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第81話 絆だ

 下顎から伝わる感触と、金色の瞳。かけられた言葉に、ルルカラと呼ばれていた龍は動揺する。


 その場にいた娘たち——サフィーヤもソルシャも、そんな母の姿を見るのは初めてだった。彼女達の知る母は、陰鬱な姿しか見せていない。この洞窟の空気のように、澱んだ言葉しか聞いたことがなかった。


 その龍の精神の揺らぎは、睨みつけるリグがもたらしたものでも、ましてや、変貌を遂げつつあったルージュに影響されたものではない。ただ一言、ラースの口にした名前によって与えられたものだった。


『ねえ、あなたはヴェルスでしょう? そう呼んでいたよね』


「わ、私は、その名は、もう、棄てた——」


『そうなの? じゃあ、ルルカラって呼んだ方がいい?』


 反射的に、彼女は首を横に振っていた。その名を知る少年を、改めて凝視する。鎖の消失が起きたときから、彼女は意識することのなくなった名を棄てた。父由来だと聞かされていた名を棄てた。

 代わりに、娘たちに対して、自らの母の名を呼ばせた。『会合』にも出席しない彼女を、その名で呼ぶ者はすでに存在していなかったのだ。


「ねえヴェルス。僕はあなたにお願いがあってここへ来たんだよ。さっき話そうとしていたのはね」


 ソルシャに伝えたくて、ラースは人の言葉で語りかけた。躊躇なき攻撃を受けたばかりだというのに、記憶で見た幼い龍の印象が強く残り、彼は自分より小さな子供に接するときのように、穏やかな口調になっていた。


「ソルシャを助けてほしいんだ。ソルシャはあなたの役に立ちたいって頑張っているんだ。でも、あなたの他の娘みたいに強くないからって、他の人たちに狙われているんだよ。あなたから、話してもらえないかな」


「ソルシャ? 娘、たち?」


「うん。あなたの言葉なら、みんなきいてくれるよね?」


「————いらないわ」


 地を見つめ、呟きを漏らした。困惑は鎮まり、しかしそれが彼女を平静に戻したわけではなかった。ラースの言葉は、囚われていた現実を彼女に思い起こさせただけだ。


「かあさまっ! 私、かあさまのために、何ができますか! 私にできることなら、なんだってやりますから。お願いです!」


「いらない。娘の力は、もう、いらない」


 ソルシャの懇願も耳に入らぬ様子で、ヴェルスは頭を振り瞼を下ろす。ラースたちがここへ来る前までの、淀んだ感情がヴェルスの心を飲み込みつつあった。


「かあさまっ!」


「父上は、もう、いないもの……。私を棄てて……。もう、あのひとを、捜す必要もないもの……」


「ん? あなたはリグルヴェルダスに会いたいの、ヴェルス?」


「会いたい……でも、会ってくれない……会いたいのに……」


 答えながら、ヴェルスは後ずさる。悲しみも、寂しさも、虚無感も。全てを遮断してくれる闇に向かって。


「待って! リグルヴェルダスは、いるよ! いなくなったりしてないからね!」


「だから、なに……? 父上は……父上の中には、もう私はいないの……。だから、せめてあのひとを、ここで、感じていたい」


「そっか、あなたは、いなくなったって思っているんだね。でも違うよ。リグルヴェルダスは今も、あなたを見ている。僕が言うんだから、間違いないんだ」


「おまえ……が……?」


 動きを止め、ヴェルスはラースを見下ろす。半目に開いた瞳に、恨みの闇を湛えながら。見るものを呪いに堕とすかのような負の感情を、逸らすことなくラースは受け止めた。


「今のリグルヴェルダスなら、僕が一番よく知ってる」


 威圧されるよりも遥かに心寒からしめる視線に揺らぐことなく、彼は言い切った。


「だから。ねえ、聞いて、ヴェルス」


「愚か……なやつ。父上のことは、私が一番解る……。この鎖が、教えてくれるの……」


『鎖が? 馬鹿か?』


 金属音が洞窟に低く響いた。鎖の一端をリグが掴み上げていた。


『ラース、もういいだろ。こいつはルルカラではなかった。無駄足だった。オレが聞いていたルルカラが、こんな情けない奴であるはずがない。ただの魔素の鎖からも抜け出せないような奴が、な』


「な、なにを、なにを、おまえは……」


『でも、リグ、まだ話さないといけないことが』


『街のことか? オマエが望むなら、オレが手を貸すぞ。だから、戻るぞ』


 苛立ちを隠そうともせずに、吐き捨てるように言葉をぶつけた。


「離せっ! おまえ如きが、父上の鎖に触れるなっ!」


 ヴェルスは叫ぶ。堆積した汚泥を噴出させる海底泉のような勢いで、彼女は覚醒する。体を捩り、リグを振り払う。数少なくなった鎖が複雑に音を響かせた。


 手を離したリグを、刺の鱗に覆われた尻尾が襲う。暴風の鞭とでも表わせるようなその攻撃。最小限の動きで避けようとしたリグは、接触の寸前で表情を変える。


『ぐ……っ』


 鮮血が滴った。


 リグには見えていた。最接近の瞬間、その刹那のみ生成された魔力の刃。あまりの流麗さと瞬時の生成・消滅に、体が反応できなかった。


 鋭く、しかし深くはない傷だ。リグは命拾いしていた。数百年、このような行為をしていなかったヴェルスだ。本来の動きであれば、薄紙のように両断されていただろう。


「これは父上が残してくれた鎖だ! 私たちの絆だ! 軽々しく触るなっ!」


「やめて、ヴェルス! リグはそんなつもりじゃあ——」


「黙れっ!」


 咆哮とともに現れた石弾がラースを吹き飛ばした。その寸前、反射的にラースは胸を庇う。そこに眠る小さな蜥蜴を守るために。両手を犠牲にして、彼はそれを成していた。


 ヴェルスは荒く、荒く息を吐く。血が、魔素が身体中を駆け巡る。次第に彼女は活性化していった。それは頭脳においても。停滞した思考の海を揺らし、冷静に彼女は周囲を見回す。


 冷静さは、しかし彼女にとってプラスではなかった。現状を、改めて認識させられただけだった。こんなことをしても、どうにもならない、と。


「娘よ、私は眠る。こいつらを追い出しておきなさい。次の報告は、父上のものだった国を落としてからでいい」


「かしこまりました、母様」


 サフィーヤが頭を下げた。母が暗闇に退く間、姿勢を維持し続けたのち、闇とラースたちの間に立つ。


「待って! ねえ、聞いてよ、ヴェルス!」


「母様は、もう話しませんよ、ラース。やはり無駄でしたね」


「サフィーヤさん、僕まだ話したいことがあるんです。行かせてくださいっ」


 立ちはだかるサフィーヤに、その奥の闇に向かって叫んだ。


「ソルシャのことだけで良しとしなさい、ラース。それに、私はただの公爵夫人ではないのですよ。忘れていませんか? 私も、偉大な母様の娘なのですよ」


 小さく両腕を広げて、彼女はその場を封鎖する意思を見せた。怒りに喉を鳴らすリグと、訴求の瞳を向けるラースを牽制する。


「オマエに、できるとでも」


「ええ、母様が望むのであれば。私は母様を守る強靭な大地となりましょう。特に貴方は母様の大切なものを侮辱しました。母様の誇りである鎖をあのような物言いで穢すなど、許されざる行為です」


 静かに、彼女は術を紡ぐ。リグが唸りを高める。空間の力場が変位を始めていた。


「鎖が、誇り?」


 その幼い声が鈴の音のように浸透していく。乱れた空間に染み込み、その奥まで広がって行き渡る。


「鎖は、縛るものよ。逃げる人を、逃したくない人を縛るの。でも、本当に好きな人にはね、そんなのいらないの」


 ルージュはサフィーヤに反論していた。しかし、それを気にかけたのは母の方だ。


「ん? ルージュ?」


 体を密着させる彼女に腕を回しながら、ラースは闇からの視線に気づく。彼女の言葉に反応して、身を潜めたはずのヴェルスが、なおもこちらに注意を向けている。ラースにはそれが判った。


「ヴェルス! 会えないと思っているの! リグルヴェルダスが、あなたを棄てたと思っているなら、そんなことはないよ!」


 闇に向かってラースは叫ぶ。未練を纏わせた瞳での凝視が、痛いほどに彼を刺していた。


「聞いて! 僕の知っているリグルヴェルダスはね、たくさんの人を殺すようなすごい怖い奴なんだ。お話の中でもそうだったし、実際に会っても、そんな奴だったんだ。でも、あなたには違ったよね。あなたと話すリグルヴェルダスは、すごく優しそうで、嬉しそうで、あれは、本当に——」


「黙れぇぇぇーーーーっ!!!」


 咆哮と共に、洞窟が震えた。足音が重く響く。一歩一歩、握りしめるように爪を立て、岩肌を抉りながら龍は進む。怒りを、荒い息と共に撒き散らしながら。


 圧倒的な存在を再認識させられた。もとより、戦い自体成立するなどと思うのが烏滸がましい。大陸を分つ断層のごとき差が、龍と人の間には横たわっているのだから。


 それでも、ラースは一歩も引かなかった。彼は感じていなかったのだ。龍の憤怒の直撃を。


 彼女の怒りは、彼に向けられたものではなかった。睨みつけながらも視点は定まらずに、彷徨う。全身を覆う鱗の刺が細波のように揺れる。怒りを噴出させ、代わりに不安を内に留め、彼女はラースの眼前に鼻先を突きつけた。


「やはり私は、もう——」


 それだけを絞り出し、沈黙し、そしてヴェルスはゆっくりと口を開く。


「——お前を、消す!」


『ラースっ!』


 瞬時に察したリグが、叫びとともにヴェルスへ向かう。術が間に合わない。そう判断したリグは、ラースに体を当て——


 ゴッ!


 鈍い殴打の音が、先に響いた。ヴェルスの下顎を、負傷したラースの拳が打っていた。

次回で第14章完結となります。


【次回予告】

言葉が、瞳が、魔素が、彼女を思い出に浸らせる。

その姿に、心が引き込まれる。

そして、ヴェルスは前を向く。


次回、「そんなに甘いわけがない」

よろしくお願いします。

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