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第84話 いい趣味しているわよね

 牧草を揺らす風が爽やかな朝。小さな足音が二つ、ラースの家を離れていった。のんびりと散歩するかのような歩みにのせて、鼻歌が二人の軌跡を描く。


「気持ちいいね、ラース」


「うん。やっぱりここが一番だよ」


 半歩先をゆくルージュは振り返りもせずに頷いた。


「ヴェルスのところはちょっと暑かったし、砂漠ってなんか寂しい感じだったよね。ああ、でもさ、ちょっと気になっている場所があるんだ」


「気になっている、って? どこか行きたい所があるの?」


「うん。カロスのところだよ。ほら、僕を癒してくれた龍。ルージュもちょっとだけ会ったよね。そのカロスの国に、羊の牧場があるんだ。向こうにいる間に行こうと思っていたんだけど、いろいろあって行けなかったからさ」


「そう……」


 曖昧に相槌を打ちながらも歩みは止めない。二人は牧場の敷地の端まで歩いてきていた。あてもない散策、とラースは思っていたが、ルージュには目的地があった。隣にあるセイヤとサーラの牧場だ。


「みんなで行けたらいいね。そこの羊はね、ここの子たちと違って、ふわふわな毛をしているんだ。きっと撫でたら気持ちいいと思うよ。その毛を刈って、服とかを作る材料にするんだって」


 すでに放牧されている、羊たちの姿が見えた。境界の柵の向こう側で、朝日を浴びながら牧草を食んでいる。


「あのね、ラース」


 柵の前で足を止めて、ルージュは振り返った。異国の羊に思いを馳せる彼の表情が写り、小さな拳に少しだけ力が込められる。


「私の家に行こうよ。ね。お願い。一緒に来てほしいの」


「ん、そうだね。ルージュのところにも、いつか行ってみたいよね」


「そうじゃなくって!」


 ラースの当たり障りのない言葉に、彼女は思わず叫ぶ。


「いつか、じゃなくって! 今からでも! すぐにでも! 私と一緒に来てほしいの。ね、ラース。私と行こうよ!」


「え、どうしたの、ルージュ。そんな急に」


「急じゃないもん! ここに来たとき、ラース、言ってくれたよね。行きたいって。もう、ここにいなくてもいいでしょ? 私、待てないの。行こうよ。ねえっ。行こう!」


「それは……すぐには、だめ、だよ。でも、いつかきっと」


 答えながら伸ばした腕が震える。小さな肩に手を置いて、彼女を、自らを落ち着かせようと長く息を吐く。


 ずっと、避けていたことだった。ラースには、そこに踏み込む勇気がなかった。今の、かろうじて取り戻したものが、崩れてしまいそうに思えて。一方で、彼は知らない。言おうと思っても、口にすることはできない、ということに。


「……やっぱり、なの」


 ラースの手を受け入れながら、彼女は俯いて呟く。彼の耳に届かぬようにと。そうして再び見上げた瞳には涙が滲んでいた。


「それに、あの子には、ソルシャにはすぐについて行ったのに。どうして私はダメなの? ねえ、ラース。私の家は、あんな怖いとこじゃないよ。みんな歓迎してくれるよ。私の大切な人なんだもん。家族なんだもん。ラースは心配しなくて大丈夫だから。だから、だからお願い。私を捨てないで!」


 必死の訴えだった。柔らかな頬が歪み、その下で歯を食いしばっている様が見て取れた。揺れる瞳に、ラースが抗う術はない。それでも、彼は即答することができずに、ただその身体を抱き寄せた。


「わかったよ、ルージュ。ごめんね。僕が、ちゃんとしないとダメだよね」


 腕の中で、桃色の頭が縦に振られるのを感じた。ぐいぐいと、ひとしきりこすりつけてから、彼女は離れる。その頬は、すでに緩んでいた。






 蹲み込んだルージュの指先が、地面に地図を描き出す。地図といっても、極端に単純化された、現実とは程遠い図形だ。


 平べったいお椀形。その上に、少し離れて豆粒のような点をいくつか。さらにその上に、お椀をひっくり返したような、あるいは鍋の蓋のような形を描く。


「ここの間が海よ。これはちっちゃな島ね。本当はいっぱいあるのよ」


 指差しながら、解説を加える。上下の図形は南北の大陸だ。中央の大海を円形に囲っている。それは完全な地続きではなく、抽象的なルージュの絵にあるように、海峡によって分断されていた。


「でね、こっちの北の大陸のこの辺りがラースの家よ。私の家は、ここらへんかな」


「これ、すごく遠いんじゃないの?」


 ルージュが指したのは南側の大陸の中央部分だ。スケール感が全くわからないものの、村から王都までなど比較にならない程の距離だろうことは、ラースにも理解できた。


「そうね。でも大丈夫よ。あてがあるの」


「それって、飛竜たちにお願いする、とか?」


「ううん」


 ルージュは立ち上がって柵に手をかけると、柵の隙間を潜り抜けた。その向こう側はセイヤ夫妻の牧場だ。勝手に立ち入って問題になるような間柄ではないが、その行動にラースは驚く。


 彼が立ち上がる頃には、ルージュは羊たちの間を進んでいた。ステップを踏みながら、そこを舞台に彼女は笑顔で踊る。


「ルージュ、待って! ————あっ!」


 足を取られて転ぶルージュの姿が見えた。牧草と羊の群れに、その体が隠される。駆け寄ったラースが目にしたのは、髪に草を絡ませながらも笑みを絶やさない少女。そんな彼女が、仰向けに寝転んだまま両腕を広げていた。


「大丈夫?」


「嬉しいの。ラースが一緒に来てくれて」


 覗き込む少年の首に腕が回された。されるがままに彼は身体を寄せる。無垢な瞳に引き込まれながら、ラースはひんやりとしたものが首に触れていることに気づく。


 ルージュとの間で、輝くものが揺れていた。


「ルージュ、これ?」


「プレゼントよ。お返し」


「え? いつの間に? ありがとう。大切にするよ」


 ラースはそのまま距離を縮め、唇をそっと頬に————


「んっ」


 受けたのは、より熱を帯びた唇だった。驚きつつも、ラースは納得する。彼女が望むなら、と委ねる。羊たちに囲まれた、暖かな空気の中で、浸る。これまでよりもずっと長く。囁きながら、呼吸を整えながら、続く。


 柔らかな風が適度に熱を冷ます。ささやかな妨害が、より熱をもたらし、燃え上がらせる。


 そうして二人の時間は、ゆっくり、ゆっくりと経過していた。


「——それじゃあ、そろそろ行きましょ。ルージュさまぁ」


 そんな二人を愛おしそうに見つめながら、同族の少女が声をかけた。椅子がわりにしていた羊の背から飛び降りると、赤みがかった桃色の髪が靡く。それに合わせて、隠しきれない大きな胸も弾む。


「うん。行こう、ラース」


 その存在に気づいていたルージュは、驚くこともなくラースに声をかけた。


 起き上がったルージュの体についた土埃を、ラースはそっと払う。髪に絡まる草を丁寧に取り除き、形を整える。それらを無言で行うと、ラースは彼女の隣に控えた。


「ちゃんと効いているみたいね、エリス」


「もちろんですよぅ。『縛蓮の実』を使ったペンダントですから。それより、流石です、ルージュさまぁ。そんな小さくなってしまったのに、あのテクニック。あぁ、私も味わいたいわぁ」


「そう? 本当は、こんな道具いらないと思うの。私だけで十分よ」


 人形のように立ち尽くすラースを一瞥して、ルージュは髪をかき上げた。


「ですよね〜。でも、一応ね。ガリウス様のところに連れて行くから」


「仕方ないわね。それで、そのガリウス様っていうのが、私たちを家に帰してくれるのね」


「そ。ガリウス様たちは今、あの『祭壇』の地にいるの。森でやることがあるみたいだから、もう少し先になるけれど。お家に帰れますよ〜。久しぶりでしょ、ルージュさまは」


「ええ。早く帰って、ラースとゆっくり楽しみたいわ」


 ラースの背中を軽く叩く。それが合図となって、彼は歩き始める。無感情に、前だけを見つめ、ルージュの手をとって先導する。


「あ、それ、ダメかも、ルージュさまぁ」


「え、ダメって、何が?」


 手綱を引くようにラースの腕を引いて、ルージュは彼の歩みを止めた。引かれたその位置のまま、振り返ることもなく再びラースはただ棒立ちになった。


「そいつ、ガリウス様が使うと思うから。だって、人を若返らせることができる奴なのよ。そんなの聞いたことないし。きっと色々と、いじると思うわよ〜」


「何をする気なの? ラースは私のものなのよ」


「あれぇ? ルージュさま、そんなにこいつがお気に入りだったのぉ?」


 腰を折って、膝に両手をついた姿勢でエリスはラースを覗き込んだ。彼女にとっては無意識な行為なのだろう。両腕に挟まれた胸が、窮屈そうにはみ出す。


「ふぅん? ま、こいつもルージュさまのこと気に入っていたみたいだし。全く、いい趣味しているわよね〜。若返らせておいて、そのことを知らせずに侍らせておくなんてさ〜。あ、でもでも。もちろんルージュさまが、と〜っても可愛いからですよぉ」


「ラースは、いっぱい良くしてくれたの。だからいいでしょ」


 顔を背けて、ルージュは頬を膨らませる。その態度が、一層エリスを悦ばせるとは知らずに。


「そうかもしれないですけど〜。いくらルージュさまのお願いでも、流石にガリウス様には逆らえないですよぉ。私、失敗しちゃってるし。こいつのせいで」


 エリスは掌で、打ち付けるようにラースの額を小突いた。胸元に下げられた紅玉が揺れるのみで、彼が反応することはなかった。


「ちょっと!」


「あ、ごめんなさい、ルージュさまぁ。でもね、苦労したんですよぉ。い〜っぱい怒られて、大変だったんですから。そもそもね」


 エリスは姿勢を正して、大きくため息をついた。


「生贄にこいつが来たのがダメだったのよねぇ。と、いってもこの村には、結局若い子なんていなかったけど。……あれ、でも? こんな珍しい奴をガリウス様へ献上できるし、ルージュさまもとっても可愛くなったし。実は結構、良かったかも?」


 ん〜、と小首を傾げながら、エリスは深くもない思いを悩む。それが、ずっと眠っていたモノを着火させたと気づかぬまま。


「————お前か」

【次回予告】

仇、だと思った。

しかし、その言葉にラースは動揺する。


次回、「お前なんだな」

よろしくお願いします。

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