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第56話 消えたのだろう?

 羽毛の山に身を投げたような柔らかな寝心地。『施術』を行ったカロスケイロスの部屋のベットに寝かされて、しかしラースにはその贅沢な感触を味わうことはできなかった。


 魔素欠乏による意識の乖離。


 それが今の彼の状態だった。それ自体は、放っておいても自然と回復する類の症状だ。その期間は別にしても。


『ラースよ。それほどまでに私の術を使ってくれたのだな』


 そう話す声は、ラースには遥か遠くで発生している単なる音の連続でしかなかった。覗き込む龍の姿は、森の中で霧越しに見ているようだった。


 龍神の名をラースは口にした。いや、しようとした。その意思は体には届かない。感謝を伝えたかったのに、ただ、想うことしかできなかった。


『案ずるな。今宵は私がお前を癒そう』


『施術』を受ける時よりも大きな姿をとって、その長い胴で彼を包む。卵を温める蛇のように寄り添う。そうして、ラースに注ぎ込む。過度の刺激を与えない様に、ゆっくりと満たしてゆく。


 少しずつ、五感が取り戻されていった。宙に浮かんでいるような、それでいてしっかりと支えられているような。そんな力をラースは感じた。清浄な空気と透き通るような青。肌をくすぐる柔らかな(たてがみ)と潤んだ鱗。それらが認識されつつあった。


『あり、がと……カロス……』


 朝日が差す頃、ラースはようやく感謝を言葉にすることができていた。


『まだよ。まだ休みなさい』


『僕、役に、立てなかった……。せっかく、カロスの力で——』


『十分だ。お前は、砦を守った。気に病むことはないわ』


『でも、助けられなかった、人もいて……。悔しくって……怖くて……』


 意思の通うようになった体を震わせながら、ラースは言葉をつまらせた。


『聞きなさい、ラース。お前がそう想っているだけでも、救われている者もいるのよ。お前は、全てを出し尽くして助けようとしたのだろう。こんなになるまで。後悔は、その身を全て捧げなかった者の言い訳よ。お前は、そうではないでしょう』


『うん……』


『哀悼は忘れてはならない。だが、それだけに心奪われないで。お前のお陰で助かった者もいるのだから。その者のために、嬉びなさい』


『うん。カロスは……、カロスも嬉しい?』


『もちろんよ。砦も、この国の者も皆、私の信徒。お前に助けられたのだから。そしてラース。お前が私にとってどんな存在か、今更口にするまでもないだろう?』


 少しだけ、カロスケイロスは力を込めた。包み込んだラースの体を拘束するというよりは、自らの身体を押しつけるかのように。


 龍には分かっていた。それがラースの癒しになると。だから誘った。ゆっくりとラースの体から離れ、ベッドに肢体を横たえる。


 ラースもそれに応えた。幾分大きな姿となった龍に手を這わせ、その鱗をなぞる。豊かな(たてがみ)を撫であげる。すでに知り尽くした体、感触。彼は没入していった。


「主よ。我らを産みし主よ——」


 自然と祈りの言葉が漏れ出た。癒しのための術。その祈りは、カロスケイロスのためのものだ。『施術』を行いながら、ラースは心を捧げる。


『——ん? んひゃっ!?』


「我らを育みし主よ やがて還る(よすが)よ——」


『ら、らぁっ、それ……は——』


 悦びに身を委ねながら、カロスケイロスは動揺していた。彼女自身への祈り。癒しのための祈り。《恵みの水》は傷の治癒を、心の平穏をもたらすものだ。


 数多くの祈りが小さな力を集積させ、その一部を癒しの力へと変換する。自らが構築したシステムによる癒しの術を自身が受けること。カロスケイロスはそれを永年体験していなかった。


ラースの祈りは続く。祈りは結びの言葉で完結する。


「——《恵みの水》」


 穏やかな口調だった。数多の信徒たちの規範となる、神子にふさわしい信仰の含蓄を感じさせる響きだった。


 蓄積された力と術者の魔素を源に、それは生成される。癒しのための水が、彼の両手からカロスケイロスの体に浸透する。


『らぁ、す、これ、ああ……っ……』


『施術』による過剰な心地よさはそのままに、感情が整えられてゆく。快楽に任せて暴れ回る心は、それゆえに無意識に『施術』をわずかに拒んでいた。その心を《癒しの水》によって均され、カロスケイロスは初めてラースのもたらす全てを受け入れていた。


『これ、こん、な……ぁ……』


「主よ——」


 再び始まった祈りを、カロスケイロスは無垢な赤子のようにその身に浴びる。それは悠久の彼方に経験した記憶の再臨。


 そして二度目の結びの言葉。癒しの水を受けたときに、カロスケイロスは癒しとは異なるものの存在に気づく。


『ああ——、この、感じわぁ……。あなた……なの……ヴェル——』


 癒しと共に流れ込んでくる魔素は、既知の、彼女の渇望していたものだった。


 信じられない思いが、抗い難い感情を振り切ってカロスケイロスを動かした。ラースの手を逃れ、ベッドの端へ身を引く。


『カロス?』


 不思議そうに呟くラースと、互いに困惑した視線が混じり合った。無言の時を経て、それを逸らしたのはラースの方だった。空いた両手を見つめ、わずかに体を震わせ、ラースはおもむろに距離を縮める。


 カロスケイロスへと体を被せた。枕を抱えるように、その龍身に抱きついた。


『ら、ラース、何を——』


『カロス……僕……。僕、帰りたい。リグやルージュに会いたいんだ』


 頭を擦り付けて懇願するラースの震えが伝わった。


『ああ、砦では辛い目に合わせてしまったな。だが、ここでは心配する必要はない』


『うん……。でも、もう帰りたいんだ。また『施術』をしてあげるから。ねえ、帰らせて。お願い、カロス』


『それはできない。お前を、あんな危険な場所へは行かせない』


『どうして? 僕はただみんなに——。え? 危険……って?』


 ラースは顔を上げてカロスケイロスを伺った。視線を受け止めて、龍は沈黙ののちに短く息を漏らす。


『——リグルヴェルダスが消えたのだろう?』


『リグルヴェルダス? なんで?』


 唐突に邪龍の名が挙がることが、ラースには理解できなかった。


『私はな、あの地に彼が来て以来、ずっと見ていた。あの部屋にあるような、遠見のできる術でリグルヴェルダスの動向を伺っていたのだ。それこそ一挙手一投足な』


『え? ずっと見てた、の? あ、でも。神様だから……?』


『もっとも、すぐに感づかれて結界を張られてしまったがな。だが私は! その結界の外側から見ていたのだ!』


 ラースには理解できない理由で、力を込めてカロスケイロスは吐露した。しかし、その表情はすぐに落胆に変わる。


『あるとき、かの結界が消えていることに気がついた。私は森へ向かった。しかし、すでにリグルヴェルダスの姿はなかった。彼の気配は消えてしまっていたのだ!』


『あ、そっか。カロスはあの時、来ていたんだね』


『ん? なんだそれは? 何故知ったようなことを言う?』


『え、あ、あの、僕は、リグルヴェルダスに会っていて』


 ラースはたどたどしく説明した。生贄のこと。リグルヴェルダスが居なくなったこと。リグに会ったこと。その中に、若返りの術のことは含まれていなかった。カロスにならいいか。そうラースは思ったのだが、言葉に出せなかったのだ。


『——だから、リグルヴェルダスは森からいなくなっただけなんだ。まだ生きているんだよ。』


『そうか。だが、かの地にいないのであれば同じこと。そしてリグは。やはり彼の忘れ形見——いや。彼の子という——』


 自ら口にしながらも、カロスケイロスは頭を強く振る。即座に否定する。


『違う! いや、そうではない! 誰だ! 誰なんだ、ラースよ!』


『な、なんのこと!?』


『彼は誰と子を成した!! そんな事に関心のある奴ではなかった筈だ! 聞いていないのか、ラース! 一体誰がそんな誉高き恩寵を受けたというのだっ!!!』


『落ち着いてよ、カロス。そんな事、僕知らないよ』


 喰いつかんばかりにラースに迫っていたカロスケイロスは、鼻先に手を添えられて我に返る。伸びきった体を所在無げに縮めて、ベッドの隅へ伏した。


『……あ、ああ。そうね。忘れなさい』


『うん、そっか。わかったよ、カロス』


 小さく咳払いする龍に、顔が綻んだ。決してカロスケイロスが意図したことではなかったが。


『だけど、どうしてリグルヴェルダスが関係あるの?』


『かっ、関係などっ——。あ、いや』


 再び取り乱しかけた心を、今度は自制し、続ける。


『関係はあるわ。何故なら。お前の暮らす国、ラフマーヌ王国はリグルヴェルダスの支配下にあったからよ』


『えっ!? そんなの、聞いたことないよ? 森にリグルヴェルダスが住んでいる、っていうことはみんな知っているけど』


『表立ってはいない。けれど、少なくとも我々はそう認識しているのよ。彼のモノである国に手を出せばどうなるか。皆わかっていること。だから——ラースよ。お前の国は戦争など何十年もなく平和だっただろう?』


 戦争、という言葉にラースは身震いした。砦での戦いが想起された。助けることのできなかった司祭たちの顔が思い出されて、彼の表情が(かげ)る。


『じゃ、じゃあ、リグルヴェルダスがいたから、平和だったっていうの?』


『そうね。結果的には、彼の功績ということになるわ。そのリグルヴェルダスがいなくなった。それが知れ渡ればどうなるか、お前にもわかるだろう?』


『戦争になるってこと? 他の国が攻めてくるの?』


『すぐ、というわけではないと思うわ。ただ、いずれは。長い平和の間にも、有事への備えを怠っていないのであればいい。お前の国はどうかしらね』


 先とは違って感情の揺れが見えない言葉に、ラースは茫然としてしまった。国の状況など知るはずもなかった。考えたこともなかった。彼はずっと村とその周辺という狭い世界に生きていたのだから。


『だ……だったら、やっぱり、すぐ帰らないと。みんなに知らせないとダメじゃないか』


『皆? 皆、とは誰だ? お前に国への伝手でもあるのか? 帰っても無駄だろう。それにな、ラース。お前の村だが、今となってはそこも十分に危険なのだ。私はお前を心配しているのだぞ』


『それは嬉しいです。けど。——あ!』


 不意にラースは声をあげた。自分がしたことを思い出し、体が熱くなる。


『ダメっ! すぐに帰らないと! ダメなんだ。僕言っちゃったんだ。冒険者に。リグルヴェルダスはもういないって。それをみんなに伝えて、って! だから!』


『すでに知られている、ということか。それなら動くわね、色々と。一体どこまで——』


『カロス! お願いだよ!』


 ラースは両手をついて迫った。カロスケイロスは答えない。ただアイスブルーの瞳は、明確に否定の視線を送っていた。


『ねえ、どうして! 僕は行かないといけないんだよ。僕のせいで戦争になっちゃうかもしれないんでしょ。だったら! ねえ!』


『お前の身が、危険だからだ。リグルヴェルダスの件なら、お前が気に病むことはないわ。いずれは知られること。他の者たちも気付くわ』


『でもっ! 僕が、できるのに……』


 そっと手を伸ばして、ラースはカロスケイロスに触れた。


『私を、籠絡する気か? 今の私は揺るがない』


 冷静な言葉に、ラースが返したのは祈りだった。『施術』と共に捧げられる祈りの言葉。受け入れることを拒絶したカロスケイロスは、確かに『施術』に抗っていた。しかし、同時に与えられた《恵みの水》には。


 すでに感じ取ってしまっていた。先の同じ状況のときに。《恵みの水》も還元すれば魔素である。祈りにより集積されたものと、術者自身のもの。ラース由来の魔素に混ざるものに、カロスケイロスは酔いしれていた。


『ねえ、カロス。僕、いつだって『施術』をしてあげるよ。とっても感謝しているんだ。怪我を治してくれて、こんな癒しも術も使わせてくれて。嬉しいんだ。だから、カロスにもいっぱい気持ちよくなって欲しい。でもね、今だけは。お願い、僕を帰らせて』


 一転穏やかに語りかけるラースの言葉に、カロスケイロスは別の存在が思い起こされていた。


『帰る? 本当に……?』


 どこか遠くを、ここではない彼方を。潤んだ瞳で見通しながら不安を呟く。焦がれ、追い求めるその存在の幻影が、今のカロスケイロスにはラースと重なって見えていた。


『うん。それで、ちゃんと戻ってくるよ。カロスが望むなら』


『うそ……。嘘よ……。貴方は、だって、そう言ったきり——』


『大丈夫。カロスならいつでも会えるよね』


 もう一度、ラースは龍身を抱きしめた。先とは違って、彼の方が安心を与えるように。そうして、首を撫でながら顔をすり寄せる。


『……わかった、わ。言う通りに、私は——』


 もう抵抗しなかった。カロスケイロスは温かさに再び身を委ねた。

第10章開始となりました。

【次回予告】

久しぶりに村へ帰ってきたラース。

領主の長子スクリトと会い、

自分のすべきことを知る。


次回、「大好きだよ」

よろしくお願いします。

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