第9話 こんなの初めてだよ
森の小径を北へと。
ラースは二度と帰ることはないと思っていた家へ向かって歩いていた。
左手には桃色の髪の少女、ルージュ。ぶかぶかの真紅のブーツを引きずりながら、しっかりとラースの手を握って共に歩む。
肩の上には幼龍リグ。長い尻尾をラースの体に巻きつけるように密着させて、辺りを窺う。時折、森の遥か上空へ飛び上がり方角を確かめる。
クルシュナ山脈と大森林は三方を海に囲まれた半島に位置する。山脈自体は半島からさらに北へと伸び、東の平原を統べる王国との国境となっている。海岸線は切り立った崖になっており、ラースの村のある北方以外に進むべき道はない。
リグが空から見渡してもその視界のほとんどは森林と山肌が占めてはいたが、少なくともその先に続く平原を目指せば森は抜けることができるはずだった。
「大丈夫、ルージュ? 疲れてない?」
「ん……、へいき、よ」
「やっぱり、僕が背負うよ」
「ううん。私、歩く。歩けるからね」
明かに疲労の色を浮かべたまま、ルージュは首を横に振った。
「でも……。あ、そうだ。それならちょっと休もっか」
少し開けた場所で、ラースは腰を下ろした。ルージュも大きく息をついて座り込む。
『祭壇』へ来るときはラースも慣れない森歩きに苦心していた。自らが生贄となって村を救う、という使命感だけで前へと進んできたのだった。同じ道のりを幼いルージュが歩むのは、彼以上に難しい。ましてや今の彼女の足元はサイズの合わない大人のブーツなのだから。
「もうへばったのか」
ラースの頭越しに、リグが確認する。見下したような口調ではない。本人もそのつもりはない。ただ事実を口にしただけだった。
「あなたは、歩いてないじゃないの……」
「必要ないしな」
膝を立てて座るラースの、その膝の間に体を滑り込ませると、リグは全身を預けて目を閉じた。
「ねえ。ラースの家まであとどれくらいかかるの?」
「来るときは二日間くらいかかったよ。ごめんね。僕、来たときの道を覚えてなくって。来るときは、トウサさんっていう人に連れてきてもらったから」
「二日……。そう、なの。ふつか……」
「大丈夫。ゆっくり行こうよ」
道はわからずとも、幸い方角はわかる。食糧も——食べ方には問題あったが——なんとかなる。ラースは思い出してお腹に手を当てた。
ともかく、家に戻りたかった。今は誰も待つことのない家なのだが、それでも一度は戻らなければ、その先に進むことは出来ない。ラースはそんなふうに感じていた。
どれだけ時間がかかっても。
その思いで森を進む。何度も休息し、方角を確かめながら。歩みは遅かったが、何事もなく、確実に彼は家へと近づいていた。
『雨が来るぞ、ラース』
上空から戻ったリグがそう報告したのは、その日の夕暮れ時だった。東方から、雨雲が急速に迫ってきていた。
「雨かぁ。じゃあ、どこか濡れない所を探さないとね」
「ねえ、あれは?」
ルージュが茂みを指差す。そこにはヤツデのような形の大きな葉が茂っていた。数本の茎を束ねて持てば、なんとか濡れずに済みそうではある。それを持ちながら進むと、程なく水滴が葉を濡らした。
これくらいなら大丈夫かな。ラースがそう思った矢先、雨は勢いを増し地面を打ちつけ始めた。雨雲が空一面を覆い、夜よりも早く闇を運んだ。仮初めの傘はあっという間に萎れ、ラース達はまともに雨を受ける。
「ラースぅ……」
ルージュが体を密着させる。びしょ濡れの髪はべったりと顔に張り付き、ラースの着せた上着もこれ以上水を含めずに、受けただけの雨水を足元に流していた。
雨雲が星明かりをも隠し、辺りはすでに真夜中よりも暗くなっていた。日が暮れたらリグに火をつけてもらって焚き火でもして過ごそう。雨に遭うまでは、ラースはそんなふうに気楽に考えていたのだが。
(どうしよう。ううん。とにかく、どこか——)
『ラース! こっちだ!』
雨音をかき分けて、リグの声が届く。いつの間にか離れていたリグの姿が前方にあった。
茂みを掻き分けついていくと、ラースは斜面に、半ば草木に覆われた窪地があることに気づく。
そこは獣の巣なのだろう。窪地には奥行きがあり、高さはラースが屈まなければ進めないほどではあったが、三人が入るには十分な広さの洞穴だった。
「よかったぁ。ありがとうリグ」
小さな頭を、首を撫でる。濡れていたはずの龍の体はそれでも暖かく、冷えたラースの掌に心地よい熱を伝える。
「ほら、ルージュもおいで」
ずぶ濡れのシャツを脱いで絞りながら、ラースは誘った。重くなった上着をそっと脱ぎ、少女は吸い寄せられるように体を密着させてきた。長い髪をシャツで出来る限り拭き取ってから、ラースは二人を一抱えに抱き寄せる。
「ん……ラースぅ」
「もう大丈夫だよ。休もう」
優しく声をかけて、寒さに震える背中をゆっくりとさすった。もう一方の掌でリグの首から背中、尻尾の先まで撫でていく。
『ありがとうリグ。僕じゃあ見つけられなかったよ。やっぱり僕、だめだなぁ』
『ん。ラースは、すごいぞ……。いい……このまま……』
『雨、止まないね。今日はもう、このままここで過ごそうか。ルージュも寝ちゃったみたいだし』
静かな寝息が聞こえていた。密着した肌から、温まった体温が伝わる。決して認めなかったが、彼女が疲れ切っていたのはわかり切ったことだった。
『なら、オレ、何か獲ってこようか……』
気怠そうにリグが喉を鳴らす。
『ううん。今日はもういいよ。まだ雨すごいし。もう暗いしね。明日お願い』
『そうか……。この雨、気持ちいいぞ……。暗いのだって……平気だけど、な……。オマエも……へいきだろ……』
リグももう寝落ち寸前だった。疲労ではなく、気持ちよさに。まあ、明日。その呟きを最後に穏やかな呼吸音だけになった。
逆に、ラースは眠れなくなってしまった。眠る二人を抱きながら、この小さな洞穴の外を眺めていた。
闇夜に、轟音を立てて降り続けている雨が見えた。
(——なんで見えるんだろう)
彼にはリグの言葉が気になっていた。星明かりさえない闇夜。洞穴の中であるというのに、リグの姿もルージュの姿も、見ることができていた。もちろん陽光の下と同じというわけではなかったが。
(そういえば、トウサさんに分けてもらった灯りはどうしたっけ。リグと話しながら帰った『祭壇』への道は、どう歩いてきたっけ)
ラースはそれを、明確に思い出すことができなかった。気に留めないほど、違和感がなかったのだ。
ルージュに襲われたときのこともそうだった。あれだけあちこちに体を打ちつけられて、怪我一つなかった。逃げるときも、考えられないほどの速さで駆け。
原因であればラースにもわかっていた。けれど理由は。
『ねえ、リグ。君は、僕になにをしたの?』
膝の上で眠る幼龍へ、そっと呟く。
「……ん……、……ま……ぁ……」
折り重なるように体を預けて眠る、もう一つの小さな身体が寝言を紡いだ。溢れた涙が頬を濡らしていた。
「……ま、い、や……、ママ……」
その言葉にラースは胸が一拍、強く打った。『若返り』を受けたルージュは、見た目通りの年齢までの記憶しかない。ラースを襲ったことも、その年齢以降の人生の記憶も、全てが失われている。彼女にとっては、突然見知らぬ環境へ放り込まれたのだ。母との繋がりも、何の前触れもなく断ち切られ。
——奪ったのは僕だ。助かるために仕方なかったとはいえ。
その事実は、彼にとって受け入れなくてはならないものだった。ラースは決心する。もう、あの魔法は使わない、と。
そしてもう一つ。
ルージュを守る。
それは、彼にとって当然の思いだった。自身を鑑みれば、許されない行為だったのだから。
高揚したラースの心を落ち着けるように、外の雨が勢いを弱め始めた。草木を打ち鳴らす激しさは、次第に、さあさあとした静やかなものに変わり、それがラースを眠りへと誘っていった。
がさり。
半ば眠りに落ちていたラースは、入口の草を踏み分ける音に気づいた。闇の中で、獣の姿が浮かび上がる。洞穴の入り口よりもやや小さいくらいの猪だ。
ふっ、ふっ、ふっ……
威嚇するような短い吐息。ラース達と同じように、獣は雨を避けにここへ来ていた。
「リグ! ルージュ!」
『ん、ああ、なんだ……食い物かぁ』
「な、なぁに……」
二人ともまだ覚醒していない。ラースは二人と猪の間に体を置いた。とはいえ狭い洞穴だ。立ち上がることはできない。
「来るなっ!」
その叫びを敵意ととった獣が、ラース目掛けて突進する。
ドッ!
弾丸のような丸い体躯が、黒い塊となって衝突した。ラースは中腰のまま、少しも引き下がることもなくそれを受ける。
案外軽いな。そう思うと、太い獣の首に腕を回し押さえつけた。獣が激しく頭を振る。それでもラースは揺るがない。
獣が前足を踏み鳴らした。
同時に蹄がソレを生み出す。
「うわぁっ!」
洞穴が揺れた。土が降り注ぎ、振動がラースのバランスを奪う。
「いやぁっ! なに? くずれるよぉっ」
『ラース、離れろ。オレが!』
ラースの力が逃げる。蹄による限定的な振動で、瞬間相手の動きを止め、仕留める。それがこの猪に似た魔獣、スタンプボアの戦法だった。
拘束が緩むのを見逃さず、獣は再びラース胸を突く——はずだった。
「このおおおおっ!」
ラースが崩れたのはほんの一瞬だった。二人の声に押されるように、力を込めた。
不安定な姿勢のラースと魔獣との押し合い。叫び声と共に、あっさりとラースが押し切った。抵抗をものともせず入り口まで一気に運び、弱く降り続く雨の中へ獣を突き放す。
魔獣はその勢いで転がされ、すぐに頭を振り、洞窟を出たラースと対峙する。
「逃げてくれないかな。ね」
ラースには争う気などなかった。
見た目ほど力も強くなかったし、十分追い払える。そんな思いがラースの口調を和らげる。闇の中で輝く瞳も、背中の毛を逆立てて威嚇する様も、虚勢を張っているようにしか見えなかった。
「ねえ、もうどっか行ってよ。きみじゃあ——」
ブオオオオオーーーーッッ!!
突如、魔獣が咆哮を上げた。それと共に、嘶く馬のように前脚を挙げ、振り下ろす。
ズンッ!!
再び、大地が揺れた。ラースの足元の狭い範囲だけが不自然に歪む。膝が折れ、手をついく。そこへ魔獣が弾けるように迫った。
今度こそ。
魔獣の意思は、ラースの片手に止められた。
ギィッ!?
突き出した鼻面が、ラースの掌で握り締められていた。痛みと、それを上回る恐怖が、魔獣を貫く。
先程はわからなかった。魔獣を腕に抱えていたから。だが、蹄を打ちつけて大地を揺らす様を目にしたとき、ラースの心に湧き上がった。
最悪の記憶。
それは、牧場を襲った魔獣たちの姿だ。
魔獣が再び前足を振り上げる。が、それが地面に達することはなかった。
「ぐうぅぅうおぉぉぉ〜〜〜〜〜っっ!!」
ラースは両腕を振り上げた。一方で鼻先を、もう一方の手で魔獣の頭を握りしめ。自らの体重を上回る魔獣を頭上まで揚げ、立ち上がった。四肢をバタつかせてもがく相手のことなど気にも留めず、その体を地面に叩きつける。
ギィウゥッッ!!
二度、三度。打ち下ろされるたびに、抵抗は弱まる。逆にラースの勢いは増す。ついには泡を吹き、体を痙攣させて魔獣は動かなくなった。
「はあっはあっはあっ……」
荒く息を吐いて、ラースは倒れる魔獣を見下ろした。咄嗟のことだった。牧場を襲い、両親や羊たちを傷つけた巨大な魔獣。その群れとこの猪の姿が重なった。瞬間、炎のように意志が弾け、思いもしなかったような力が溢れ、彼を動かしていたのだ。
『お〜、やったなラース。ちゃんと倒せるんだな。いいぞっ!』
いつの間にか近くを飛んでいたリグがラースの肩にとまった。頬に頭を擦り寄せて子供に語りかけるように褒め立てる。
『僕、夢中で。こんなの初めてだよ。こんなことできるはずなかったのに。なんか、力が強くなったみたいなんだ』
『ああ、成長したんだな。あ、けど』
ふわり、と羽ばたかずに飛び降り、リグは垂直に地面に向けた尻尾の先端で、倒れている魔獣の喉元を貫く。
『ちゃんと、トドメ、刺さないとな』
小さな指をラースに向けた。まるで優しい教師なような面持ちだった。




