第37話 まるで家畜だな
遠くに揺らめく光が見えた。すっかり陽の落ちた森を、小さな蝙蝠ルバトの魔法で起こした炎が照らしている。破壊された大樹の根を燃料に、焚き火がその場を柔らかく温めていた。
「あれは……? 我輩は一体……?」
目醒めたバルバトスは体を起こした。身体中が傷む。とりわけお腹が。立ち上がろうとしてよろめき、獣のように這いつくばって彼は炎に向かって進んだ。
「そうだ、我輩、あいつに」
バルバトスの記憶が鮮明になった。《惑導》で操った樹で動きを止め、手にするはずだった。追い詰めたはずだった。その相手に反撃され無様に吹き飛ばされた。
屈辱だった。平身低頭謝ったことは問題ではない。あんな見せかけなど、彼にとってはどうでもいいことなのだ。
だが。
その場に醸し出されていた雰囲気は、そこにあった光景は、そんな彼の感情を溶かしてしまった。それは、彼が心の底で望んだものだったのだから。
「な、何をしているのだ、お前たち!」
焚き火の周りには、バルバトスの部下たちがいた。ラースがいた。少し離れて大蛇バトスと蝙蝠ルバトが。光と闇の境目には、飛竜ルドラが体を丸めていた。
部下たちは分離し、姿を変えている。そのため、そこには多くの山羊と蛇と蝙蝠たちがひしめく。あるものはすでに体を休め、あるものは待ちわびていた。そのうちの一匹は今まさに。
「あ、気がついたんだね」
手を休めずにラースが顔を向けた。
「ばる、ヘイキ?」
近寄ることなく、ルバトは大蛇の頭上で声だけをかけた。
「な、なんで……」
「ん。考えてみたらさ、彼らは悪くないかなって。僕が勘違いしただけで。それに、これくらいの蛇を探していたんだ」
ラースの手にかかっているのは、誰かの尻尾であった蛇だ。バトスほどの大蛇ではなく、精々両腕を広げたくらいの長さで、その太さも彼が一握りできる程度だった。ちょうど、彼の家に来た龍、カロスケイロスが『施術』を受けた時くらいの体の大きさだ。
「それに、みんなも受けてみたいって言うし」
ラースの言葉に、部下たちが一斉に頷く。すでに蕩けてしまった者以外は。
「んなっ……! なら、我輩も!」
「どうして?」
焚き火でも暖まらない、冷え切った声だった。勢いで要求したバルバトスは全身を震わせる。
「どうしてって……。我輩だって……やってもらいたくて……」
「だから。どうしてそんなことが言えるのかな。僕や、大蛇さんたちにあんなことしておいてさ。——あ、君は終わりだよ。次、来て」
小さな山羊が二本足で歩いてきて、ラースの前でちょこんと頭を下げ、体を横たえる。
「あ……あ……」
揺らめいたのは炎がもたらす光か、彼自身の瞳か。立ち尽くしながら、バルバトスの視界がぼやけた。幻想のように見える目の前の光景が受け入れられずに、思考が停止してしまっていた。
だから、彼は気づくのが遅れた。自らの頭にそっと手が乗せられているのを。そこに意識を向けた時には、手はお腹に当てられていた。
「ごめんね、痛かったよね」
気持ちのこもった言葉が、手の感触が、バルバトスに染みわたった。やっと。やっと。待ち望んでいたものが与えられた。悦びと安堵に心が和らいだ。自然とその両手は、弄るラースの腕を掴んでいた。
「あぁ——、ん、ん——」
痛みなんて、もうない。もう感じない。ここからは、マイナスがプラスに転じる。バルバトスがそう感じたとき、ラースの手が離れる。
「んぇ? 我輩、まだ——」
ラースは待たせてしまった山羊に謝って、すでに『施術』を始めていた。バルバトスに代わって、部下が愉悦に喉を鳴らす。
「ら、ラースくん。我輩は……?」
「彼らをやってあげないとね。ずっと待たせてたから」
バルバトスには目を向けずに、ラースは手を動かし続ける。
「ま、まだ、我輩は。そいつらよりも先に!」
「ねえ、あなたは、彼らのリーダーなんだよね。王、って言っていたよね。群れのリーダーっていうのは、みんなのことを考えるものじゃないの? 彼らがみんな望んでいるんだから。終わるまで、待てるでしょ?」
諭すようにやんわりと。それでもバルバトスはぐずる。
「……ぅ、だが……、だが……」
「待てないの? ならやってあげてもいいけど。それじゃあもう、リーダーじゃないよね。彼らを率いる資格なんてないよね。これっきりでいいなら、今から続きをやってあげるよ?」
静かな口調ではあった。それでも。これっきり、その言葉がバルバトスの意志を挫く。
「わ、わかった。我輩、待つ。待つから、必ずもう一度……っ!」
「もちろんだよ」
ようやくの笑顔を、ラースはバルバトスに向けた。
——なんで我輩が。
大人しく座りながらも、バルバトスは体を震わせていた。最初はじっと我慢していた。けれども部下たちが次々と悦びの声を上げる様を見せつけられ、耐えられるわけがなかった。かと言って目を背けることも、耳を塞ぐこともできない。
あんな人間の小僧に、と。わずかな怒りが滲み出て、立ち上がろうとするたび。これっきり、というラースの言葉が、彼を押しとどめる。少しだけ与えられた悦びが、彼を縛り付けていた。
それでも、もう。
一時の誘惑に逆らえられなくなる。体が動きかける。それを抑えたのは彼の意思ではない。待ち望んだ掌だった。
「全員だとちょっと長くかかりそうだからさ。やっぱりちょっとだけ」
それは絶妙なタイミングだった。まるで救いの神の慈悲を受けたように、バルバトスは涙をこぼさんばかりになっていた。
「もしかして、待てなかった?」
天上からの言葉。彼は猛然と首を横に振った。
「そっか。えらいね」
少しだけその体に触れた。部下たちのときよりもずっと短い間。それでも彼は満足だった。
「あとはみんなが終わってからだよ。待てるよね」
今度は縦に。風を呼ぶかの如く首を振った。そうして跪くような姿勢で、再び待ち続ける。恵みをもたらす存在から目を逸らさずに。
「——ずいぶんと飼い慣らしたものだ。まるで家畜だな」
突如、低くよく通る声が樹々の間から流れてきた。それは闇の中から、白い姿が浮き出るように現われ、バルバトスに近づいた。
「誰!」
「ち、ちちう——えげゃぁぁっ!」
手にした木の杖がバルバトスを打ち据えた。頭を。腹を。尻を。転がして仰向けになったところで、額をその先端で穿った。地面まで貫いたのではないかと思えるほどの音を響かせ、そのまま押さえつける。
「あるサマ!」
ルバトが金切り声を上げた。ひり、と大気が緊張する。
「なぜこの様なことになっている? ——いや。随分な手腕だな、お前は」
ラースを睨み付けるのは横長の瞳孔。人間の大人と同じくらいの身長の、バルバトスと同じ種族の男だった。
「あなたは……?」
「あるサマ。ばるノ、私タチノ父親ヨ」
答えたのはルバトだった。
「父親?」
「そうだ。愚息が世話になったようだな」
蹄を、丸いお腹に沈ませた。額に突きつけたままの杖を、ねじり込んだ。漏れ出る悲鳴を無視してバルバトスを攻め続ける。
「やっ、やめてっ!」
「なんだ。手懐けて、もう自分のものだと思っているのか?」
「そんなこと思ってないよ! でも、息子なんでしょ。なんでこんな酷いことをするの!」
咄嗟に、ラースは叫んでいた。
「息子……? そうだな。バルバトスの名を継がせ、部下の一部を与え。お前は今でも私の息子か?」
一度足を浮かせ、勢いをつけて打ち下ろした。
「んぎゃあぁぁっっ! わ、わが、はい……は……ぁ……」
「バルバトスっ!」
赤い泡を吹きながら声を絞り出すバルバトスを目にして、反射的にラースは駆け寄っていた。それを、向けられた杖の先端が制す。
「それも惑わすための行動か?」
「知らないよっ! 彼を放してよ!」
「……ラース、くん……」
その呟きを聞き、父親はラースに向けた杖を下ろす。脚をどけて息子を解放した。
「どうやらこいつは。息子ではあるが、すでにバルバトスではない様だ」
「何を言っているの! いいから早く!」
「ふん。我らはヒトを、生物を惑わす術を持っている。惑わす為にはな、自らは惑わされぬ強い精神が必要だ。だがこいつは!」
下ろした杖で再び。父は息子の額を突いた。
「お前に屈してしまった。心奪われてしまった。なれば。《惑導》の王と呼ばれたバルバトスに非ず。只の魔獣だ!」
「そ……そんなの。彼はただ僕の『施術』を受けたいだけで。別に僕は——」
少しだけ、ラースは嘘をついた。少しだけ、従わせたいと思った。ただそれは、しつけのようなもの。彼自身がされかけたような、操るためのものとは違うと思っていた。
「こいつは、そう思っているか? すでに戻れないのではないか?」
「ちち、うえ……。あれは、いいもの、で……。だから、皆も……」
子山羊はすがる様な視線を父に、ラースに向けた。
「ああ、それだ。しばし見させてもらった。ならば。ラース、といったな。こいつを助けたければ、証明してみせろ。お前の技で、私を納得させてみせろ。息子が溺れるもやむなし、とな」
それは明らかな要求だった。
その言葉にきょとんとして。慌ててバルバトスは叫ぶ。
「父上っ、あれは……、駄目っ! あれは良すぎて……っ。父上までっ」
「何を言う。お前の為だろう? お前の証明の為に」
「だ、だが……」
立ち上がろうとして、彼はふらつき頭から倒れてしまう。父親は一顧だにせずラースへ向かった。
「さあ。どうした? そいつらと同じ様にやってみせろ。我が心、揺るがすことできれば——」
「いやだ!」
即座の拒絶だった。
「あなたたちは同じなんだね。僕の『施術』はそんなふうに使うものじゃないんだ。それなのに、無理矢理僕にやらせようとするなんて」
「ならば仕方あるまい」
「ら、ラースくん。それは、それでは我輩は……」
戸惑うバルバトスの顔を、その父親が握りしめた。そのまま軽々と持ち上げる。彼が脚をバタつかせてもがくも、外れることはない。
「お前は、どちらに味方するのだ? ……まあいい。いずれにせよ、お前が使い物にならないことは理解した」
腕を振り、ラースに向かってバルバトスの体を放り投げた。
それを反射的に抱き止め、ラースは歯を食いしばる。腕の中でぐったりとする彼は、額から血を流し、口元の白い毛並みも赤く染まっていた。ラースはそれらをそっと手で覆う。
「大丈夫?」
「あ……あ……。我輩……」
震えが、緊張が伝わった。父親に見捨てられたのだと感じて、ラースにはそれが許せなかった。許せずに、睨みつけた。
「家族なのに! 家族でいられるのに! それを自分から捨てるなんて。そんなのおかしいよっ!」
「ラースくん、駄目だ。父上に、そんな……」
震えながらバルバトスは腕を伸ばす。ラースはその言葉を聞きながらも、真っ直ぐ視線を逸らさずにいた。無感情に二人を見下ろす相手を油断なく見据えていた。
だから、そうされるまでラースは気がつかなかった。自らの額に小さな指先が押し当てられるまで。
続く声からは、それまでの怯える仔犬の様な調子は消えていた。赤ん坊さながらの姿勢でラースに抱えられながらも、その口調は出会ったときと変わらぬ自信に満ちていた。
「……えっ?」
彼が再び目にしたバルバトスは、赤い口元を歪めていた。視界の端では父親が同じ表情を見せる。
「ラースくん。君は、我輩のものだ。《惑導》の力で消えるのだ」
その言葉と共に、ラースの意識は途切れた。
次回で第6章完結になります。
【次回予告】
今度こそラースを支配しようと、悪魔は力を使う。
しかし、彼らは深奥で知ることになる。
最後にラースが悪魔にかけた言葉は。
次回、「●●するんだよ」
よろしくお願いします。




