第46話 不本意ながら思いついてしまいました
その部屋は、簡素で無機質だった。壁には額縁に入った多くの絵画が飾られてはいたが、それはラースの目を引くような、わかりやすい印象を与えるものではなかった。
中央には白い布のかけられた大きなテーブルがあり、茶器が用意されていた。それ以外には正面の小さな窓と、壁際に机がいくつか。ラースにとっては縁遠い、事務作業を行う執務室のようであった。
「上手くできたなぁ……」
自ら注いだお茶を含みながら、ラースの頬が緩む。お茶の温かさが、彼の感情と相まって体に染み渡っていた。
「カロスも喜んでくれたし。どっちかって言うと、今の方がいい感じかも。目が覚めたら、またお礼しないと。それで、もっと『施術』をしてあげて。もっと喜んでもらうんだ」
小さな、見たこともないお菓子を頬張りながら、決心する。それらのお菓子も彼のために調達された供物だった。
やり切った満足と、甘いお菓子と温かな飲み物。それらはラースを眠りへと誘う。『施術』の集中が切れ、心が緩む。背もたれに体を預けて、彼はうとうとと頭を揺らし始めていた。
「——う、ん——。ここ、は……」
目覚めと共に、ラースは一瞬混乱した。が、すぐに思い至る。昨夜の幸せな出来事を。ここがどこであるかを。
小さな窓の外は、すでに明るかった。飲みかけのカップはそのままに、体を支えていた椅子から立ち上がって、体を伸ばす。
「夢じゃ、ないよね」
両の拳を何度も握り、その感覚を確かめ、彼は安堵した。
「そういえばカロスは——?」
部屋を見回すも、自分以外の姿はない。だが、どこか違和感があった。その正体に気づくよりも先に、彼は外部からの声に気を取られた。
声は窓の外から響いていた。何を言っているのかは不明瞭。反響した音が小窓——といっても壁面をくり抜いただけのものであったが——を通じて室内に届いていた。
ラースは椅子を持って行って、自分の身長よりも高い位置にある窓から外を覗いてみた。
最初、見えたのは同じような壁面だった。ここは塔の内側。塔の外形は円であったが、その中心部は多角形型の吹き抜けになっている。真上から見れば内径が多角形のドーナツ型の造りをしていることがよく分かるだろう。彼は中心を挟んで、反対側の内壁を見ていた。
ラースがいたのは塔の中層辺りだ。地階には多くの人が集まっている。その人々の祈りの声が内壁に反響し、上昇気流のように吹き上がっていたのだ。
「あの人たちって……。やっぱり、ここは神殿なんだ」
跪き、祈りを捧げる信徒の姿。その先に大きな石像があった。長く、うねり、天を目指して昇る龍の神像。その視線は人々を導くように、見守るように大地を射す。
「あれって、やっぱりカロスかなぁ」
そう呟きながら、ラースはもっとよく見ようと身を乗り出す。小窓の縁に手を掛け、頭を突き出し——
「えっ?」
自然と声が漏れた。体のバランスが崩れる。堅固な建材を感じるはずの手が、空を掴んむ。前屈みになっていた上半身が石壁を突き破り——
いや、石壁、に見せていた幻影をすり抜けた。ばたつかせた両足が、踏み台の椅子を蹴り飛ばした。次の瞬間には、ラースの体は吹き抜けになった塔の中空へ投げ出されていた。
「うわああああああ〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
遥か遠い地階へと向けて、彼は落ちて行った。刹那に全身の血液が逆巻く。空中で叫びながら両手両足をめちゃくちゃに動かし、指先に触れたものを懸命に掴んだ。
「んぎゃっっ!!」
潰れた悲鳴が漏れた。地面への激突は免れたが、それでも彼の身長の倍は落下し、その衝撃を全身に受けていた。
彼を助けたのは、カロスケイロスの神像だった。
「ああ。ありがとう、カロス。助かったよ」
大きく息を吐いて、そう感謝していた。未だ心臓が早鐘を打つように激しく鼓動してはいたが、呼吸と共に落ち着きを取り戻し始める。
「貴様、何をしているっ!」
そんな彼に、足下から怒りの叫びが響いた。そこでようやく、ラースはこの現状に意識を向けることができた。
部屋の中から見たように、そこには多くの信徒がいた。彼らの信奉する神の像に跨りしがみつく少年を、混乱と怒りと不快に顔を歪めながら見上げていた。
「さっさと降りてこい! 不敬者がっ!」
「ご、ごめんなさいっ! すぐ降りますからっ!」
螺旋状の体を模した像を滑るように伝い、ラースは地階へ降り立った。
すぐに複数が彼を取り囲む。揃いの淡い水色のローブを身に纏った司祭たちだ。
「貴様、何者だ! 神殿に忍び込み、あまつさえ我らが神を穢すとは!」
「なんたる不敬。子供の悪戯では済まんぞ」
「儀式を乱すとは、貴様は何を教わってきた」
「お前は——もしや、この国の者ではないな」
「遠慮はいらん。このまま我らが神の贄とすべきだ」
「ち、ちょっとまってください! お祈りを邪魔してしまってごめんなさい。でも、僕そんなつもりじゃ——」
ラースの言葉を遮って、フードを被った小さな司祭が眼前に立った。彼を取り囲む人垣をすり抜けて迫ったその人物は、無言のまま拳を突き出す。
「う、うわぁっ!」
咄嗟に飛び退いたラースを追って駆けた。ローブをはためかせながら、鋭い蹴りが、拳が、立て続けに繰り出される。
「やめてくださいっ!」
「んっ!」
後退しながら全てを避け続けるラースに、襲撃者は舌打ちと共に、纏ったローブを剥ぎ取った。ラースの眼前にそれを晒して視界を遮り、獣の脚力で跳ぶ。
ラースの頭上を放物線を描いて飛び越える。その軌跡を豊かな尻尾がなぞる。音もなく背後に降り立ち、無防備な背中を蹴り飛ばした。
漂うローブに包まれるように、ラースは前のめりに体勢を崩した。が、そこで踏みとどまる。振り返る彼の眼前に、すでに相手の姿は無かった。
足が払われた。相手は死角に潜り込むように屈み込んで、ラースの両足を刈っていた。ローブが地に着く前に、勝敗は決していた。
倒されたラースの体はうつ伏せにされ、舞い落ちたローブを使って後ろ手に拘束された。
「ディアさま〜、やりましたよ〜!」
なんとか首を巡らすと、ラースの目には背中に座り込み、笑顔で手を振る少女の姿が映った。その頭には獣の耳が揺れていて、非難の声を上げようとしたラースは、物珍しそうに注目してしまっていた。
「ん? あれ? キミさぁ、あの御方の匂いがするなぁ」
目を閉じ、ふんふんと鼻を鳴らして、少女はその出所を突き止める。
「うひゃぁっ!?」
思わず上ずった声が漏れた。拘束されたラースの手を、温かな舌が這っていた。
「……うん、うん。やっぱり、あの御方がいる時の。匂いだぁ」
「ちょっと!? 止めてくださいっ!」
ご馳走にでもしゃぶりつくように、うっとりとした表情で舐め続ける少女にラースの抗議は届かない。
「ああっ。いたんだ。いたんだぁ。ずるいぞぉ……」
「止めなさい。はしたないですよ」
夢見心地の少女を目醒めさせたのは、柔らかく響く女性の声だった。理知的に見える切れ長の瞳。整った顔立ちに微かに笑みをたたえて、少女の頭に手を当てた。
年の頃は20代半ば辺りだろう。落ち着いた雰囲気を纏わせたその女性は、他の司祭たちと同じようなローブを身につけながらも、その胸の位置には、他には無い大きな龍の紋章が刺繍されていた。
「あっ、ディアさま。こいつ間違いないよ。侵入者。それもあの御方のところに」
「そうですか。貴方が言うのであれば間違いないですね」
ラースを見下ろす目は、不浄な生物でも見るかのように細められる。
「我らが神を穢す者に赦しはありません。このまま湖へと捧げます」
「えっ、もう? 私もう少し味わいたいなぁ」
「それは許しません。我らが神の居に侵入し、似姿を穢し、我らの祈りを害した。救いはありません」
「待って! 邪魔したことは謝りますから! ちょっと待ってよ!」
ラースは声を張り上げた。力ずくで拘束を解くこともできそうだったが、彼はそうしなかった。
「何か弁明でも?」
「僕は連れて来てもらっただけなんです。僕はカロスに怪我を治してもらって、それで『施術』をしただけなんです。本当なんです。カロスにきいてもらえば——」
だん、と女性の掌が地面を打った。ラースの顔のすぐ側を掠める。
「その御名は、気安く口にするものではありません!」
「で、でも。カロスがそう呼べって。それに、僕悪いことはしてないです。カロスには気持ちよくなってもらっただけで。今だって、きっとあのベッドで寝てるんだと思います」
ざり、と擦れる音がラースの耳元で鳴った。それが、女性の指が石造りの床を削る音だとは、ラースは思いもしなかった。
「……我が神を……気持ちよく……? ベッドで? 何をした、と……?」
覆いかぶさるように女性はラースに顔を近づけた。肩のやや下で切りそろえられた髪が流れる。それはヴェールのように女性の表情を周囲から隠した。カロスケイロスの鬣と同じ色のそれに囲まれ、ラースはあの部屋にいるように思——う余裕はなかった。
心臓を鷲掴みにされたような痛みに、ラースは震えた。彼に近づいてきた時の柔和な表情は、女性にはかけらも残っていなかった。背中にのしかかる少女の怯えまでもが伝わる。
「あ、あの、僕……。本当にカ——神様にはよくしてもらって。神様もずっと待ってた、って言ってたから。だから、僕頑張って、気持ちよくなってもらおうって」
「ずっと? 待って……? ……あっ!」
女性の表情が固まった。その瞳はラースを捉えることなく、焦点をぼやかしていた。
「貴方……もしや、ラース、という者ですか?」
「そ、そう。そうです。僕、ラースっていいます」
「そう、ですか」
独り彼女は理解した。直後の大きなため息は、納得はしていないことを示していた。
「申し訳ありませんが、もう少しだけこのままでお願いします」
その口調には、諦めが混じっていたものの、厳しさは消えていた。司祭としての、人を導く者の表情に、彼女は戻っていた。
ラースは先程の司祭の女性ディアナステアに連れられて塔の部屋に戻っていた。そこは彼が夜を明かし、塔の中庭へ落下する前にいた部屋だった。
「どういうつもりですか、デバコス」
「おお、おお。ダメじゃぞラース。勝手に出歩いては。皆が驚いてしまうわい」
彼女の詰問には向き合わず、大亀は優しくラースに語りかけただけだった。
部屋の長机についていたのは、司祭長ディアナステア、大亀デバコス、甲殻の少年オケアス。それにラースと、その目の前に体を晒すカロスケイロスだった。
「だって、あそこの壁をすり抜けるなんて思わなかったし。カロスの像が無かったら死んじゃうところだったんだよ。なんでこんなふうになっているの?」
自分は被害者、と言いたげにラースは不満を漏らした。実際これに関しては彼は被害者で間違いないのだが。
「悪いね、ラースくん。言ってなかったよ。この部屋はさぁ、我らが主の像の真上だからね。ここから姿を見せれば、いい演出だと思わない?」
悪びれもせずオケアスは説明した。
「つまり、貴方の不手際ということですか、オケアス」
「そんなことないと思うけどさぁ。結局大事にはならなかっただろ、司祭長サマ」
「十分、大事になりましたが?」
怒りを抑え込んだ声だった。自ら処分する、そう言って彼女はあの場からラースを連れ出していたのだ。心穏やかに祈りを。最高司祭の残してきた言葉は、混乱した場に落ち着きを与える、ゆったりとした、慈愛を含んだものだった。今この場での発言とは違って。
「ま、今後ここから出ずに、姿を見られなければ問題ないじゃろ」
「そ〜そ〜。それでいいじゃん。なっ、気をつけろよ、ラースくん」
「あ、はい……」
なんだか納得できずに、目の前のカロスケイロスの鬣を撫でた。頭から尻尾の先まで続くそれを、指を立てて梳った。小さな両腕を尻尾側に畳んで、顎を机上にぺたりとつけて、彼らの神はされるがままだ。
「そういう問題ではありません。たとえ我が神が彼を御許しになろうと、それを伝えねば司祭達や皆が納得しません。彼等の目に見える処罰を示さねばならないでしょう」
『僕が、罰を受けなきゃいけないの?』
『ああ……っ。お前は、罪深いぞ……。だが、いいっ。これも、いい……っ。安らぐ……ん』
『カロスが言ってくれたらいいのにね』
『わたし、わぁ……でるわけにわ……。あとわ、らぁ……ベッドで————』
「おお、そうじゃそうじゃ。ラースよ、早うお連れせねば」
龍語での会話に、大亀デバコスが割って入った。目を瞑って、漂う音を触覚で拾っていたオケアスも頷く。
この場にいる者達は皆、主たるカロスケイロスの言葉を理解していた。ただ話すことができるのはカロスケイロスとラースのみであった。
「待ちなさい! 話はまだ終わっていません! それにラース。貴方は我が神から離れなさい!」
両手で机を叩いて、ディアナステアは立ち上がった。
「実際に目にして理解しました。我が神が貴方を望んでいた理由を。貴方を我が神の側へおくことは許しません」
「なんでですか? カロスだってこんなに気持ち良くなってくれているのに。僕は、カロスにいっぱいお返しをしたいんです。僕を助けてくれたんだから」
「貴方は危険です。まるで我が神を堕とす悪魔——いえ、言葉が過ぎました。ですが、我が神を惑わすことに変わりありません。このような御姿をお見せになることなど、これまでなかったことです。正直、危惧しています」
「そんな、大袈裟ですよ。これは『施術』といって、ただ気持ちよくなってもらうためのもので」
「そうじゃそうじゃ」
ヒレ状の前脚を振り回して、デバコスは抗議した。浮かび上がって、ラースを守るようにその頭に乗った。いや、彼の腕の中のカロスケイロスをよく見るためだったかもしれないが。
「協力者の立場で、言い過ぎぞ。我が主が取り込まれることなどあろうものか。それにラースのことも。此奴は我が主を最も理解し、尽くす者ぞ。悪魔どころか、我が主に最も近しい神徒じゃ」
「うんうん。心配なのはわかるけどさあ。問題ないって。大体さぁ、カロスケイロス様が——」
「私は!」
だん、と再び机を叩いた。両肩が震えていた。彼等を見ることなく、彼女は自らの手に視線を落としていた。そして、彼等の言葉に一つの考えが浮かぶ。思いを巡らせ、心を落ち着かせて司祭長は顔を上げた。
「我が神よ。不本意ながら思いついてしまいました」
その声は、幼き子供に向けて行う説法のように穏やかで、王宮で演説する時のように確固たる意思を帯びていた。
「全てをありのままに話しましょう。彼は、ラースは神子として紹介します。我が神の望むままに、その敬虔な第一の使徒として、我らが龍神が遣わした、と」
呆けたままのカロスケイロスは、一瞬その双眸に光を纏わせて、そのままラースの腕に頭を押しつける。一言、
「いいわ」
とだけ承認して。
【次回予告】
ラースは役割を与えられた。
苦肉の策ではあったが、彼にとっては喜ばしいことだった。
それは、彼が望んでいたことだったから。
そうありたい、と思っていたことだったから。
次回、「こんなに気持ちいいことなんだ」
よろしくお願いします。




