に手をついた。その中を這う重長な樹の根を捉え、働きかける。根は龍に従い、成長し、地面を突き破って姿を現す。
『…………っ!』
びくっ、と黒龍は体を痙攣させた。現れた根はその先端で黒龍の体を押し上げ————否。リグによって刃を与えられた樹の根は、その先端で黒龍の体を貫き、天空に向かってそびえ立った。
まるで、早贄だった。枝に刺された小虫の如き光景。ただし、贄は龍。貫かれ、なおも息のある生物最強の種。周囲の樹々よりも高く晒された龍の体は、それを可能とする、より上位の者の存在を知らしめていた。
最終章、開始となりました。
【次回予告】
エリスに。
金龍の兄弟に。
決着をつける。
次回、「死ねると思うか?」
よろしくお願いします。




