第5話 オマエ、すごいな
言葉と体の自由を取り戻したラースは、それでもリグルヴェルダスに触れたまま茫然としていた。周囲の変化は目に入っていないようだった。
リグルヴェルダスの手は蛍光を発していた。光は粒になり、蒸気のように鱗の表面から次々と発散していく。それらはそのまま消えてしまうわけではなかった。光はリグルヴェルダスを離れ、ラースへと吸い込まれていく。そしてラースの身体に触れると、雪のように溶けて消滅する。そんな光の流れが両者を繋いでいた。
「何が見える?」
その声にラースの意識はようやく反応する。
空が見えていた。
流れる大気を、纏わりつく湿気を感じていた。
眼下に、城砦が見えていた。
自らを狙う巨弩が見えていた。
咆哮が。雷轟が。瓦礫を。
足元に集う冒険者達。
斬撃と、魔法と。
血肉。雨。
同族達と戯れていた。
何気ない会話。
思考の果て。
「うああああああぁぁぁぁっっっ!」
耐えきれずにラースは叫んだ。
処理しきれない情報が流れ込んでくる。幻影のようで、しかし、それだけではない。音も、匂いも。まるでその場にいるかのように、感覚全てがそれを受容していた。相応の高度な処理能力があれば、それらを正しく識別し、認識し、体験できただろう。ラースには、人間には到底叶わぬことではあった。
「その光は俺の『時間』だ。お前が俺の『時』を変換し、吸収しているのだ。俺自身が辿ってきた時が見えるだろう?」
答える余裕などなかった。今や光の粒は洞窟の壁面のあらゆる方向から発生し、波となってラースを襲っていた。情報の奔流は処理されず、混沌とした、それだけでは無意味な塊として蓄積されていた。
「あっ、ああっ……いぎぃぃぃぃぃっ!」
痛みが性質を変えた。頭の中の、精神を苛む様な痛みから、肉体を傷つける物理的な痛みへと。それが、悪夢に漂っていたようなラースの意識を現実へと引き戻す。
「いっ、ひいっ! 僕の、うで、こわれてる……ぃやだぁっ! いたいいたいいたいぃっ!」
「まあ、そうなるな」
リグルヴェルダスの手を掴んでいたラースの腕は表面から崩壊していた。風化した岩石のように、砂となって崩れつつあった。ラースは気付いていなかったが、脚も体も全てが同様に時に侵食されていた。
「だが、すぐには死なせん」
天井の岩壁から大きな雫が染み出し、ラースを赤く染めた。すると損壊した身体が再生を始める。巻き戻るかのように再構築されていく。
「あ、あ、治って……、い、いやっ、また、こわ……れ……いぃぃぃぃっっ!」
とめどなく流れ込む光が、ラースを壊す。幾度も再生し、壊れ。その平衡状態をリグルヴェルダスがコントロールする。
「いいぞ。想定通りだ。あとはーー」
「うあああああああああ〜〜〜〜っっ!!」
永遠に続くかのような痛み。身体と精神を破壊され、ラースの意識は途切れた。
彼が最後に認識できたのは、自らの絶叫。
龍の咆哮。
暖かな日差しの中、ラースは厩舎から出てきておもいっきり体を伸ばした。
「うん。今日もいい天気。みんなも元気そうだね」
眼前に広がる牧草地を満足気に見渡す。今は放牧の時間。羊たちは群れで固まって草を喰んでいる。多くの鶏たちもまた鶏舎から放たれ地面を啄んでいた。
朝の一通りの仕事を終えて目にする、いつもと変わらない光景に自然と笑みが溢れる。
ふと、群れから離れた一頭の羊が彼の目に留まった。
「キミ、大丈夫?」
頭を下げてはいるが、草を食べているわけではなかった。
近づいて、ラースはその首筋を撫でる。柔らかな皮膚の感覚が伝わる。東方の平原には、厚く被毛された採毛用の品種が生息しているが、この牧場の羊は違う。ストレートで短い毛並み。その下の皮膚、筋肉の具合、体温。それらを感じ取って、ラースは診断する。
ぽんぽんと後脚の付け根辺りを叩くと、心得たもので、羊は膝を折ってその場に伏せた。
「ちょっと、ごめんね」
お腹の下にそっと手を差し入れて、感触を確かめる。指先にわずかに感じる違和感。
ラースは医術を知っているわけではない。ただ毎日、何年も彼らと触れ合い過ごしてきた時間が、羊たちの体調を教えていた。
「うん、でもこれくらいなら大丈夫だね。ちょっと疲れ——うわぁっ」
ぐいっ、と背中を押された。振り返ると一頭の羊が頭を押し付けていた。さらには他の羊たちも。いつの間にかラースを中心に羊たちが集まっていた。
「えっと。君たちは元気、だよね。だから、順番だよ」
押し返すように頭を撫でる。垂れた耳の根本辺りを掻いてやると、ぷるぷると耳をふるわせて喜ぶ。そして先の羊と同じように膝を折った。さらには体を半身によじって、だらけた猫のようにお腹を晒した。
周りの羊たちの期待のこもった視線を感じる。人とは違う横長の瞳孔に囲まれると、慣れない者は恐怖を感じるという。ラースにとっては日常にすぎない。こうやって世話をすることも。
診察とは違う。気分良くなってもらうための技術。より元気になってもらうための手技だ。家畜を看る医師は、それを『施術』というものだ、と彼に話していた。
ただ撫でるだけではない。摩り、掻き、揉み上げ、圧迫する。どこをどう刺激すればいいか、ラースは幼い頃からの経験で分かっていた。
一頭一頭と体を横たえ『施術』を待つ。終わったものは皆、蕩けていた。
こうして羊たちが昼のまどろみを迎えるのが、変わらぬ日々の出来事だった。
その日がくるまでは。
撫でられていた羊が、せわしなく耳を動かす。ラースの掌に緊張が伝わる。周りの羊たちは立ち上がり、最後にこの羊が手を跳ねのけて立ち上がった。
「何? みんなどうしたの?」
ラースもまた立ち上がって、羊たちが注意を向けている方向を凝視した。
牧場の柵の遥か先、向けられた悪意にラースはまだ気付くことができなかった——
——ん……う、ん……。
ラースは意識を取り戻し、ゆっくりと瞼を開いた。頭の中がはっきりすると、すぐに上半身を起こして身体を確認する。損傷も痛みもない。それ以上に。
僕のままだ。
そう安堵した。自分が消えてしまうような感覚が、先程まではあったのだ。
(生きてる。平気だ。帰れるんだ)
手をついて立ち上がろうとするその指先に、硬くも柔らかい物が触れた。
そこには眠りについた小さなドラゴンがいた。仔犬程の胴体に長めの首。それらを合わせたよりも長い尻尾。背には鉤爪のついた皮翼。先程までのラースと同様に身体を横たえていたのは、サイズを除けば、物語で知るドラゴンの姿そのもの。その生き物は、彼にとって今は物語以上によく知った存在になっていた。
リグルヴェルダスだ。
確信があった。ただ、若返ると言っていた龍が、ここまで小さくなってしまったことに彼は驚いていた。
ラースはそっとお腹に触れる。赤ん坊のように高い体温。鱗の感触もすべすべとして心地いい。いつのまにか夢中になって撫で回していた。
(そういえば、いつもはこうして世話してたっけ)
首筋に指を這わせた。ほとんど片手で掴めてしまいそうな頸の付根を握り、圧力をかける。
——く、きゅうぅっ
血液の流れと、筋肉の反発を感じながら、柔らかく解すように繰り返す。
安心して。力を抜いてね。
穏やかに声をかけながら、首を撫でる。硬く握られた拳をふんわりと包むと、ゆっくりと小さな四指が華開く。先にラースに突きつけられた指先は、変わらぬ鋭い鉤爪を有していた。
少しずつ、ラースは集中を深める。自分の状態も、周囲の状況も、掌から伝わる感覚の中に消えてゆく。それだけが今の彼に必要なものだった。
龍の背中側の鱗はより硬く、岩のようにざらついていた。内部に光源でもあるかのように、鱗の隙間からは燐光が漏れていた。背筋に沿っては、小さな角状の突起が尻尾の先まで並ぶ。
その両脇を摘むように刺激すると、
んぁっ……、ぅぅっ……
堪えきれずに、首と背中を小さく仰け反らせた。折り畳まれた翼が半開きになり、数回、空を打つ。
翼は繊細な、かつ力強い部分だ。それまでは柔らかな鶏の羽根しか知らなかったが、今は違う。皮翼を支える盛り上がった背中に負荷がかかることを、彼は理解している。
だから、ここも。
『——も、もう、ヤメ……。————!!!』
びくん、と長い尻尾が強く地面を打った。頸や翼と同じだ。支えとなる根元の部分を霍してやることで、緊張もまた和らぐ。
当人にとっては未知の感覚だった。だが嫌ではない。暴れてしまうのも反射的なものだ。それがわかっているから、ラースはそのまま尻尾を手繰り寄せて続ける。
半ばまで揉み進める頃には大人しくなり、剣先のように鋭い先端まで終わる頃には、蕩けていた。
幼龍の体を隅々まで、ある意味蹂躙し尽くしてから、ラースは我に返った。
うわぁ、と声が漏れる程の惨状だった。投げ出した手足は力なく弛緩し、尻尾はひくひくと痙攣していた。小さいながらも鋭い牙の並ぶ口は半開きになり、長い舌がこぼれ出す。あちこちから、出してはいけないような液体が地面を濡らしていた。
(なんか、ごめんね)
顎の下、喉にあたる部分にやんわりと手を当てる。そこは最も繊細で、大切な場所だ。なぜ大切なのか、彼は忘れてしまったけれども。
深い息遣いが次第に静かになり、代わりにくるるるる、と喉を震わせる音が聞こえた。
羊たちと変わりないな。
素直な感想が漏れた。恐ろしかった巨龍と今の姿が結びつかない。穏やかに自らを受け入れている小さな龍を見ていると、ラースには今までのことも幻のように思えてくる。
でも、もうそろそろ。と手を離し、ぽんぽんと頭に近い首筋を軽く叩いた。
誘惑を振り切って、小龍は目を覚ました。頭だけを上げて、周囲を見回す。ラースの姿を認めると、大きく瞳を見開いた。
『——オ、オマエ、すごいな。オレ、あんなの初めてだぞっ』
無邪気にはしゃぐ子供のような声。高い音域の唸り声は、そう聞こえた。人とは異なる言葉が理解できることを、ラースは不思議だとは思わなかった。当然だ。彼が人として生き、人の言葉を話してきたよりも遥かに長い時間、それを使ってきたのだから。
『ところで、ここ何処だ? オレはこんな場所に来た覚えは——。それにオマエは?』
『あ、あの……、リグルヴェルダス? あなたは——』
『ん? ちがうぞ。オレの名はリグ』




