第89話 この手には抗えない
闇の中でラースは腕を伸ばす。その指先のわずか向こうに、倒れたリグの体がある。それ以上は動けない。近づけない。体がいうことをきかなかった。
——きっと助けることができる。
彼はずっと以前に、そう推測していた。同じようにリグが倒れ、彼自身も力尽きてしまった時に。
若返る。時を戻す。そうであるなら、傷だって戻るはずだ。いや、傷だけではない。彼は、破壊された大森林でさえ元に戻るのだと、その時すでに考えていたのだ。
リグルヴェルダスの術。
代償は、術者に降りかかる。奪った時の幾ばくかを、術者が背負うのだ。それが過大であれば、時の彼方に葬り去られる。リグルヴェルダスの時を受け、ラースが全身を崩壊させたように。
今一つの代償は、対象に降りかかる。時は、何もかもを奪うのだ。傷も、記憶も。リグとルージュを見たラースにとって、それは明白なことだった。
そういう術なのだと、ラースは理解していた。《恵みの水》で癒せない傷を治すには、それしかないと考えていた。たとえ、時を受けとめきれなかったとしても。より若返ったリグが、今よりも力を失ったとしても。そして、リグが全てを忘れてしまったとしても。
ラースは今一度、懸命に腕を動かす。術を思い出す。リグが生きてさえいてくれたら、それでいい。心の底からそう思いながら。
伸ばした腕が空を掴む。違和感に、ラースは幾度も瞬きする。
周囲が明るかった。暖かかった。仰向けに寝転んだまま、遙か天井に向かって彼は腕を上げていた。
「らぁ、す……ぅ……。ラースぅぅ……」
褐色の毛皮がラースの目に写った。彼の胸に顔を埋めて、うわ言のように彼の名を繰り返している。長い耳が彼の頬をくすぐっていた。
「イッシュ……? イッシュ、なの?」
「あ、ああ……。ラース……目が覚めたんだね……ぅう、ラースぅぅ……」
顔中の毛をくしゃくしゃに濡らして、森の癒し手は顔をあげた。
「そっか。イッシュが助けてくれたんだね。ありがとう。僕、またイッシュのおかげで助かったよ」
上体を起こして、ラースは兎の頭を撫でた。以前を思い起こしながら、イシュカのお気に入りである額に指を這わせ、乱れた毛を整える。ぺたん、と後方に耳が倒れた。
「うん……うん……」
イシュカの涙は止まらなかった。あやすように背中をさすり、優しく叩く。そこはふかふかで、撫でるラースにも心地よさを伝えていた。
「リグのことも癒してくれたんだね。ありがとう。やっぱりイッシュはすごいよ。もう安心して。僕は大丈夫だから」
彼に背を向けて、リグは辺りを伺っていた。再生した翼が、新たな力を秘めたかのように折り畳まれていた。
「ここは、どこなの? なんだか、とっても気持ちがいい所みたいだけど」
「ここは……リグルヴェルダスが、いた、ところ。だから、精霊の力が……とっても強くて……」
『あの洞窟の奥底だ。ここなら、まだ安全だ』
「そっか、だからなんだ」
改めて自分の体を見、それが、うっすらとした光に包まれていることにラースは気づく。以前に、回復のためにイシュカに連れられて訪れた、あの洞窟でのことが思い出された。
力が満ちてゆくような心地よい感覚だった。精霊の力は、温泉で体内深部に浸透してくる熱の如く、身体中を巡り、再生させ、より強い力を吹き上がらせている。
いつまでもこうしていたい。その思いと、すぐに戻りたい。という意思がせめぎ合い、ラースはそっとイシュカの体を抱え、離した。自分のすべきことを思い出す。
「ラース……?」
「ありがとうね、イッシュ。でも、僕行かなきゃ。はっきりさせたいんだ。その後で、いっぱい『施術』をしてあげるからね」
「ラース……でも……」
『行こう、リグ。あいつらをなんとかして、エリスって奴から今度はちゃんと聞かないと』
『オマエは、ここにいろ。オレだけで行く』
背を向けたまま、リグは拒否した。
『え、でも——。僕はもう大丈夫だよ。足手まといになっちゃうかもしれないけど、でも、僕、行きたいんだ。知りたいんだよ。あいつが本当に僕の家を襲ったのか。ルージュがそうさせたのか————知りたいんだ!』
『オマエには、もう無理だっ!』
強い言葉とともに、尻尾が地面を打った。力を取り戻し、強靭な鞭と化した尾の一撃は、二人の間を土埃で染め上げる。
駆け寄ろうとしたラースのズボンを、小さな手が引き留めた。止まらぬ涙で、彼を見上げていた。
「イッシュ?」
「ラース……あのね……。キミは、キミは、ね……。もう、だめなんだ……」
「だめ、って何が? 危険かもしれないけど、僕は大丈夫だよ」
「もう、見えないんだ……。キミの中の、精霊の働きを……。だから……キミは、もう——もう————」
「——え?」
手の震えが、布を伝いラースに訴えていた。俯き、首を振り、肩を震わせていた。それでも、鉄球を首にかけられたかのような重みを振り切って、イシュカは再び顔を上げて、真っ直ぐにラースを見つめた。
「姉さんと、同じ、なんだ。キミの中には、もう、精霊の力はなくって……。それは、キミが、キミの命が、もう……」
「え……、イッシュ——。そ、そんなの、だって……だって! 僕、なんともないよ! 痛くもないし、傷だってイッシュが治してくれたんでしょ! ほら、動いたって大丈夫なんだよ!」
「傷は、治した……。前みたいに、間に合うと思った……。でも、もう、遅すぎたんだ」
「遅い、って……。そんなことないよ! 僕は、ちゃんと——」
ラースの言葉に、癒し手は首を振って遮る。
「今はね、ここの、強い力を注いでいるから……。だから、それを止めたら……そしたら、キミは——」
言い切ることができずに、イシュカは声を詰まらせた。
『リグ、聞かされていたの? だからなの?』
『オマエは、ここにいろ。オレがなんとかする』
『待って! ちょっと待って! お願い! 僕、よく、わけがわからなくて——』
ラースは荒く呼吸を繰り返しながら、掌を胸に当てた。血塗れだったシャツはすでに脱がされていた。露出した肌には傷ひとつない。平時よりも早い鼓動が、確かに拍動しているのを感じるだけだ。
「ラース……、キミは、ボクの、大切なひとなんだ。助けたいんだよぅ。でも……ボク、もうこれ以上は、わからない……できないんだ……。癒し手なんていって、なのにボクは……ボクは、また……」
「イッシュ……僕は本当に——」
「ねえ、ラース……せめて、せめて、少しでも、一緒にいたいんだよぅ……」
「そんなこと……、ううん。イッシュ、ありがとう」
少しだけ落ち着きを取り戻して、ラースは腰を落とした。泣き濡れる兎と目線を合わせて、暖かな体を抱きしめる。
「う……うぅ……、らぁす……ぅ……」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、イシュカはその手に体を委ねた。
『リグも来て』
穏やかな呼びかけに、小さな龍はわずかに尻尾を動かした。再び地を打とうとして、思いとどまる。それでも、彼は動かなかった。
『ねえ、リグ。ここに来て、聞いて欲しいんだ。今から、新しい術を教えてあげるから』
『術……?』
『うん。リグルヴェルダスの、最後の術だよ。リグなら、きっと一度で覚えられるよね』
リグは小さく頭をふった。そして、ようやく振り返り、俯いたままラースの隣に立つ。
ありがとう、と言葉にしながら、ラースはリグの喉元に触れた。今までに感じたこともないほどの、極度の緊張が伝わってくる。少しだけ指先を動かすが、反応はない。容易に緩和することのできない、深刻な状態だった。
(仕方ない、よね。でも、もう、決めたんだ)
最後までそうしていたかった。もっと続けたかった。しかし、いつまでこうしていられるかわからない。ラースは手をリグから遠ざけた。もう一方の手も、静かにイシュカを解放した。
「ラース……?」
「イッシュ、もう少しだけ、僕を癒して」
「す、少しなんて……、ボクは、もっと、ずっと——」
「ありがとう。でも、大丈夫だからね。きっと大丈夫。だから、少し離れていて」
それからラースはリグに向き直る。素直な子供のように、リグはラースを見上げ、待っていた。
『じゃあ、やってみせるね』
彼の言葉に頷き、リグは一切の動きを止めた。感覚全てをラースの術の詠唱に振りむけた。その詠唱には、それまで教わった術のときのような拙さは無い。不自然さを抱かせない完全な龍の言葉だった。
言葉は音。音は波。波は分解し、解析され得るもの。場が波を生み、波が場を変異させる。あらゆる変化を、一瞬たりとも見逃すことなく、聞き漏らすことなく、リグは捉える。世界に彼らと術だけが存在する状態。その作用を、リグは記憶する。
長く、複雑な、今のリグには思い至ることのできない術の展開が、そこにはあった。やがてそれは収束に向かい、音が途絶える。対象を取らない術は、しばらくのちに発散し、平穏な場に還る。
それを感じ取り、ラースは息をついた。やり遂げた、穏やかな表情だった。無言で視線を送ると、リグもまた頷き返す。
『リグ、それじゃあやってみて』
『ラース、この術は——』
『大丈夫。できるよね』
促されて、リグは再び頷く。そして詠唱を開始する。
完璧な再現。容易ではない抑揚を自らのものとして、それが当然とばかりに滑らかに紡ぐ。術は、必然の効果を生み出す。
(やっぱり、リグはすごいね。ちゃんと、返さないとね)
詠唱が終わりを迎える。最後の一小節が術を発動に導く。その言葉を捉えて、ラースはリグを抱きしめた。
(思い出して、リグ。僕のこととか、仇とか、もういいから。リグが元気でいられれば、それでいいから。どうか、ちゃんと思い出して————)
体が、輝く。回復の光とは異なる、時を運ぶ光に。十余年。その大半の時を変換し、術者に還元させる。
リグは流れ込む光を受け取っていた。雨粒の浸透する大地の如く、その時を吸収する。わずかな間にラースの記憶が押し寄せる。驚愕しながらもリグはそれを認識していた。その、さらに奥に潜むものも。
光には内部構造があった。極小に、密に畳み込まれ、まるで異なる次元を内包しているかのような微細構造だった。
数千年に及ぶ記憶。知識。英知の結晶————
薄膜のような記憶の内に、それは存在していた。人には不可能なことも、龍は知覚できる。
『ぐ……っ』
長い首を折り曲げ、リグは頭を押さえていた。認識できるとはいえ、膨大な情報を全て受け止め、読み込み、精査するには時間が足りなすぎた。認識できたがゆえに、記憶の海に溺れる。今の彼の自己が、圧倒的な過去に飲み込まれる。
彼は惹きつけられる。そこには、彼の求めてやまない知識が存在していたから。魅力的な情報に溢れていたから。
それでも、完璧な把握には至らない。流れ込む記憶を逐次処理することはかなわない。光の量は、奪う時間に比例するのだから。彼はそれ以上の深追いをやめ、自己の内に記憶が蓄積するに任せた。最低限の情報以外は。
短い吐息をひとつ。
瞬き、
『————そうか。俺は、失敗したのだな』
足元に転がる赤子を一瞥し、呟く。自らを被験とした結果に、感慨はなかった。事実を事実として受けとめ、検証するだけだなのだから。
『先ずは、遺失した断片を繋がなくてはならないな』
頭を上げ、自らの居た空間を見回す。地脈の力満つるこの地は、彼の居城にふさわしい。記憶を辿り、その場所を見つけ、彼は身を翻した。
「リグっ! 待って! キミは何をしたの。ラースはどうしてこんな姿に。ねえっ!」
飛び立とうとするリグの動きが止まった。それは、イシュカの呼びかけに応じたからではない。今は、森の癒し手如き、処理を割くに値しない存在。
それは。
彼にとっては、体に羽毛が舞い降りたかのようなもので、意識しなければ気がつかないほどの力。
ラースとイシュカに背を向けたことで、彼の尻尾は赤子に触れていた。赤子は動くそれを掴む。意図があったわけではない。近づいたものを掴む、という本能的な動きにすぎない。
そう。リグは意識していなかった。しかし、その身体は覚えていた。反応していた。以前のような動きなどしているわけではないのに、触れられた鱗は、尻尾は、その暖かさを伝えていた。
『ちが……う……、俺は——』
全身が小刻みに震えた。天井を仰ぎ見た頭の中で、彼の意識もまた揺さぶられていた。その刺激を明確に知覚し、思い出す。
『オレは! 失敗なんてしていないっ!!!』
激しい叫びとは対照的に、リグはゆっくりと反転した。心地よさを伝える尻尾を動かさないように、注意を払いながら、赤子となったラースに手を添える。
『ラースっ! オレは! オレはもう、オマエの、この手には抗えないんだっ!』
不思議そうに目を見開くラースを抱え上げ、その柔肌を傷つけないようにと、そっと首を這わせる。
龍の頭に無垢な手が添えられた。
次回より最終章となります。
【次回予告】(次章予告)
龍は動く。
世界を変える。
ただ、彼のために。
次回、「それでオマエが助かるとでも?」
よろしくお願いします。




