第47話 こんなに気持ちいいことなんだ
橋の一本もない湖中の神殿は、船によって往来が成されていた。デバコス達眷属を除けば塔に常駐する司祭は極わずかで、定例の礼拝に合わせて物資が送られていた。船はさほど大きなものではなく、塔自体もその吹き抜け部分は広い空間ではない。それゆえ、希望者は多いものの、定例の礼拝に参加できる者は、一回あたり精々百人にも満たなかった。
憧れの聖地である。にもかかわらず参加できる者は少ない。そこで起きた事には過大な尾ひれがついた。前回のことも。これから起こることも。
「最初に、我々は懺悔しなければなりません。己の無知を恥じ、省みなければなりません」
幸運にも今回参加することが叶った者達に対して、司祭長ディアナステアは、冒頭にそう切り出した。
「すでに聞き及んでいる者もいるかと思います。前回現れた人物のことを。彼は——、彼は我らが神が遣わし神子。我らが神は、そう告げました。皆にも紹介します」
ざわめきの残る中で、塔よりラースが歩み出てきた。ゆっくりと、正式な法衣を揺らし
ながら。それはこの場の神像と同じ姿の、龍の刺繍が全身に成されたものだ。まるで彼の体を包み込むように、守るように。見る者に、そう思わせる意匠だった。
「僕の名は、ラースといいます。僕はこの場の皆に、この国全てに、我らが神の祝福をもたらす為、選ばれました。これより我らが神の恵みを与えます」
短かな宣言を、彼は淀みなく表した。この時までに何度も練習させられた。歩き方も、言葉も、抑揚も。そして術も。
————これから貴方に一つの術を教えます。これは、この国の者であれば子供でも使えるものです。
数日前のことだった。そう前置きして、ディアナステアはカロスケイロスへの祈りの言葉を口にした。祈りに応じて、彼女の掌に、包み込める位の大きさの水球が生まれた。
それはラースの傷を癒したものに似ていた。癒しの力を持つ《恵みの水》というものだ。その効果の程は、信徒たちには信仰の深さに依るものとされていた。
日々の生活の中で祈りを捧げる者達は、小さな水球を生成し、感謝とともに飲み干す。あるいはその身に浴びる。彼等の《恵みの水》には傷を治すほどの効果はない。気持ちを落ち着かせ、幸福感を与える程度のものに過ぎなかった。
そんな程度とはいえ、人々は実際に神の存在を感じ、恩恵を感じる。それが人々を惹きつけ、さらなる祈りの言葉を、力ある言葉の発露をもたらしていた。そうなるように、カロスケイロスは導いていた。
「さあ、皆も一緒に」
ラースは教えられた言葉を紡いだ。
「——主よ 我らを産みし主よ」
礼拝に集まった者たちがそれに続く。
「我らを育みし主よ
やがて還る縁よ
我は主の恵みを求める子
全ての刻を共に在り
全ての心を御身に捧ぐ
カロスケイロス
生生流転の龍の神よ
今その一雫を我らに分け与え給え」
信徒たちは水を掬うような形に掌を広げ、結びの祈りを紡ぐ。
「——《恵みの水》」
そこに小さな水球が現れる。信徒たちは龍の神の恵みたるその水を、感謝を込めて飲み干しす。
ラースも同様に掌を広げていた。祈りの進行と共に水球が生成され、彼は両手を頭上にかざす。
彼の祈りの言葉はそこで終わらない。
「我は与える者
雫は川となり 天へ昇り 再臨する
我は主の息吹
雫は命となり 恵みを湛え 降り注ぐ
我は仮初の龍
天地を結び 主の威光を届けん」
水球は成長を続けていた。ラースの手を離れて上昇しながら。拳大だったものは彼の頭より大きくなり。ひと抱えにできない程に膨れ上がり。やがてカロスケイロスの神像よりも高く昇る頃には、この吹き抜けを覆い尽くすほどの巨大な塊となっていた。
「——《慈雨》!」
彼の言葉と共に、水球が弾けた。濡れたことをほとんど認識できないほどの細かな水滴に分散し、中庭に雨となって降り注いだ。雨は集まった信徒を、見守る司祭たちを等しく濡らす。その体内に浸透し、実効ある癒しと心の平穏を与える。
おお……。
あちこちで嘆息が聞こえた。誰もが目にしたことのない規模の《恵みの水》に。それを分け与える《慈雨》に。その効果に。全ての者が龍の神の力を感じ、神子としてのラースの力を認めていた。
「神子さま、ありがとう」
礼拝の儀式が一通り終了したのちに、小さな少女がラースの元に駆け寄ってきた。その後ろから、母親が慌てて追いかけてくる。
最初の術の披露以降、神像の傍らで見守るだけだったラースは、しゃがんだ姿勢で少女と視線を合わせて、優しく頭を撫でた。
「どういたしまして。君はちゃんとお祈りできた?」
「うん! いっぱい神様にお祈りしたよ。あとね、神子さまにも。だってすごかったんだもん。あったかくなってね、うれしくなったの!」
「それはよかったね。これはみんなカロ——神様の力なんだよ。みんなを癒してくれる、龍の神様の力なんだ」
「すごいね。昨日すりむいたところもね、治っちゃったの! 私もね、神子さまみたいになりたいなぁ」
「なれるよ、いっぱいお祈りしたらね。神様は優しいから。ちゃんと応えてくれるよ」
袖をまくって傷があったはずの箇所を見せる少女に、ラースは少し戸惑う。しかしそれはすぐに喜びに変わった。カロスケイロスの力とはいえ、自分が傷を癒すことができたという事実に。
「それでね、神子さま。私、お願いがあるの」
「ちょっと、やめなさい!」
少女の言葉に、母親が慌てて頭を下げる。
「神子様、申し訳ありません。うちの子が失礼をいたしました」
「い、いえ。大丈夫です。僕にできることなら。言ってみて」
「あのね、パパにもお祈りして欲しいの。パパはね、ずっと遠くに行っちゃって、ずっと帰ってこないの。一回お手紙が届いただけ。パパは兵士なの。怪我もしちゃうの。だから神子さまがお祈りしてくれたらいいなって。パパが怪我しちゃったら、私みたいに治して欲しいの」
「兵士……。うん、わかったよ。ちゃんとお祈りするからね」
笑顔を絶やさずに、ラースは再び少女の頭を撫でて立ち上がった。母親に顔を向けると、彼女は申し訳なさそうに頷く。
「あのひとは、この子の父親は東の国境警備に就いているのです。しばらく前にそこへ配置替えになりまして。危険な場所らしいので一緒に行くわけにもいかずに、この子には寂しい思いをさせてしまっています」
「ジブルタの砦ですね」
ディアナステアが言葉を挟んだ。信徒たちの対応をしながらも、ラースのやりとりを気にかけていた彼女が確認する。
「そうです、司祭長様。先日、大きな戦いもあったようで。あの人は無事らしいのですが、いつ戻れるともわからないのです」
「痛み入ります。我々も現地の者と共に尽力させていただきます。ですので、どうか我らの神の御加護をお祈りください」
「ありがとうございます。司祭長様。本日はこの場に来ることができて、本当に良かったです。この子も少し元気が出ました。神子様のおかげです」
母親は再び深々と頭を下げ、手を振る少女を連れて二人から離れて塔に向かって行った。塔の一階部分は開放されており、信徒達が見学できるようになっている。礼拝を終えた彼らは、そこに置かれた祭器や、神龍にまつわる絵画、説話等の展示物に心を寄せるのだ。
そんな彼等に声をかけながら、ラースとディアナステアは、信徒も常駐の司祭たちも立ち入ることの許されない中層階へ戻った。
「あまり長く話すとボロが出ますよ」
司令室。そう彼等が呼ぶ部屋に戻ってようやく、ディアナステアはラースを嗜めた。それはラースが一夜を明かし、中庭へと落下し、カロスケイロスの眷属たちと話した部屋のことだった。
「う、でも。なんかうれしくって。僕にあんなふうに言ってくれるなんてさ」
「まあいいでしょう。とりあえずは、よくやりました。問題はありません。司祭たちも納得したようですし」
あまり歓迎したような口調ではなかったが、彼女なりの賛辞だった。
「凄かったぞラースよ。流石は我が主が最も愛する者じゃのう」
「うんうん。アレ程の《恵みの水》を見たらさぁ。誰もが認めるよ」
「そ、そうだよね。上手くできたよね。最初はすっごく緊張したけど。カロスの術ってすごいね。僕でも誰かを癒せるなんてさ」
デバコス達の言葉に、ラースはとても気分が良かった。高揚していた。弾む心のままにディアナステアに問うていた。
「そうだ、さっきの——ええと、なんかの砦って?」
「ジブルタ砦。南方の魔大陸と呼ばれる大陸との間に、ジブルタという海峡があります。その海峡を越えて侵入してくる魔族達を阻むための砦です」
「——ああ、ほら。あれだよラースくん」
オケアスが触角だけを動かして、その先端で壁面の絵画を指し示す。そこには高い外壁と固定式の弩を備えた砦の外観があった。塔から見下ろしたように俯瞰で表されたその姿を、ラースは覗き込む。
「これ? この絵が砦——えっ?」
目を瞬かせた。じっくりと見つめ、ラースはオケアスの方を振り返る。
「人が、動いている? これ——」
「ああ、絵画ではないぞラースよ。これは実際の砦の様子じゃ。この場から今の砦の様子を見ることができる、窓のような物だと思えばいい」
「見えるの? 離れた場所を? これもカロスがやっているの?」
「もちろんだよラースくん。ここにある絵画に見えるものは、みな国中の重要な場所を映しているのさ」
二人の言葉に、ラースは壁に架けられた額縁を順に眺めた。改めて見ると、それぞれ確かに変化している。人の姿がなくとも、風による草木の揺らめきが、これが単なる絵ではないことを証明していた。
「隣のはジブルタ砦の近くの街。あっちはこの国の王城。それにその城内。向こうの街は——」
「ね、ねえ。ここは? ここは何?」
一つ一つ説明を続けるオケアスを遮って、ラースは一つの映像を指差す。
食い入るように顔を近づけたその映像は、それまでの建築物が中心のものとは違っていた。広々とした草原と、そこで草を食む生き物を映していた。
「それは奉仕場ね。神殿に属する者達が運営する牧場です。映っているのは、主要な収入源となる採毛用の羊たちよ」
「羊! あれが!? ……そっかぁ。絵で見たことはあるけど、あれがそうなんだ」
採毛用というだけあって、その全身はもこもこの厚い毛に覆われていた。村の牧場にいた羊とは随分と外見が異なっていた。しかし、草原の陽の光のもとで同じように群れて過ごすその様子からは、ラースはかつての実家の牧場を思い出さずにはいられなかった。
「……行ってみたいなぁ」
自然と、そう洩らしていた。映像にそっと寄せる手には、石壁の感触しかない。
「どちらに? 砦ですか? 牧場ですか?」
「え、えっと。どっちも、かなぁ」
「神子として行くのであれば問題ありません」
平板に、ディアナステアは答えた。司祭というよりも、忠実で優秀な事務官が、その専門分野を上司に説明するかのような物言いだった。
「認めたくありませんが、貴方の力は素晴らしいものですから。慰問によって神子としての立ち振る舞いが身につけば良しとしましょう。ただ、どちらも遠いですよ」
「遠い、ってどれくらいかかるんですか?」
「砦であれば、馬車で一ヶ月以上はかかりますね。なにしろ、南東部の国境ですから」
「一ヶ月!? そ、そんなには僕ここにいられないよ! もう何日もここにいるし、家に帰らないと」
「何を言っているのですか? 貴方は神子となったのです、ラース。いえ、あえて神子様と呼びましょうか。我が神が認めた神子様を、他国に出せるわけがないでしょう」
「そんな! そんなの、だって僕は」
「脅しちゃダメだよ、司祭長様ぁ」
のんびりとした口調で、オケアスが割って入った。
「それに試すようなこともさ。ラースくん、砦に行くのにそんなに時間はかからないよ。あっという間さ。それに君のその後のことは、我が主次第だよ。そうだろ、司祭長様?」
ディアナステアはぐっと唇を噛み締めた。反発をこめた視線を送る。だが、すぐに彼女は瞼を閉じ、整理する。一時的な感情に流されることはある。それでも最後には、彼女は冷静に判断を下すのだ。
「そうね。《水門》を使えば時間はかからない。神子様であれば使用に問題もないでしょう。ですが、行く以上は。貴方は神子なのです。我が神を穢さぬよう振舞いなさい」
「もちろんだよ。だって、さっき僕はすごく嬉しかったんだ。今まで『施術』でみんなを気持ちよくすることはできていたけど。こんなことは知らなかった。あの場にいた人たちを癒すことができて。感謝されて。こんなに気持ちいいことなんだって、初めて思ったんだ。僕にできるなら、もっとたくさんの人を癒したいって思ったんだから」
「いい心がけです」
そう返しながらも彼女は、ラースをこの国へ留めるべきだという思いを、一層強く固めた。
次回で、第8章完結となります。
場面はリグ&ルージュの方になります。
【次回予告】
村に残ったリグとルージュはラースの過去を知る。
そして一つの決意をする。
一方、不在のラースを訪ねる者が現れる。
——邪龍の影響は、未だ残る。
次回、「安心できる場所」
よろしくお願いします。




