第88話 とっても、嬉しい
『やめ、ろ……。リグを、これ以上、傷つけ、ない、で……』
雨中を行軍するブーツから跳ね飛ばされ、壁面を汚す泥の様に、自らの血で張りつけられたラースの体が落ちる。打ちつけられた衝撃と、龍の爪撃が、彼の体を壊していた。
『すごいねっ! まだ死んでないんだね〜。どうなっているの、お前?』
重い歩みで廃墟を砕きながら、金龍の弟ファウススが近づく。布を絞るように、その体を握りしめる。兄のつけた傷に、自らの爪を重ねた。
「ああああああーーーーーーっっ!!」
『あはっ、面白いね。絞るほどに溢れてくるよ。もうすぐ潰れちゃうね』
断末魔の如き叫びを意に介さず、ファウススは悪戯っぽく笑うのみだった。溢れる血流を舌先で拭い取りながら、掌の中でもがく獲物の力が弱まるのを楽しんでいた。
『リグを、助けて……、なんで、こんなこと、するん、だ……』
『ん〜、だってさあ、あいつ弱いもん。ガリウス様の方が、ずっと凄いから。だから、リグはもういらないんだよ、ねっ!』
腕に一層の力が込められた。ラースはその圧に、体の隅々までが焼かれたかのような熱に襲われる。同時に、寒さに包まれた。
笑うように話す金龍の輪郭が、陽炎の如く揺らめく。金色にまとわりつく闇。暗い炎が体表をなめているようにラースには見えていた。
『いら、ない……? なら、もう、いいだろ……。リグを、放してよ……』
『え? そんなわけないじゃん。だって僕たち、あいつにひどい目に合わされているし。ちゃんと仕返ししないとね。そうだよね、兄ちゃん』
『もちろんだ。ああ、そういえば、お前にも借りがあったな。俺の、この黄金の鱗を奪ったんだったよな』
フェルサスが近づき、ラースの肩に爪先を食い込ませる。
『お前如きでは、釣り合うものなんてないが。腕くらいは剥がしておこうか』
『や、やめろ、やめて——』
「ちょっとぉ、殺しちゃダメよぉ」
破壊を、可愛らしい声が静止させた。金龍たちの足元で、エリスが拳を振り上げていた。
「そいつは、ガリウス様に献上するんだからぁ」
「こいつを?」
「そ。私が見つけたんだからね。それとぉ、一応、私の方が先輩なんだからね」
言いながらも恐怖は抑えきれず、エリスの声は震える。
「こす狡い淫魔如きが、何を言う」
「ほんと、先とか後とか関係ある? 弱っちいくせにさ」
不満をぶつける金龍たちに、エリスは言葉をつまらせる。そんな意図は毛頭なかったが、エリスを助けるかのように、影が彼らを包んだ。
「こいつに、そんな力があると言うのか、エリス」
金龍たちの頭上から、黒龍がラースを覗き込んでいた。
全身を覆う漆黒と瞳の赫。その姿にラースは恐怖を呼び覚まされる。カロスケイロスの国の砦で目にした黒龍を、その時の怖れを、無力さを。破壊された体の痛みよりも強く、彼はその寒々とした感覚に囚われる。
「ほんとですよぉ、ガリウス様。こいつが、ルージュさまを子供にしちゃったんですからぁ」
「信じられんが、な。それが本当だとしても、壊しすぎではないか」
睨みつける赤に、金龍の兄弟は縮みあがった。緩めた掌からラースの体が滑り落ち、これでいいのか、と上目遣いに新たな主を伺う。
「おい、まだ息があるなら見せてみろ。若返らせる、というお前の力を」
血濡れた体を懸命に反転させ、ラースは仰向けに姿勢を変えた。彼の視界は三頭の龍の姿で埋め尽くされていた。圧倒的な存在感と圧の中で、ゆっくりと彼は呼吸を整える。鼓動のたびに、口の端から命が溢れ落ちているように感じながら、ラースは叫んだ。
『リグを、助けてくださいっ! 僕がその術を見せるから! そうしたら、リグを————があっっ!』
胸を踏みつけられ、血を詰まらせた。黒龍にとっては撫でるほどの力。それを徐々に強める。
「言える立場か? 別に期待はしていない。暇つぶしだからな」
『ぐ、うぅ……、ぅ、リグっっっ!! あああああああーーーーーーっっっ!!』
体内の血液全てと引き換えにしたような叫び。龍の咆哮の如き絶叫は、彼に最も近しい龍を目覚めさせる。それが引き金となり、術の完成を後押しする。
咆哮が止み、静寂が訪れる。音の波は消え、代わりに場が変質する。誰もその前兆を察知できなかった。空間が歪み、壊滅的な力が発生する過程。ラースのみが、微かに紡がれつつあった術を捉え、既知の効果を予見し、合図としての叫びを送っていた。
風が、吸い寄せられていた。磔にされたリグの眼前に。そこで破断した空間は、術の要請に従って侵食し、龍たちへと触手を伸ばす。刃と化した暴風と断裂空間の出現を、龍たちはようやく認識する。
『な、これは————』
『ひ、ひぃっ! またっ!』
『お、お、おおおおおおお〜〜〜〜〜〜っっ!!』
後手に回りながらも、龍たちは飛び上がる。だが、すでに遅すぎた。
生みされた風が、龍の巨体を吹き上げる。森の上空に、木の葉の如く舞い上がらせる。暴風の只中で、懸命に離脱を試みる翼を、それ自身が凶器となった風が切り刻む。強化のために纏っていた闇の衣を粉々に砕き、全身を術に晒す。
強靭な龍の鱗すら薄弱と断ずる、リグルヴェルダスの術。ラースに気を取られていた隙に紡がれたリグの術は、オリジナルには程遠い威力ながらも、十分な効果を発揮し、敵を断罪せしめる。
全身を切り刻まれながら、一塊になって吹き飛ばされる龍達。その姿に目を遣ることもなく、ラースは身を捩る。
『リグ……リグっ!』
這いずりながら彼はその足元にたどり着いた。柱を支えに立ち上がり、リグを縛る闇色の刃に手をかける。
「う、ぐうぅぅぅっ!」
黒龍の生成した刃がラースの掌に食い込む。傷を負わせるだけではない。体内の力そのものを奪う楔だ。リグの身体を貫く闇の力は、ラースが万全だったとしても引き抜くことは到底叶わない代物だ。
「くそ……、なんで! なんで、僕は——っ!」
龍の手甲が切り裂かれる。それほどの力でも、闇の刃はわずかばかりも動かない。
『リグ! 助けたいんだ! 僕は、今度こそ! なのに————』
『らーす、オレの、手、そこに』
『リグ……』
弱々しい声に、ラースは我に返る。小さな腕は捻れ、破壊されていた。それに触れることすら躊躇うほどに。《恵みの水》で包みながら、自ら動かせなくなった手を、刃へと導く。
苦痛に顔を歪めながら、リグは微かな詠唱を紡いだ。発生した力は、ラースにできぬことを成す。掠れた詠唱に魔素の刃は緩む。それを見てラースは再び力を込めた。
貫く闇は龍の体を離れ、散り散りになる。その残滓をリグは吸収した。
『わる……い、らーす、オマエを囮に……』
『いい。僕——』
解放されたリグの身体をラースは受け止める。ひどく軽い。自ら掴まることもできなくなった龍に、震えながらラースは首をすり寄せ、囁く。
『——とっても、嬉しいんだ』
リグを抱えながら、その腕で《恵みの水》を与える。少しでも、ほんの少しでも癒せるようにと。効果の薄い癒しの術を繰り返す。
「な、な、なんなのよぉ。あんたたち、ガリウス様まで」
龍を狙ったが故に術に巻き込まれなかったエリスは、立ち上がれぬまま恐怖の瞳を二人に向ける。満身創痍、瀕死といっても過言ではない状態。そう見えてはいても、エリスには手出しができない。その奥底に未だ潜む力に怯え、呪殺されそうな視線を受け、尻をつけたまま後ずさることしかできなかった。
『行こう、リグ』
『ああ、ラース』
リグは視線だけで、ラースを洞窟へ誘う。リグも感じていた。その先に強大な力が存在していることを。傷ついた体に必要な、濃密な魔素がそこにあることを。
歩むたびに血が溢れる。呼吸するだけで胸が焼けるように痛む。これ以上早く動けば、積み木が崩れるように体がバラバラになってしまう。そう感じながら、ラースは足を動かす。
リグをそこへ連れていく。絶対に助ける。全てを捧げても。
その思いがなければ、ラースは動けなかった。自分一人だけの避難であったなら、決して辿り着けず、諦めていた。
確実な一歩を積み重ねながら。命を代わりに捨てながら。歩むラースとリグは、上空からの咆哮を浴びた。
『おおおおおおーーーっ! ————【吸源破魔】!』
遠くの空に闇の球体が生じた。闇は暴風と空間の断裂を飲み込み、その内部の龍たちをそれ以上の破壊から守る。
『ラース……、急げ。戻って、来る……』
『…………』
意識に体が応えてくれない。痛みも、苦しさも無視できるというのに。まるで、《恵みの水》を使いすぎた時のように、心身が解離したような感覚のなかにラースはいた。
怒りと、翼打つ音が、ラースにも微かに聞こえていた。それが迫る来ることもわかった。それでも、洞窟の奥まで行けば、龍の身体では侵入できない。魔素を感じることのできない彼には、その希望があった。
しかし、入り口の数歩手前で、足元が揺れた。怒りに任せた着地が大地を叩いていた。
『やってくれたな、小僧ども』
大地の奥底から響くかのような唸りが発せられた。
ラースは駆け出していた。思う通りに体が動いていたかはわからない。もう、洞窟の入り口、その闇だけしか見えていなかった。
ラースの視界が切り替わる。闇を見通す暗視が洞窟の先を視認させる。下り勾配の、先細りの通路へ体を飛び込ませる。
背後で、再び唸り声が響いた。
——もう、関係ない。このまま進めば。
「————がっ!」
『ぐ、ううっ!』
二人は、同時に衝撃を受け、短く悲鳴を漏らした。リグを抱えたまま、ラースは膝をつく。
ラースの体を闇が貫いていた。洞窟の中でも識別できる、より深い闇の槍だ。槍はラースの体で止まることなく、その先端はリグの体をも切り裂いていた。
『リ……グ……。逃げ、て——』
ラースはリグの身体を放り投げる。少しでも離そうと腕を振る。小さな体は、彼の足元に落ちた。
『う、ああああああーーーーっ!!』
体が後方に引きずられた。闇の槍は、洞窟の外、黒龍の手の内から伸びていた。闇が収縮し、貫いたままのラースを引き寄せる。
咄嗟に彼は足元の岩盤に手をかける。だが、抗う力など、最早残されていなかった。
『ギッ、ギィァァァァァァーーーーーー!!!』
悲鳴のような咆哮が洞窟を揺るがした。絞り出された叫びが、岩壁を崩落させる。闇の槍を押しつぶすように岩を降らせ、洞窟の入り口へと続く通路を塞ぐ。崩壊の余波は、細かな土石を二人に降り注がせた。
岩によってラースの体は止まった。しかし貫く槍は健在。引き寄せる力はラースの体を崩落した岩肌へと押しつける。槍の柄の部分は厚みのない影となっていた。積み上がった岩の隙間を縫うようにすり抜け、外部との繋がりを維持したまま彼の体を外へ誘う。
『グぅあアッ!』
全身を軋ませながら駆け寄り、リグは半ば千切れた尾を振るう。尾の先に魔素の刃を纏わせ、闇の槍を断ち切る。闇は魔素へと還元され、ようやくラースは解放された。同時に、磔にされていた岩から、彼の体が崩れ落ちた。
『ラース! 行くぞ! とにかく奥へ————ラースっっ!!』
呼びかけに反応はなかった。流れる多量の血だけが、応えていた。
『ぐっ……くそっ……』
小さな体を潜り込ませ、リグはラースの上半身を背に乗せる。腕を咥え、歩き始める。両腕を、翼を破壊されていたリグには、そうするより他になかった。
背後から、周囲から、破壊の衝撃が伝わる。その度に洞窟が悲鳴を上げ、土埃を降らせる。
深刻な傷を負い、追い詰められたリグに恐怖はなかった。すべきことは理解していた。それを実行するだけだとわかっていた。ただ、背中から伝わる冷たさだけが、彼の体を、心を震わせる。
下り勾配の通路の先、リグは動くものの存在に気づく。彼の視認に遅れて、光が灯る。初めは小さな光の球が、彼らを確認するかのように膨れ上がり、通路を埋め尽くしていった。
褐色の毛皮が見えた。
精霊の輝きに包まれて、小さな兎が佇んでいた。
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
これにて第15章完結です。
次回、1話を挟んで、
次々回より最終章となります。
【次回予告】
助けられたラースとリグ。
一つの終わりと始まり。
次回、「この手には抗えない」
よろしくお願いします。




