第42話 もう、いないんだ
意識が飛び倒れかけたラースは、ルドラの叫びを気付けに踏みとどまった。それを糧にヤンへ向かって駆ける。
しかし、数歩も進まぬうちに足が止まる。膝が折れ、両手をつく。体が思うように動かなかった。
「ざまぁねえな。俺たちに楯突きやがって。お前も俺がシメてやるよ、そっちの奴と同じようにな」
ラースが動けないのを確認し、ヤンが近づく。
「お前が、ルージュをっ」
「そーだよ。しっかりと思い知らせてやったぜ。ったく、みっともなく漏らしやがって、汚え奴だ。……しっかし、まだ生きていたとはね」
「お、まえはぁっっ!!」
全身が怒りに震えた。草を強く握りしめた。相手を喰い殺さんばかりに形相で睨みつける彼を、ヤンは笑いながら足蹴にした。ルージュの時と同じように。
(こいつは、絶対に!)
耐えながらラースは力を溜めた。
ルドラの叫びは、同時にロウベルトを動かしていた。彼は仲間を呼び集める。ラースのことはすでに眼中になかった。ただ自由を取り戻した飛竜を、その瞳に捉えていた。
「インデル、シャラフィ。もう一度、奴の動きを止められるか?」
「短時間だな、この様子じゃあ」
「そうね。あの強酸では、すぐに解かれてしまいそう」
ルドラの分泌する液体は今も彼の体を流れ続けている。牧草を溶かし、地面を脆く崩し、すぐに気化して、周囲に有害な大気を発生させていた。その空間に立ち入るだけで侵されてしまいそうな濃密な毒素が、大気を黄淡色に染めていた。
「それでもいい。ガロンは援護しろ。アルト、お前は——」
指示は中断され、彼らは散開した。自由になったルドラの尻尾が彼らを薙ぎ払うように襲った。大柄なガロンだけがその体と剣で受け止め、辛うじて踏みとどまる。
「ぐ、あぅぅっ!」
「ガロンさんっ!」
重い一撃。それだけではない。纏った酸が、冒険者を侵食した。尻尾を引き、再び鞭のようにガロンを打ち据えた。その度に周囲に液体が飛び散り、汚染された空間を広げる。
ルドラは飛び上がった。皮翼の羽ばたきが、広範囲に酸を撒き散らす。
「ちっ、ただの飛竜じゃなかったってことかよ」
一瞬だけラースに目を向けて、インデルはさらに距離をとった。
「仕方ねぇ。シャラフィ! 遠慮するな! 叩き落とせ」
ロウベルトの指示に、彼女は詠唱を開始した。彼女の足元、周囲に複数の魔法陣が発露する。陣は土を氷柱のような槍に形成し、それを射出する。
『ぐぅぅぅっっっっ!』
腹を首を皮翼を、土槍が襲う。衝撃にルドラはくぐもった悲鳴を漏らす。だがそれは、本来のダメージの半分も彼に伝えていない。
彼を覆うように分泌する酸の膜が、土槍を分解していた。特性を発動する前の彼であれば鱗を貫き、皮翼を破断されていただろう術は、衝突時の力を伝えるだけの威力にとどめられていた。
「続けろ! まだだ!」
『っっく……行くぞ! ラース!』
ロウベルトの指示とルドラ吠声が交錯した。シャラフィの術が再び土槍を生成する。今度はルドラはそれを許さない。
ルドラは強く全身を震わせた。同時に彼の特性を止める。彼の纏う酸が、放たれる前の土槍に降り注ぎ、それを崩壊させる。のみならず彼女を、冒険者達を襲った。
酸という鎧を全て捨て去って、ルドラは降下した。少なからず、ラースの周囲にも被害は及んでいた。それが、彼を追い詰めていたヤンを遠ざけることになっていた。
片足でラースを、もう一方でルージュを。獲物を強襲する隼のように掴んで、反転、ルドラは空へと駆け上った。螺旋を描きながら上昇を続け、冒険者達の姿が人形のように見えるようになってから、姿勢を水平に保った。
『はあっ、はあっ、はあっ……。ラース……少し、じっとしていてくれ』
荒い息を整えたのち、ルドラは二人を瞬間、宙に置いた。体を回転させて彼らを広い背中で受け止める。森からここへ向かった時のような乱暴な動きではなく、気流を捉えて、静かに態勢を維持していた。
「……ん、ん……なぁ……に……?」
浅く意識を取り戻したルージュの声を聞き、ラースは彼女を引き寄せる。自分の体の下に彼女を迎え入れて、ルドラの背中との間で支えた。
「ちくしょう……」
片手でしがみつきながら、呟きが漏れた。傷ついたルージュの顔を見て、ボロボロになったルドラの鱗を見て。ラースには堪え難かった。
「なに……私? え? ラース……なんで……?」
体を染める暖かな液体に気づく。状況の変化に追いつけないでいる彼女にも、それだけは理解できた。
「やだ……ラース! けが……」
『おい、ラース! 大丈夫か? おいっ!』
二人の呼びかけに応えずに、彼はただ足下を見ていた。自らの牧場に侵入した冒険者たち。今も上空の彼らから目を離さずに、アリの群れのように動き回る彼らの小さな姿は、
『——邪魔な奴らだ』
とるに足らない存在に思えた。簡単に潰せる、ただ煩わしさをもたらすだけのものに。どうやって散らしてやろうか。手段など無数にあるのだ。怒りからは遠ざかり、冷淡な記憶が湧き上がってくる。
——違う。
彼は否定した。
否定して、自らの存在を確かめるように、ラースはルドラの背中を掴む手に力を込める。
それができている、と彼は思っていた。実際には、彼の手は力なく添えられていただけ。頭の中も霞かかっていて、二人の声も遠くから聞こえるようだった。
『ラース! もう戻ろう! 山へ行けば、仲間が治療もできる。俺も、もうこれ以上は。——ラースっ!』
『いや……だ。あいつらを、僕は』
『だめだ。もう、今は無理だ』
冒険者達が弩を構えている姿が見えた。術を準備している姿が見えた。ここまで届くかはわからない。ただ、ルドラにはこれ以上対抗できるとは思えなかった。自分も、ラースも。
『行くぞ!』
ラースの意思を無視してルドラは南へ頭を向けた。一刻も早くここを発つ必要があった。しかし今は、普段のように飛ぶわけにはいかない。
極力ゆっくりと翼を動かし、できうる限り速く。地上からの追撃を許さぬ程に。ルドラは森へ向かう。だが、牧場の敷地を跨ぐその前に、複数の自分へ向かってくる姿に気づいて、彼は動きを止めた。
『あ、あれは。なんで……?』
思いもよらなかった。猛スピードで近づくのは、同族たる飛竜たちだった。若者も、ルドラよりも大きな体躯の成竜も。十頭以上の飛竜たちがV字を成して飛んでいた。その先頭で率いる飛竜の背に小さな龍、リグがいた。
『兄貴っ! ああ、来てくれたんだねっ!』
『ラース! 悪い、遅れた。でもな——』
言い訳は続かなかった。ゆっくりと顔だけを向けるラースの視線を受けて、言葉を失う。彼の体を、飛竜の背を染める紅に目を見開く。
『兄貴……、ラースは俺を助けようとして、あいつらにっ。俺が、俺がもっと……』
気の緩みと後悔で、涙が溢れそうになった。その感情は、リグの変貌を捉えると、すぐに恐怖に変わる。それは付き従う飛竜たちも同様だった。彼らは思い知らされた。自分たちとの交戦など遊び程度に過ぎなかったのだと。
『あいつら、だな。ラース』
ラースが小さく頷くのを確認して、リグは猛然と振り向いた。その動きだけで飛竜たちは身を強張らせ、その輝く双眸に息を呑む。
『オマエら、治癒できるんだろ! 奴らはオレが!』
『……待って、リグ』
刹那に術を発動し始めたリグを、小さな声が止めた。言葉は掠れた唸り声に変わり、わずかな時間、リグを引きつける。じっと耳を傾け、その変化を視る。
『リグ、ごめんね……。分かるよね』
全てを聞いて、リグは頷く。
上空に向かって唸りを発した。龍語による術。伝えられた拙い音の波動を正す。《震脚》の王と対峙したときに、すでに経験済みだ。リグにはもう、その差が分かっていた。
干渉された魔力場が魔素を生み出し、力を、現象を顕現させる。冒険者たちの上空、その空間を変質させる。大気が渦巻き、生み出されたのは黒雲。内部に強大な力を宿した雷雲だった。
「なん……だ。あいつらは……」
多数の飛竜の出現に、冒険者たちは追撃の手を止めて様子を伺っていた。あれがもし、仲間だとしたら、と。
「さすがに厳しいんじゃねえか、ロウベルト?」
「ロウベルトさんっ! あの数では。それに飛ばれては、もう」
「……くそっ。このまま逃すのかよ」
「さすがにね」
仲間たちの忠告に、『竜殺し』は従うしかなかった。こうなっては手段がないことは彼も理解している。向こうから仕掛けてこない限りは、手の出しようがないのだ。
「待って! あれは!」
いち早く気がついたのは、魔術に精通したシャラフィだった。不意に出現した雷雲。不自然に自分たちの上空だけを覆うその姿を感知する。
黒雲と大地は光の速さで繋がった。冒険者たちが対抗する時間などなかった。雷撃は彼らの至近に落ち、その余波が彼らを襲った。痺痛が体の自由を奪う。
一流の冒険者と呼ばれる彼らだから、辛うじて一命をとりとめた。のではない。これはそういう術だった。見た目の派手さから想像される威力ではない。主には行動を奪うための術なのだ。
膝をつくことさえ許されず立ったまま固まる彼らの前に、飛竜たちが降りてきた。ルドラとリグを先頭に。
滑り落ちるようにルドラの背を離れたラースは、リグとルージュの静止を無視して冒険者たちに近づいた。ロウベルトを、他の冒険者たちの目の前を通り過ぎ、離れて倒れていたヤンの前で足を止める。
「立て、よ」
胸元を掴み、片手でその体を持ち上げた。
「……う……、ひ、ぃ……」
まともに言葉が出せないヤンを、そのまま叩きつけた。その体に跨り、拳を握りしめた。怯えるヤンの瞳に、ラースは一層の怒りを膨らませる。その怒りだけが、彼を動かしていた。
「謝れよ。ルージュに、謝れ。でないとお前を!」
返答のないヤンに対して、腕を引いた。無論、麻痺した体では応えたくとも叶わないのだ。ラースは拳を打ち下ろす。ヤンの顔のすぐ隣、拳が地面を抉った。再び持ち上げた拳についた土が、ヤンの顔を汚し、とまらぬ血が彼の身体を染める。
ラースは手を開いて、ヤンの首元へ添えた。
「お前が、やったんだろ。こうやって、ルージュを!」
「やめ、ろ。やめてくれっ!」
代わりに叫んだのはロウベルトだった。耐性の差が、同じようにリグの術を受けながらも、彼に幾分の自由を与えていた。
「俺が、謝る、から。悪かった。すまなかった。ヤンは、俺の、たったひとりの、弟なんだ。俺が、代わりに謝るから、許してくれ」
回らぬ口を必死に動かし、少しずつ膝を折り、ロウベルトは頭を下げる。
「弟……? ルージュは、僕の家族なんだぞ! ルドラだって同じだ。それなのに、お前らは!」
ゆっくりと立ち上がって、よろめきながらラースは叫んだ。その体をルージュが、リグが支える。
「許して、くれ、ヤンは、俺のせいで。俺が甘やかしてしまうから……。いや、違う……俺が……俺を、お前の気の済むように、していい。だから、ヤンには。お願いだ」
「……だったら!」
ラースはロウベルトの前に立つと、彼の剣を鞘から引き抜いた。自分を傷つけ、ルドラを襲おうとした剣。異形の刀身はラースに禍々しさを感じさせる。
自信に満ちていた表情は青ざめ、ロウベルトは観念したかのように、それ以上言葉を発しなかった。
ラースは腕に力を込める。そこに小さな手が添えられた。ルージュが見上げていた。その傷ついた顔を見ると、彼は感情が抑えられなくなる。
ルージュは小さく、頭を振った。否定した。否定して、痣だらけの頬を寄せる。
「なん、で……?」
ルドラに目を向けると、彼はただ顔を背けた。ラースには納得できなかった。魔獣によって家族を失い、今また同じように、理不尽に失うところだった。許せるわけがない。
このまま、まともに動けない冒険者たちを、どのように扱うことだってできるのだ。それこそ、ラースがルドラの背から冒険者たちを見下ろした時に思い出したように。
なのに、当のルージュは力を込めていた。
長い沈黙ののちに、ラースは俯いたまま呟いた。剣を下ろす。少しだけ、ルージュの小さな手から力が抜けるのをラースは感じた。
「……もう、いい。ここから、村から出て行ってよ。今すぐに」
『いいのか、ラース。コイツらを』
リグの問いに、顔を歪めながら頷く。
『——わかった。じゃあ、オマエの分はオレが』
ラースの手から、剣を奪い取った。自身の体より大きな刀身。竜種を滅するための武器を前に、唸る。
「無事に返すと思うか? オレの、ラースに、手を出しておいて!」
刀身が砕けた。唸りが生成させた術に気がついたのは、冒険者たちの中ではシャラフィだけだった。彼らは一瞬の安堵から一転、恐怖と無力さに襲われていた。
「ま……て、俺達、は……依頼を……」
「そう、だ。この、村を……」
「もういい、って言ったよね」
喘ぐような彼らの弁明に、ラースは冷たく拒否した。
「村のために来たのは知ってるよ。でも、リグルヴェルダスは、もう、いないんだ。だから、森に行く必要もないんだよ」
「なんだ、って……。そんな、筈は……」
「消えたんだ! 僕の目の前で、いなくなったんだよ! だから、もう村にも森にも二度と来ないで! 他の人にもそう言ってよ!」
絞り出しような叫びだった。その言葉は冒険者たちだけでなく、控える飛竜たちにも衝撃を与えていた。飛竜たちはざわつき、互いを見交わしていた。
『……だから、リグ、ごめんね』
『二度目、だぞ』
『うん、でもね。ごめん』
彼自身納得していない言葉を受け、リグは柄だけになった剣を捨ててロウベルトに向き直った。小さくも鋭い爪を額に突きつけ、穿った。握りしめた。動けぬ『竜殺し』を、血が染める。
『オマエら、捨ててこい』
新たな主の命令に、統制だった動きで飛竜の一部が皮翼を動かした。冒険者たちを軽々と掴み上げ、村の外へと飛び去っていった。
次回で第7章完結となります。
【次回予告】
戦いを終え、ルドラは想いを吐露する。
それを受け止めたラースの返答に、ルドラは——
一方、遅れて戻ってきたリグの言い訳は。
次回、「言ったよね」
よろしくお願いします。




