第80話【昔話】これは父上の
その18
ヴェルスの想像以上に、それは困難だった。母ルルカラの想定よりも遥かに複雑で、悪意を感じさせるものだった。
そこまでの精緻さが必要だ、と言われればそれまでだ。ヴェルスは挑み続けるしかなかった。
そうでなくとも。
父に認められたい。父のようになりたい。その憧憬が彼女を駆り立てていた。さらには、単純に。解法を求める、ということにも知的好奇心を喚起させられていた。
『凄い。こんなことが、できるなんて』
その道を極めた者の美術品を見ているかのようだった。自然の鉱石には出せない、人為的な物の美しさ。複雑に絡まる魔素の流れを鑑賞し、彼女は父の作品に酔いしれていた。
これを解体するなど、畏れ多い。そう感じながらも、彼女は解法を探り始める。
魔素を操作、生成・消滅させ、その結合を慎重に解きほぐす。全てを消滅・分解させればいいのではないか。最初、彼女はそう考え、実戦したのだが。
それほど単純なわけがなかった。不適切に消失された魔素は、別の箇所で再結合した。引きちぎるような、強引な魔素の操作も同様の結果となった。
その魔素は糸のよう。糸は複雑に絡まり、強靭な縄となっている。しかし、糸の一本一本はひどく脆い。摘めば崩れ去る古書のように、慎重に扱う必要があるものだった。操作を誤り崩れ去れば、新たな結合を起こし、それまでの解法が無駄となる。
緊張と集中を強いられる作業を、彼女は根気よく続けていた。彼女の気づかぬうちに、人の世が入れ替わるほどの時が過ぎる。
それでも徐々に、鎖はその数を減らしていた。ヴェルスは少しずつ自由を取り戻していた。一本の鎖を解く度に一息つくことができ、それを記念するかのように、その都度彼女は娘を産むことにしていた。
娘は、いっときの気晴らしであり、働き手だった。ヴェルスは、彼女のいる空間を娘たちに改造させた。
次に彼女の作業を中断させたのは、一人の男の訪問だった。
その19
一体、どうやってここへ来たのか。なぜここを知っていたのか。
そんなヴェルスの疑問は、男の言葉にたちまちのうちに氷解した。
「くはははっ。これなら、リグルヴェルダスの基準に達しているかぁ?」
半ばまで消失した拘束の鎖を確認し、男は腕を組んだまま豪快な笑い声をあげる。
「はじめまして、だな。リグルヴェルダスの娘——ぶっ、ははっ! 娘! 娘かぁ」
久方ぶりの父の名を耳にして、ヴェルスの心は踊る。
「あなたは、誰? 父上の知り合い? 人間、には思えないけれど……?」
「父上——くはっ! なんとも彼奴には似つかわしくない呼び名だなっ」
「ねえ?」
「ああ、すまんな。やることをやらないとなぁ。私はノスフェルという者だ。リグルヴェルダスとは旧知の仲、というやつだな」
見上げる男のフードがはだけた。日に焼けた、剛気そうな顔立ちが露わになる。壮健な体つきは一見屈強な戦士の印象を与えるものだが、ヴェルスにはその纏う異質な魔力場が視認できていた。それゆえ、ただの人間だとは到底思えなかった。
「父上の、知り合いなんですね! 父上は、父上はお元気ですか! 何をしているのですか!」
「ああ、変わらずだな、御主の父は。そう、彼奴が変わることなどあるまいよ」
「そう、よかった! ねえ、父上に伝えて! 私、もう少しだから、って。もう少しで、完全に解けるからって」
「その話は聞いているぞ。だが、それは自分で伝えるのだな。そのために私はここへ来たのだ」
ノスフェルは懐から指先ほどの小さな杖を取り出した。それを放ると、ヴェルスの足元の地面に刺さり、人の身長ほどに成長した。
「これは、何?」
杖の端部に嵌められた宝石が、疑問を浮かべるヴェルスの表情を写す。
「参加者の証だ。これはな、龍たちの『会合』に使われるものだ。『会合』が開催されるとき、各地に棲まう龍たちを結ぶのだよ。御主の期待に沿って説明するなら、『会合』の時、御主はこれを通じてリグルヴェルダスと会うことができる、ということだ」
「会えるのっ!? 父上と。本当に!? ねえ、その『会合』って、いつなのっ」
「その時が来れば、杖が教えてくれる。だが、一つ。リグルヴェルダスからの伝言だ」
「なに? 父上はなんと言っていたのですかっ?」
杖を、次いでノスフェルを凝視し、彼女は頭を寄せた。高揚した心が抑えきれなかった。ノスフェルに掌で制されても、彼女は引かなかった。
呆れるほどの喰いつきに辟易しながらも、ノスフェルはそれを告げた。彼女には歓迎されないだろう内容を。
「ああ、彼奴はな、『会合』の場では自分の娘だと公言するな、と言っていたぞ」
「……え? そ、そう……なの? どうして?」
「いや、わかるだろうよ」
ノスフェルは厚みのある両肩を竦めた。
「……ううん。そう、わかったわ。『会合』では言わない。あ、『会合』って、母上、ルルカラもいるのですか?」
「無論だな。『会合』には全ての龍が集うわけではないが、世の龍の中でも高位の存在が属するものだ。『聖母龍』が外れるわけなかろうよ」
「そう、そうよね! 嬉しい。母上にも会えるのね!」
「ま、そうだなぁ。では、知らせを待つのだな」
それを最後に、ノスフェルはその場から消えた。
再び独りになると、ヴェルスは杖に顔を寄せて、両親を想った。
その20
待ち望んだその日、ヴェルスは落胆することとなった。『会合』にリグルヴェルダスが姿を現わさなかったからだ。
両親以外の龍を知らないヴェルスにとって、『会合』に参加していた龍たちの話は興味深いものだった。彼らが何をしているかを聞くことで、彼女の世界は広がった。
それでも、彼女の第一は、リグルヴェルダスだったのだ。母の姿は認められた。しかし彼女は自重し、挨拶以上の深追いはしなかった。
次の『会合』もリグルヴェルダスはいなかった。その次も現れなかった。その次も。その次も。
我慢できずにヴェルスは発言していた。リグルヴェルダスは、なぜ参加しないのか、と。
返ってきたのは嘲笑と冷淡な言葉。あるいは義憤。ヴェルスの望むものはなかった。
『彼は滅多に姿を見せないわ。彼が来るのは大きな流れが生じた時だけ。興味に値しない『会合』に参加することはないのです。ただ、彼も一員であることには変わりないですから、いずれ現れるでしょう』
見かねたルルカラは新参者に、他の皆にとってはわかりきった説明をする。それはヴェルスにとって絶望であり、希望だった。
ヴェルスは、待つ時間が増えた。杖に縋り、次の『会合』を、そこで父に会うことを夢想しながら眠る。鎖の解除は遅々として進まなくなっていった。
それでも彼女は、父の課題を放り投げたわけではなかった。ただ、集中を奪われていた。『会合』の周期は短く、鎖の解除に没入することで、万が一にも不参加になることは避けねばならなかった。
しかし、リグルヴェルダスは現れない。百度『会合』を重ねても、二百度重ねても。会えない程に、父への想いは募る。
あるとき、ヴェルスは娘たちに命令を下した。リグルヴェルダスを捜せ、と。その頃には、地上の砂漠には国が造られていた。彼女の娘たちを中心とした王国が、そこにはあった。
鎖に囚われ動けぬヴェルスだったが、術と特性の行使は可能だった。《解析》と《再構成》によって力をつけていた娘たちは、パートナーを伴って世界中へ散っていった。
声が聞きたい。姿を目にしたい。せめて、言伝でもいい——
そんな繋がりを彼女は欲していた。娘に命じる一方で、『会合』にはかかさず出席した。
状況は、停滞していた。停滞は、ヴェルスの心にも及ぶ。かつての母の言葉が、次第に彼女に重くのしかかる。
『興味に値しない』
それは『会合』に対しての言葉だったのだが、いつしか彼女は自らのことと捉え始める。鬱屈とした心は、光射さぬまま暗く彼女を縛っていた。
(どうして父上は来てくれないの? どうして会ってくれないの? もう、課題は解けかけているの。父上が見てくれたら。もっと頑張れるの。もうすぐなの。父上が来てくれたら。父上と会えたら。すぐにでも解けるの。もうすぐなの。父上が来てくれたら——)
思考が堂々巡りしていた。無限の螺旋階段を降りるかのように、徐々に、深みへと。この地中よりも昏く、終わりなき負の感情が彼女を蝕んでいった。
そんな彼女の精神を踏みとどまらせたのは、娘からの報告だった。一向に進展のなかった探索。それまでもリグルヴェルダスの動向を捉えたことは幾度となくあった。しかし、接触には至っていなかったのだ。今回は、確実にその居処を掴んだ。
とある王国の、とある森林。人の世では、すでに伝説の邪龍と畏れられていたリグルヴェルダスは、そこに長く居ついていた。
数百年ぶりに、ヴェルスは色めき立った。心躍り、胸が高なった。すぐにでもこの鎖を引きちぎり、自らが向かいたかった。しかし、解除を怠っていた彼女には無理なことだった。
リグルヴェルダスに接触を試みた娘は、戻ってこなかった。ヴェルスは各地に散らばった他の娘達を呼び戻し、彼の地へ向かわせた。しかし、その後の報告にヴェルスのもとへ現れる娘はいない。
再びの疑念が湧き上がる頃、ようやく報告すべき事柄を携え、戻った娘がいた。
『二度と俺を探るな』
短かく、決定的な伝言。それを耳にし、ヴェルスの牙がかちかちと鳴った。全身が震えた。やがて、そんな力も失せ。見開いた双眸を静かに閉じ、体を丸める。彼女の刻は完全に動きを止めた。
容赦のない事実が、そんな彼女を動かしたのは、百年余りのちのことだった。
『会合』にも参加せず、ただ杖を抱くように眠る彼女の体は、いまだに鎖に囚われていた。その鎖が、彼女の介入なしに変化し始める。
『……な……に……? え……?』
淀んだ意識は最初、それを明確には認識できなかった。
『くさ、り……消え……? う……そ……。嘘っ!?』
魔素の散逸が見てとれた。鎖を構成する複雑な繋がりが、自壊しつつあった。
『いやっ! 駄目! これは、これは父上のっ!!!』
咄嗟に、ヴェルスは自らの魔素を操る。消えつつある鎖に纏わせ、補強し、その崩壊を防ぐ。当初、真剣に鎖の解法を求めていたことが活きていた。父の鎖と同じ要領で、彼女はそれを維持することができた。
『どうして……』
鎖が保持されたことに安堵し、呟く。しかし彼女はすぐに理解した。鎖を構成する魔素が消えたのだ。要因は二つしか考えられなかった。術者たるリグルヴェルダスが消えた。あるいは、消した。
——消した。
——消された。
——不要なものだから。
——見放された。
『あ、あ、あああああああああーーーーーーっ!!!』
絶叫が、洞窟を揺るがした。
彼女は、ただ会いたかったのだ。会いたかった。一瞬でも、会いたかった。もう一度、触れてほしかった。声をかけてほしかった。褒めて、ほしかった。
リグルヴェルダスは、かの地からいなくなった。
娘からのその報告は、ごく最近のことだ。
ヴェルスに残されたのは、未完了の課題。縋るのは、かろうじて維持した鎖のみ。彼女の想いは集約していく。
もっと、もっと父を感じていたい。せめて、父の遺したものを、この手に——
長かったこの昔話も、ようやく完結となりました。
次回は73話の続きになります。
かなり間があいてしまいましたので、
「73話 こんな感じだよ」
を読み返していただくと嬉しいです。
【次回予告】
ラースにその名を呼ばれ、ヴェルスは動揺する。
しかし、彼女の想いは変わらない。
悲しみを覆い隠し、怒りに身を任せる。
次回、「絆だ」
よろしくお願いします。




