第53話 これは術などではない
降り注ぐ雨は、たちまち豪雨へと成長していた。砦を覆い尽くす大火を鎮めうる水量は、只の雨では到底足りない。今や雨は天からの瀑布となって砦を癒していた。
「炎が消されていく? なぜ突然このような豪雨が?」
黒翼に重みを感じながら、アギラが訝る。地上の戦況が伺い難くなるほどの豪雨に眉をひそめた。
「さっさと俺を喚べ、アギラ!」
《梔子の匣》から苛つく声が届く。
「何を焦っているのですか? 狼煙を上げることは叶わなくなりましたが、最早流れは見えています。あなたの出番は——」
「気づかんのか! 貴様には聞こえなかったか! この雨を喚んだ者が分からんか!」
「雨を? 魔術師がいたと言うのですか、私の気づかぬうちに?」
「魔術師ではない。神官の祈りでもない。これは、術などではない。ただの言葉だ。俺と同じ、龍の言葉だ!」
手にした匣の振動を、アギラは感じた。それは怒りに震えているようだった。顎に片手を添えて、彼は新たな可能性を探る。
「先の咆哮、ですか。私には意味はわかりませんが、あれが雨をもたらしたということですか」
「そうではない。言っただろうが、ただの言葉だと。問題は、その言葉に応えた者がいる、ということだ。————アギラっ!」
強い叫びに、彼は天を見上げた。打ちつける雨に混じって、迫るものに気づく。
「なっ!」
それを認識したときには手遅れだった。襲いかかる水の槍を、躱せるタイミングではなかった。しかし——
闇が、アギラを守る。《梔子の匣》から伸展した闇が、彼の意思とは無関係に彼をガードしていた。水により造られた槍は飛散し、雨に紛れる。
「……マジか。あれ、防ぐんだ」
アギラを凌ぐ高度に、甲殻の少年の姿があった。遡上する魚のように、水壁のごとき豪雨を足がかりに少年は空中にとどまっていた。
「誰です? 見かけませんでしたが」
「——《水龍の槍》」
問いかけには応えずに、オケアスは再び水撃を放つ。それは同じように闇の掌によって防がれる。
「う〜ん、駄目だなぁ。あんなお守りがいるのか」
「くくっ! 言われているぞ、アギラ。さっさと喚べ!」
「静かにしてもらえませんか? 今、考えを——」
攻撃に晒されながらも、アギラは平静のまま瞳を閉じる。それは自分を守る者の力を信頼している故の行為だった。信頼しているのは、その力だけであったが。
「いや、もう我慢できんな」
グッ、グゥゥ……ッ! グ、グオオオオオオオオーーーーーーーーーーッッッ!!!
咆哮が轟き、闇が膨張した。
《梔子の匣》から伸びていたアギラを守る闇の掌。それが成長し、腕となり、頭部となり、翼を形成する。
オオオオオーーーーッッッ!!!
闇色の龍が再び咆吼をあげた。術者を介さずに強引に顕現し、幾らかの自由を得る。その半身は、未だ匣に囚われたままだったが、半身のみでも戦場を覆い尽くすに十分な巨体が、砦の上空を占めていた。
「む、想像よりも窮屈だ。が、まあいい。貴様、この国の眷属だな」
喉を鳴らしながら、龍はオケアスを見下ろした。夜よりも深い闇色の塊が、小さな甲殻の少年を威圧していた。
「そうだね。で、キミは?」
恐れを見せずにオケアスは返す。
「俺か? 俺の名はグリオラレクス。黒龍帝が一族の直系だ。覚えておくがいい。近日貴様らの主となるのだからな」
「……へぇ。随分と大物が来たね。ただの先兵の割には」
黒龍とアギラの各々を新たな水龍の槍が襲った。グリオラレクスは両手で易々とそれを掴み、砕く。そして、戦いを中断していた兵士たちに漆黒の掌を向ける。
「先兵? そうだな。この砦を堕とし、街を蹂躙し。そのまま王都まで。俺一人で十分だ。だが先ずは——蝕め【混泥行路】!」
黒龍の術が、その掌から拡散した。
兵士たちはグリオラレクスの大気を震わす叫びに、空を見上げ竦んでいた。闇に溶け込むその姿は本来、見ることは叶わない筈だった。しかし、降り続く豪雨を遮ることで、龍の巨体は影のようにその存在を露わにしていた。
兵士の足元が揺れた。
砦の根幹が波打っていた。今や雨は砦の全域をほぼ鎮火せしめたが、それは同時に闇に包まれることを意味する。目前の敵や足元すらも視認し難くなったなかで、彼らは闇と化した地面に重いブーツが沈み込みつつある感覚にとらわれる。
それは彼らと戦う魔物たちも同様だった。空を舞う甲虫以外は皆、底無し沼に踏み込んだかのように体を沈み込ませていた。自由と思われた甲虫は、激しさを増す雨に羽をとられ、思うように動けてはいない。
グリオラレクスの放った術の被害は、砦そのものに及んでいた。教会や宿舎、その他の建造物全てが揺れ動き、傾き、その土台から闇に侵食されつつあった。
(黒い、龍……)
ラースは寝転んだままその姿を見ていた。対峙する本来の姿のオケアスと黒翼の男をぼんやりと視界に収めていた。もっとも、輪郭すら定かではなかったが。
(オケアスを助けなきゃ……。僕はまだ、祈ることはできる……)
ゆっくりとラースは癒しの祈りを口に出した。いつでも発動できるようにと。そうすること以外に、彼にできることはなかった。混乱する兵士たちの叫びも、自身を呼ぶ声も、体を打つ滝のような雨の冷たさも、ほとんど認識できていない。
ラースは自身が闇に溶かされていくことも、知覚できない。地に伏す彼は真っ先に全身を飲み込まれていた。暗視でも見通せない闇に覆われて初めて、彼は異変に気づく。
(え? あ、あ、あ、あああああーーーーっ!)
闇という原始的な恐怖。暗視を得てから感じることのなかった感情に、ラースは動かぬ体を震わせていた。祈りの言葉を叫び散らした。それが実際に発せられたかも彼には分からない。
意識だけを辛うじて保っていた。感覚が遮断され、残った自己だけが闇に漂っているようだった。黒龍の術だけではない。ラース自身が癒しの術を酷使した結果でもあった。
(い、いやだ、怖い、怖い、助けて、リグ、カロス、助けて!)
何も感じることのできない闇に、気が狂いそうだった。自分を保つために、懸命に龍たちの姿を思い浮かべる。
(もう、いやだ、暗いのも、ひとりも、いやだ……助けて、ルージュ、一緒に、ルージュ……)
自分に好意を向けてくれる、心温まる笑顔にすがる。
時間の感覚がないまま、必死に願う。祈る。繰り返す。そうして自分を繋ぎ止めてくれる存在を想う。
上空ではオケアスが敵を引きつけ、時間を稼いでいた。その変化が訪れるまで、黒龍を相手に耐え忍んでいた。
そして、その存在は現れた。
ラースの体が、闇から掬い上げられる。彼の背中が、魔素によって生み出された力場に支えられる。それは闇の海と化し全てを飲み込みつつあった大地から、彼を浮上せしめた。
「よくがんばったぞ、ラースよ」
ラースははっきりと聞き取ることができなかった。フード付きのローブを纏った小さな背中も、今の彼にはほとんど見ることができない。助けられた今も、彼は闇の中で怯えたままだ。
「——【亀甲の礎】」
その術が大地の揺れを止めた。闇の術を退け、固化し、大地を本来のものへと戻す。兵士たちもまた、各々の足元が力場に支えられていることに気づく。
「しばし、待つのじゃ。すぐに片付けてくるからの」
待って。
そう声を出すことも、手を伸ばすこともラースにはできなかった。白い姿が闇空に飛んで行く様を見ることはできなかった。
「貴様、俺の術を!」
「——【亀甲の壁】!」
黒龍グリオラレクスのブレスを、六角錐の障壁が弾く。新たな敵の出現に龍は喉を鳴らした。
「デバコス! 遅い! 見てただろ!」
「無論。随分とやられたようじゃな、オケアスよ」
「荒事は、俺の仕事じゃないし。専門家に任せたいね」
そう答えるオケアスの体は無数の傷に覆われていた。黒龍の攻撃によって甲殻のあちこちには亀裂がはしり、軽い口調のほどには余裕がある様子ではなかった。
「貴様も、眷属か? その姿、見た目通りではあるまい」
「見た目通りじゃが? 儂はこれでも同族の中では若輩にすぎんのでな。それでも、お前よりは十分年長じゃ。敬えよ、黒龍帝の小僧」
「そのナリで、言うかっ!」
グリオラレクスが苛立ち混じりに叫んだ。咆哮がデバコスのフードを吹き飛ばし、ローブをはだけさせた。その下には、尊大な笑みを浮かべた少女の顔。
「ああ。このほうが、信徒の受けが良いのでな」
「ふざけるなっ!」
「受けは大事じゃぞ、小僧。お前が帝となり国を治めるならな」
「この俺に説教か? 調子に乗るなよ。貴様ごとき俺の闇が飲み込んでくれよう!」
嘲りのない、デバコスの正直な言葉。それが心を乱す。
「——グリオラ!」
アギラが低く抑えた声で黒龍に注意を促す。彼らの周囲、雨から形作られた槍が、その鋒を向けて取り囲んでいた。
「とっておきさ。——【水龍の槍・瀑】!」
「ぬぅっ!」
槍が一斉に黒龍を襲った。全方向からの攻撃。一度きりではない。第二陣、三陣と続く。その源たる豪雨がある限り。
「デバコス、今だ! あの匣だ!」
オケアスは見ていた。黒龍の術が兵士とともに魔物を飲み込もうとしていた時。アギラが慌てて魔物たちを還していたのを。魔物たちが別の闇に包まれ、《梔子の匣》へと吸い込まれていく様を。
黒龍がその匣から現れたのをすでに目にしていたオケアスは、それが召送に関わるものだと明確に理解していた。
「の、ようじゃな。——【亀甲の縛】!」
小さな掌から、水流が迸った。水流は縄となり、《梔子の匣》をアギラの腕ごと捕らえる。複雑に編み込まれた封となって、匣を閉ざす。
「なっ! おい、アギラっ!」
「これは……っ。ぐ、ああああぁっっっ!!」
黒龍は初めて動揺を見せた。戸惑う二人を、オケアスの水槍が襲う。腕だけでなく、今や全身を拘束されていたアギラは、黒龍の守りを得られず、まともにその攻撃を受ける。
「術者の力量か、その匣の限界か、いずれにしろ助かったの」
「ああ、お前の力のせいかもね。強すぎるのも不便だねぇ」
「貴様ら! この俺の邪魔を——」
黒龍の姿が揺らぐ。その存在が匣からの闇に包まれ、わずかな隙間から匣の中へと吸い込まれる。
「覚えておけ。次は俺が、直接、貴様らを——」
黒龍の声が遮られた。デバコスの縛が匣の姿を隠すほどに強固に覆い尽くす。そして、黒龍グリオラレクスの唸りも、気配も完全に消える。後には、匣とともに縛られ瀕死となった黒翼の魔族だけが残された。
「あ〜あ、こんなことになるとはねぇ。ラースくんって持ってないのかな。……それって神子としてどうだろね」
「今はいいじゃろ。それより、ラースを連れて戻れ、オケアス。《水門》もなんとか無事じゃ」
「分かったよ。で、こいつはどうするんだい?」
網目様に縛られ、蓑虫のように固定されて動くことのなくなったアギラを見下ろす。
「儂が少しの間、預かる。この匣のこととか聞きたいしの」
「その匣、危険だね。《水門》と似た術かも。そっちの方はデバコスが専門だし、任せるけど。砦の方はどうしたものかね」
「大丈夫、すべて引き受けよう。再臨した、この『奇跡の聖女』にお任せじゃ!」
金髪の少女の姿で、デバコスは笑った。
砦の戦いは終結となりました。
次回は、ラースがいない間の、
大森林でのリグの話となります。
【次回予告】
大森林にやってきた金龍の兄弟。
傍若無人に振舞う彼らは、くつろぐリグと衝突する。
次回、「俺の配下にしてやるよ」
よろしくお願いします。




