第45話 酷い有様ですなぁ
眼下には雲海が泡のようにざわめいていた。彩度のない視界には灰色の雲と、星の照らす空が広がっている。巨大な龍の掌の中で、ラースは、煌めく星が、大気が、後方へ流れ去る様を五感で受け止めていた。
自分が、自身の翼で飛んでいるような気分になる。懐かしい、そして見慣れた光景だと思えた。事実、それはラースの中のリグルヴェルダスの記憶が漏洩したものなのだ。
この原風景は、ただ気持ちのよいものだった。代わり映えのしない風景だったが、飽きることはない。ラースは目を細め、自身の背に翼を感じ、長き尾を感じる。どこまでも続く空のその果て、決してたどり着くことのできない消失点に思いを馳せていた。
玉璽を運ぶかのごとき丁寧さと、宝玉を手にした時のような昂りの間で、カロスケイロスはラースを手中に空を駆けていた。自ら生み出した雨雲を隠蓑に一路東へ。国境を分つ山脈を越え、平原の、自らのための王国へと向かっていた。
カロスケイロスが現れたその夜のうちに、二人は村を飛び立っていた。ルージュは戸惑いながらも、それが彼の望みだと受け入れて、ラースを見送っていた。そしてリグのほうは、
お前がついていながら。
そう凄まれ、言葉を返すことができなかった。
「ごめんね二人とも。ちゃんと戻ってくるからね」
謝る彼の表情からは悲壮感が和らいでいたから、少しだけ安心感を覚えて二人はラースの意思に従ったのだった。
『——着いたぞ、ラースよ』
カロスケイロスは中空にとどまっていた。繰り返す暗雲の海は、彼から時間の感覚を奪っていた。自らの心地よい記憶に浸っていたこともあり、ラースはどれほどの間、この飛翔に身を委ねていたのかわからなかった。
『ここ、なの?』
『そう。ここが我が国、ウラノス王国よ』
眼下には相変わらずの雲海。その向こう側に存在する光景を、見ることは叶わなかった。行くぞ、と短く宣言して、カロスケイロスは頭を下にして雲中へ飛び込む。
『え、わ、うわぁっ!?』
姿勢が変えられた。冷たい湿気が頬に張りつく。厚い雲はすぐに後方に過ぎ去り、ラースは上空から、闇に包まれた王都を目にすることができた。
平原に建てられた王城とその城下町。それらは大きな湖を中心に広がっていた。ラースの眼前に迫る湖の中央には、高くそびえる塔が見える。塔は陸続きではない。架橋もない。湖底から生えたかのようであった。
周辺の建物は石造りのものが中心で、その規模も数も、村からほとんど出たことのないラースにとっては、それを目にしただけで何か心躍らせるものを感じていた。
無論、余裕はなかった。彼はゆっくりと鑑賞できたわけではない。この光景も、このとき実際に目にしたのは、降下するわずかな時間だけなのだ。
雲を抜けたカロスケイロスはその勢いのまま湖を目指していた。ラースが声を上げる間もなく、重力よりも早く湖面に到達し、突き抜ける。
ラースは咄嗟に目を瞑り、口を噤んだ。勢いを減じることなく、カロスケイロスは水中を進んでいた。その体を徐々に小さく変化させながら、湖底近くに造られた塔の入り口に身を滑り込ませ、塔内を上昇する。
塔内の水面から抜け出した時には、その姿は『施術』を受けているときの大きさ程しかなく、小さな手でラースを引っ張っていた。
『時間を取らせたわね。ようこそラース、我が神殿へ』
『ここが、あなたの?』
大きく息をついて彼は部屋を見回した。そして自らの体も。水中を通ってきたはずなのに、濡れた箇所はなかった。
『そうよ。ここはまだ入り口。こちらへ来て。ちゃんと用意させてあるわ』
空中を泳ぐように飛びながら、龍はラースを先導した。剥き出しの石造りの部屋を出、通路と階段をいくつも通りすぎる。それらはみな簡素なもの。ラースが想像する荘厳な神殿の様子とは異なっていた。
だが。
そこだけが異質だった。
ラースは、途中で同じような扉をいくつも見かけていたが、立ち止まった目の前のものは、周りの内装から明らかに浮いていた。
華美な装飾。重々しい蝶番や引手は柔らかな毛皮に包まれ、その重厚な様相を隠す。扉の外枠は白いレースの生地に彩られ、壁面から浮き上がる。
それらはまだいい。
目を惹くのは、いや、目を背けさせるのはその色彩だった。瞳の奥を刺激するような蛍光を放つ桃色。それは、一体どんな塗料を使ったら再現できるのかという発色だった。そして扉に架けられたプレート。ラースがその文字を読めていたら、きっとこの扉はくぐらなかっただろう。
触れることなく開いたその扉を、カロスケイロスは気にすることもなく、むしろ上機嫌に通りぬける。
『ほら、来なさい。あのときの、お前の部屋を再現したのだから』
唖然と立ち尽くすラースを、蒼い龍はベッドの上で誘った。
室内は、一言で表現すれば、女王の寝所だった。一面に敷き詰められた毛足の長い絨毯。その柔らかな感触は、冷たい石の床の存在を一切感じさせないものだ。壁も全面上質な垂れ幕に覆われていた。
これらは入り口の扉とは異なり、寝室にふさわしい落ち着いた寒色をしていた。部屋の主の好みに合わせ、湖面の色をたたえている。何処かからの風にゆったりと揺れる様は、ここが水中であるかのようにラースに錯覚させた。
『どうした? 早く』
『え、あの、これ——』
ぽかんと口を開けたまま、目を見開く。まるで御伽話。贅を尽くした、というよりは夢の中のような部屋の様子に、彼は戸惑っていた。
ベッドは部屋の奥、一段上がったところにあった。天蓋付きの、正に王族や貴族にふさわしい寝具だ。置かれた上掛けは雲のように膨らんでおり、使用する者を優しく包むだろう。傍の小さな棚の上には、それ自身が美術品である燭台と香炉が配置され、すでに準備が整っているとばかりに淡い光を、香りを部屋に届けていた。
『僕の、って。いや、いや、違うよね? こんなすごくないから!』
『ん、まあ、細部は任せたのでな。だが、ここでやるのだろう?』
柔らかな敷布を尻尾で叩いて、急かす。あまりの絨毯の柔らかさに足を取られそうになりながら、ラースは近づいてベッドに腰を下ろした。
『ああ、そうね。まずは治癒だったか。とりあえず上着を脱ぎなさい』
言われるままにシャツを脱いだ。この部屋に相応しくない粗末な服を膝の上に抱えて、期待と不安の入り混じった表情で、待つ。
『酷い傷ね。それに乱暴な治癒痕。誰かは知らぬが、未熟な奴だ。これでは元には戻らなくて当然だわ』
傷痕は肩口から胸に向かって大きく残っていた。後少しで間違いなく彼の命を奪っていたであろうことが、カロスケイロスには一目で分かる。
『飛竜が魔法で治してくれたんだけど。わかるんですか?』
『もちろんよ。では、始めるか——と言ってもすぐに終わるが』
詠唱とともに、ラースの頭ほどの水球が現れた。水球はラースの傷跡を、肩を、半身を包む。肌に触れた瞬間だけ、彼はひんやりとしたものを感じた。が、水球が傷痕から体内へと浸透していくと、それは暖かなものへと変わる。左腕を中心に、その内部に熱を感じ、それはすぐに引いていった。
『え、うそ……、こんなに……?』
ラースには、まさに神の奇跡に思えた。あんなに悩んでいた、鈍くなった感覚が、数度瞬きする間に癒されていた。重ねた両手が、その感覚を等しく伝える。
『すごいっ! すごいよ、カロス! 治ってる! 元通り治っているよっ!』
『当然よ。この程度、できないわけがない。これで問題はないわね』
『うん! うんっ! ありがとうございます。僕、これでまたみんなの役に立てる。本当にありがとうございます。ありがとうございますっ!』
興奮しながら左手を動かし、繰り返し頭を下げた。そんな彼の落ち着きを待ち、カロスケイロスは努めて冷静に振る舞おうとして——できなかった。
『で、では、ラース。もう、いいだろう。やるのだろう。なっ!』
『もちろんです! 僕、あなたが満足するまで、頑張りますっ!』
元気いっぱいに答えたラースの笑顔に、カロスケイロスは過剰な期待に胸を膨らませ、ほんの少しだけ戦慄に震えた。
森の大蛇バトスへ『施術』の練習をしたのは無駄ではなかった。ラースにはそう思えた。ベットの上でくねる龍の体からは、大蛇と似たものが伝わるのだ。
相手の身体のことを理解した。そう思えた時に、ラースは自らの両手が相手の身体の中に沈み込むような感覚を抱く。相手の身体と両腕がつながったように錯覚する。この龍に対しても、そう感じることができていた。
『——んっ、ああっ。ふか、いぃ……っっ。らぁ……す、ふかいぃっ……』
同じ思いをカロスケイロスも抱いていた。自らの体に異物が潜り込み、内部からかき回されているような感覚。それは本来、恐怖であるはずなのに。
『いいっ。いいっ。——ふぁぁぁ、っん。わた、し……こわさ、れ……んひ、ゃぁ……っ』
『なん……で、ぇ……。かいふ、く、よ……りぃ』
『らぁ……っ。らぁ……っ。もぉ……ぅぅ——』
以前とは比べ物にならない。そう冷静に判別できたのは『施術』が開始された直後までだった。頭の中まで蕩けさせられ、神と祀られた龍は、少年の手によってもたらされる快楽に翻弄されていた。
ふと、ラースは手の動きを止めた。そっと肢体から指を離す。大蛇のことを思い出しながら、龍の鼻先へ、包み込むように手を当てた。
『……んん? あ……?』
『あれ、ここはあんまり?』
大蛇にとっては決定的だったその場所。龍はそれほど反応しなかった。だが、その手を左右に這わせるうちに、
『っっ!! んひいっっ!!!』
激しく体がわなないた。ラースは気づく。自分の手が何を刺激したかを。
『そっか。ここなんだね』
ラースはカロスケイロスの髭に触れていた。長い二本の髭が目立つが、それ以外にも口元には短めの髭が感覚器官として存在する。それを彼は撫でていた。
『よかった。カロスの一番良くなるところがわかって』
両手を両脇の髭を包み込むように当てて、後方へ流す。そうしていると、とっくに潤みきったアイスブルーの瞳と視線が合う。
『ひっ! らぁ、らぁ、それ、は……』
『大丈夫だよ。ここもやってあげるね』
ひとしきり撫であげてから、ラースは本命に手を添えた。長く伸びた二本の感覚器官。その根本にそっと。触れるか触れないかというくらいに軽く。
『ぅぅんあぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!』
獣のような絶叫が、根元から先端へ向かって刺激を与えられ、漏れ出た。
『施術』に蕩けた身体が硬直した。悠久の生の中でも感じたことのない類の感覚。それを叩き込まれ、カロスケイロスは至福の中で意識を手放した。
「……ごめん。やりすぎたみたい」
動かなくなったカロスケイロスを見下ろして、ラースは呟いた。左手が治ったことが嬉しくて。鋭敏に伝わる感覚が楽しくて。なによりも、感謝を込めて。夢中で『施術』を行った結果が、これだった。
整然と用意されていた寝具は乱れ、その上質の綿布はぐっしょりと濡れ、そこに横たわる龍は、威厳も何もなく、ただ、だらしなく乱れた獣となっていた。
まるで、初めて『施術』を受けたリグを見ているようだった。同じように長い舌を垂らし、喘いでいる姿に、ラースは小さな龍の姿を重ねていた。
「でも、きっと満足してくれたよね。僕も、すごく良かったよ。ありがとう、カロス」
多分聞こえていないとは思ったが、そう感謝せずにはいられなかった。ラースは久しぶりに晴れやかな気分になっていた。
達成感に全身を満たされ、ふう、とラースは息を漏らした。ベッドに腰掛けたまま天蓋を見上げ、浸る。そして、何気なく向き直ると、何者かの視線に気づく。
「……え、誰?」
扉の上部、廊下側から見れば、文字の書かれたプレートのある辺りだ。そんな所に隙間があることなどラースは気づいていなかったが、横長の空間からは見つめる瞳がその存在を主張していた。
カタン、と隙間の閉じる音がして、代わりに扉が開かれた。
「いやいや、いいものを拝見させてもらいましたぞ。全く、酷い有様ですなぁ」
ひたひたと。そういう音が聞こえてきそうな足取りで、子供が侵入してきた。
「あなたは——、カロスの知り合いですか?」
人ではない姿に、ラースは「知り合い」という言葉を発していた。全体的な姿形は人と変わらない。しかし、その少年の全身は赤い甲殻に覆われていた。背中からは床に達する海老のような尾部が垂れ下がり、それが柔らかな絨毯に半ば埋もれている。額からはカロスケイロスのように、一対の長い触角のようなものが伸びていた。
「知り合い……? それは畏れ多い。我らは我が主のお世話の任を給わる眷属に過ぎないのですじゃ」
答えたのは甲殻の少年ではなかった。今も、先の言葉も、発したのは少年の頭上に鎮座する大亀だった。亀は緑色の甲羅から手足を伸ばして、少年にしがみついている。
「そ〜いうこと。我が主は人前以外は、ど〜もアレなんだよね〜。だから俺らがサポートしてるって訳。てゆ〜か、いい加減降りてくれない? ひとのこと利用して自分だけ覗くなんてさぁ」
「何を言う。お前は声だけで十分だと言っておったろう」
「違うね。十分なんかじゃない。声だけがいいって言ったんだ。ボケたのかい、デバコスさぁ」
長い触角を震わせながら、甲殻の少年は口を尖らせた。
「……あの、ちょっと静かにした方が」
言い合う二人に、ラースは遠慮がちに割って入った。
「お、おお。そうじゃったそうじゃった。せっかくの機会じゃ。我が主が目覚めてしまうわい」
声を落として大亀は少年の頭を離れた。彼の主がするように宙を泳いで、ラースの肩を叩く。
「お主、良き仕事じゃったぞ。長き間、我が主に仕えておるが、このような御姿を目にすることができようとは。いや、眼福。眼福じゃ」
「あ、うん。ありがとうございます……」
「礼には及ばんぞ。後ほどいろいろと聞かせてもらいたいしの。しかし、今は一旦外してもらえぬか?」
大亀はベッドにそっと降り、湿ったシーツを咥えて、モゴモゴと顎を動かした。
「……えーと?」
「部屋を出てすぐのところに扉があるから。その中でお茶でも飲んで待っててくれよ、ラースくん。少し整えないといけなそうだからさぁ」
「わかりました。って、あれ? 僕のこと聞いていたの?」
「そりゃあねぇ。カロスケイロス様はある時期から、よくお前の名を口にしていたからね。あれってまるで——。ああ、ほら、早く。行った行った」
ひらひらと手を振り、甲殻の少年はラースを部屋から退出させた。
【次回予告】
『施術』が以前のように上手くできて満足するラース。
しかし、彼のふとした行為から、司祭たちの怒りをかってしまう。
現れた司祭長の判断が、ラースをより深く龍と結びつける。
次回、「不本意ながら思いついてしまいました」
よろしくお願いします。




