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第85話 お前なんだな

 あるはずのない反応に、エリスは身体を引き、びくり、と硬らせた。


「え、え? あんた——」


「生贄、とか言ったよね。お前なのかっ! リグルヴェルダスなんかじゃない。お前が僕の村に生贄を要求した奴なんだなっ!」


「どうして? どうしてよっ。『縛蓮の実』は?」


 ラースがルージュから与えらえたのは、相手の意思を奪う、魔術の込められたペンダントだ。その効果は当然のように発揮されている。そう信じて疑わなかったエリスは、混乱していた。


「私、あなたのこと、まだ信じてないもの」


「る、ルージュさま?」


「だってそうでしょ。若返るとか、そんなの信じられないもの。ただ、ラースと一緒に帰れるならって——」


「ルージュ、今はいいよ。それよりも、エリスっていってたね。『祭壇』でルージュと一緒にいた奴だろ。お前なんだなっ!」


 ラースは力任せにペンダントを引きちぎった。


 宝石のように磨かれた紅い実は、その香りで対象の意思を混濁させる。それはペンダントを完全に身につけた場合に効果を発揮するように、術を施されていた。ルージュは金具を留めなかった。ラースのうなじの辺り、髪に隠された鎖の端部は、牧草によって結ばれていた。


「許さないっ!」


 ラースは手甲に手を通し、目の前の少女に迫る。が、その足は止められた。


 二人の間に、羊が割って入った。側方から、別の羊が彼に身体をぶつけてくる。


「ちょ、ちょっと、邪魔しないでっ!」


 乱暴な言葉ながら、押しのけるその手の動きは柔らかだ。羊たちが自然と歩み去るように、脇腹を、お尻を軽く叩いていなす。


 羊は彼を避けて歩き出す。代わりに他の羊たちが彼に押し寄せた。『施術』をねだるかのように。


「待って、今は——」


 背中に、重い衝撃を感じた。振り向こうとするラースに、飛び跳ねる羊の姿が写る。本来することのない、柵を飛び越える牧羊犬のような動きだ。


「いやああああっ!」


 ルージュの悲鳴が、羊の群れの中から響いた。服を咥えられ、引き倒されていた。複数の羊が、彼女を引きずる。


「やだっ! ラースっ!」


「ごめん! どいてーーーーっ!」


 羊の塊を強引に割り、ラースは彼女から羊を引き剥がす。鋭い犬歯を持つわけではない羊だったが、ルージュのシャツは破れ、皮膚が赤く鬱血していた。


「大丈夫、ルージュっ!」


「うん。ラース、私ね、あの人が連れて行ってくれると思ったの。だって私——」


「セイヤさんの家へ行ってて! 僕はあいつをやっつける! この子たちだってきっとあいつが操っているんだ」


 ルージュの弁明を遮って、《恵みの水》で彼女を癒す。ルージュを背に、ラースは羊の群れの奥で笑みを受かべるエリスを睨みつけた。


「ルージュさまぁ、ごめんなさいね〜。羊たちが、こいつのこと好きすぎるみたいなの。後でちゃぁんと連れて行ってあげますからぁ」


「待てよっ! お前は、魔獣も操ったんだな! それで村を、僕の家を襲わせたんだろ!」


「ん〜、どうだったかしら。でも、ここの奴ら、全然生贄よこさないからさぁ。ちょっと、けしかけたかも?」


 少女の姿に似つかわしい、悪意なき笑顔。それがラースの全身を震わせる。砕けんばかりに歯を食いしばる。龍の手甲に包まれた右手が、装甲を破壊しうるほどに握りしめられた。『水龍紋』を与えらた左手が、自らを傷つけた。


 細められた双眸からの光が、羊たちを本能的な恐怖で縛る。操られた群れは、引くこともできずに、一塊のままその空気に囚われた。


「ラース……」


 背後からでも、ルージュにはその形相が思い浮かんだ。この、身体を貫かれるような痛みの感覚を、彼女は知っていた。森の中でラースが倒れ、それを目の当たりにした時のリグが発したもの。その時と同様に、彼女は動くことができなかった。


 ラースは大地を蹴った。数歩助走しただけで、羊の群れを飛び越える。下がりつつあったエリスとの距離は瞬く間にゼロに詰まる。


「ひっ!」


 龍の鉤爪は、空を切った。


「逃すかっ!」


 次の斬撃が、エリスの身体を捉える。手応えがなかった。ラースには、捉えたように見えていたのだが。


「無理よぅ。私、あの時とは違うからね」


「くそおぉぉっ! なんでっ!」


 当たっている。はずであるのに。その肉体をすり抜ける。攻撃の軌跡は、確かに彼女と交差している。その理由が理解できずに、ラースは腕を振り回す。


「だからぁ、そんな攻撃——————ぐひゃっ!」


 突如、エリスの身体が吹き飛ぶ。ラースの目の前から消えたかのような勢いで、側方に弾かれる。


 戸惑うラースの前を、細い豪炎が横切った。熱波に髪を靡かせながら、その先に目を向ける。次いで、その源を。


『リグっ!!』


 放たれた矢の勢いで迫り、リグは熱を帯びた身体をラースの肩で休ませた。


『ラース、今の奴は、前に見たな』


『そうだけど、どうして』


『オマエの殺気を感じたからな。殺すんだろ?』


『いや、だけど。まだ聞きたいことがあって——』


 牧場に転がる肉体はすでに黒炭のようで、呻き声すら聞こえなかった。ラースには、王都でのソルシャの姉が思い出された。

 

『ああ、それならまだ大丈夫だ』


 リグはラースの肩を蹴った。近づくリグの姿に反応して、黒炭の一部が蠢く。


「え……?」


 後方に転がりながら、エリスの身体が跳ね起きる。黒に覆われた腕が、マントを剥ぎ取るような仕草をすると、焼失した表面が剥がれ落ちた。焼き尽くされた、と思われていた身体に損傷は見られない。


「あ、あっぶないわねぇ。ガリウス様の術がなかったら——って、待って! 待ってよぉ」


 無傷の、肉感的な肢体をたゆらせながら、エリスは後ずさる。


『な、ラース。次は加減するからな』


「待ってってばぁ。ね、あなた、勘違いしてる。私じゃないのよぉ」


 リグの詠唱に、慌ててエリスは掌を見せて否定した。


「何が、違うっていうんだよ。お前が、全てやったんだろ」


「だ、だからね。私にその力はあるけどね。でも違うの。これはルージュさまの命令なのよぉ〜」


「ルージュ? ルージュがそんなこと言うわけないだろ! 出鱈目言ってごまかすなっ!」


「それは、あなたが、今のルージュさましか知らないからよぉ。ね、聞いてよ。元々のルージュさまは、人間なんてなんとも思っていないの。食糧か、おもちゃか、奴隷。それに、私がルージュさまの命令に、逆らえるわけないじゃないの〜」


「元々、の……」


「そう、そうよ。あなたが、子供にしたんでしょぉ。ルージュさまは元々、そんな素晴らしい方なの。あ、もちろん。今も、とっても、とっても可愛いから。そうよね。ね?」


「おとな……の、ルージュ……」


 掌を見つめて、呟く。昂りが、ラースの内から徐々に消えつつあった。『祭壇』の地で襲われ、リグルヴェルダスの術で難を逃れた、その記憶。思い出すほどに、ラースの体は震えた。否定、できなかった。


「だけど……そんな……」


 ラースは羊の群れのその奥に顔を向けた。そこに留まったままの、少女の姿が霞む。彼の顔からは、苛烈な復讐者の形相は消えていた。代わりに浮かぶのは不安。全てを失った直後のような、混乱と自失の表情があった。


 ラースは彼女に向かって歩を進めた。詠唱を中断したリグがそれに続く。歩きながら、考えがまとまるはずもなかった。


「ルージュ……覚えている?」


 否定しかないとわかっている問いを、彼は発していた。


「ねえ……僕の家族を襲ったの? そう命令したの……?」


「ラース? 何を言っているの? 彼女に、何か言われたの?」


「あいつは、ルージュが命令したって……だから、ねえ。教えて……本当に覚えていないの……? 僕には、忘れられない……なのに、忘れたの……?」


「私、知らないよ。そんなの、わからない。ねえ、ラース。どうしちゃったの? 私がラースの家族を知っているわけないよ」


 ルージュはエリスから聞かされていた。それはラースたちがヴェルスの洞窟から村に帰ってきた日のことだ。彼女を捜すため、すでに村に潜んでいたエリスと、ルージュは出会っていた。そしてエリスから、故郷へ一緒に帰ることを提案されていたのだ。


 その話の中で、彼女はラースによる若返りの話を聞いていた。彼女に術をかけ、子供にした、ということを。そしてエリスのことも忘れてしまった、ということを。


 ルージュには信じられない話だった。実際、彼女は信じてはいなかった。ただ、ラースと一緒に帰る、という提案だけは魅力的だった。


 彼女は、中途半端にエリス頼った。


 しかし、今。ルージュの想いは揺らいでいた。


「ねえ、ラース。教えて。全然信じられないことなの。ラースは、私を子供にしたの? そんなこと、できるわけないよね? 彼女の言うことなんて、うそ、だよね?」


「そうだぞ。お前は、子供ではなかった」


 答えたのはリグだった。冷静な判断を奪われていたラースに代わって、淡々とした口調は事実のみを告げる。


『え……リグ? なんで……』


「最初に会った時、オマエは今の姿ではなかった。大人のお前は、向こうの奴と一緒に現れて、オレとラースを襲った。だからラースは、お前を子供にしたんだ」


「本当に……リグ? 本当にそんなことを……。じゃあ! じゃあ、私が、ラースの家を、そんな命令をしたの!? 本当に私が!?」


「そこまではオレは知らない。会う前のことだろうからな」


 素っ気ない、しかし誤魔化しのない言葉。ルージュにはそう思えた。それゆえ、真実だと理解できる。


 声が出せなかった。何かを言わなければいけないと思いながらも、ルージュは、混乱するラースを無言で見上げることしかできなかった。彼女の写すラースは、顔を歪め、口元を緩ませ、決してそうではないはずなのに、笑っているようだった。


 それが、一層彼女を不安にさせる。


 必要な事実だけ伝えたリグは、それ以上の言葉を発しなかった。関心は彼女には向いていない。ラースの反応を待っていた。


『リグ、どうしてそんなことを、今——』


 ようやく発された言葉をまっすぐに受け止めて、リグは短く答える。


『リグルヴェルダスだ』


と。


 即座にラースは気づかされた。全身が氷漬けにされたような感覚に襲われた。

【次回予告】

もう、逃げられない。

彼は向き合う。

そして、真実を求める。


次回、「離れたくないんだよっっ!」

よろしくお願いします。

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