第36話 あ、悪魔かっ!
誓約がラースの心を縛る。バルバトスが強要したわけではない。ラース自身が望んでいたことだったから。それゆえに強く囚われる。望みを引き出すのはバルバトス自身の手腕だ。それを誓いとして固定するのが彼らの特性——《惑導》だった。
それは、誓いのくちづけを以て完了に至る。
硬く冷たい蹄に、ラースの唇が近づく。
だが。
僅かな隙間を残して、止まった。
——ずぶり。
細く鋭い毒牙が、跪くラースの首筋を貫いていた。じわり、と痛みを体内に、とりわけ頭の中に拡散させる。ぼんやりとした視界が、焦点を結んだ。
「……え……い、いぎいいっっ!」
「んな、何が!?」
ラースの悲鳴を聞き、バルバトスもまた困惑する。ラースの首筋に噛み付いていたのは、彼の尻尾の蛇だった。彼の意識下にあるはずの。
「痛い……やめ、てぇぇっっ!!」
ラースは両手で蛇を握りしめた。苦痛に蛇が顎を開く。糸を引きながら、牙が肉から離れる。
「んぎゃぁっ! いたっ、やめ、はなせ! 放すのだっ!」
引きちぎられかねない力で圧迫されて、悲鳴を上げながらラースの頭を押さえた。その掌の下から、鋭い視線が、怒りの声がバルバトスを攻める。
「僕に、何をしたのっ! あんな、あんなことをぉっっ!」
猛然と立ち上がって、尻尾を掴んだまま、ラースは怒りに任せて両腕を振った。
「ふぎゃあぁぁぁぁぁっっ!!!」
悲鳴と共にずるり、という音が聞こえて、ラースの腕から重みが消えた。バルバトスの体は地面を繰り返し転がって、樹の幹に激突して止まる。
ラースの手の中には、尻尾であった蛇が残っていた。それがむくむくと成長を続け、彼の手を離れて、大蛇の姿へ戻った。
大蛇は頭を下げて、ラースの頬へ寄せる。
「……大蛇さん。もしかして、僕を?」
「おっ、おい、バトス! 何をしているっ!」
起き上がれないままの体の方の声に、大蛇はラースに触れていた頭をそっと動かした。
「やっぱり、あなたが気づかせてくれたんだね。すっごく痛かったけど」
自分が握っていたであろう辺りが、傷ついていた。そこへ手を当て、鼻先を包み。ありがとう、と感謝の言葉をかけた。
「ふ、ふふふざけるなよバトス! お前ら、そいつを捕まえるのだっ!」
号令に、ラースを囲んでいた部下たちが動く。
一時のこととはいえ、見誤ってしまった。惑わされ、想ってしまった。そんなはずはないのに。それが苦しく、辛くて、悔しくて。ラースは怒りに震えていた。自然と拳に力が込められた。
それよりも早く、動いたのは大蛇だった。太く、しなやかな鞭と化して、彼にとっては十分小さな山羊たちを、あっという間に薙ぎ払っていた。
「あ……な、なにを——、んきいぃっ!」
両手を地面についたまま、奇妙な声を上げてバルバトスは背を仰け反らせた。背の翼が震え、黒い塊が飛び出す。
「ワタシモ! ワタシモ!」
きいきいと耳に響く鳴き声を上げながら、ラースの元に飛んできたのは、掌大の蝙蝠だった。そして残されたバルバトスは、出会った時と同じ、小さな山羊の姿に戻る。
「な、なぜ、我輩を……ルバト、お前まで……」
「ばるハ駄目。ワタシ、言ッタノニ。ばとすモ言ッタノニ」
蝙蝠は大蛇の頭にとまって、白目のない、くりくりとした瞳を向けて懇願した。
「オ願イ、ワタシニモ。オ願イスル」
「え、ああ、うん。いいよ」
確認する必要はなかった。ラースは求めに応じて小さな頭を掻いてやる。それから掌の上に乗せて、羽ばたくために使う胸をそっと労った。
「ン、ンンッ。きゃう、きゃうぅ……」
くてんと頭が落ちて、ラースの指に小さな重みがかかった。弛緩した翼が、抱きつくようにラースの掌を覆う。そんな姿に、少しだけバルバトスに対する昂りが鎮まった。空いた手で、大蛇の方に安らぎを与えることも彼は忘れない。
「……それで。僕に何をしようとしたのさ」
手の動きを止めないまま、ラースは這いつくばるバルバトスへ怒りの視線を向けた。そんなことは彼の本意ではなかったが、止められなかった。
「こ、この馬鹿力がっ! 我輩から無理矢理——」
いや。そうだ。とバルバトスに大蛇の経験が蘇る。最初に大蛇がラースに襲いかかった時、全力の締め上げでも効果がなかったではないか。全く意に介されることなく、抵抗もできずにいいように扱われたではないか——。
ぞわっ。
全身の獣毛が逆立つ。バルバトスは初めて恐怖を感じた。今も自らの一部を手懐けている少年に。人質をとられたかのように、彼は動けなかった。
「わ、我輩は。ただ、お前の技を、受けてみたくて……」
「そうじゃなくって。僕に、何をしたの!」
「いや、だから……。お前を我輩のモノにすればと……」
消え入りそうな声だった。主人に悪戯を咎められた飼犬さながらに、視線を彷徨わせて答える。
「ワタシ言ッタノ。オ願イスレバイイッテ。デモ、ばるハ聞カナクッテ」
小さな蝙蝠が口を挟む。
「アノママダッタラ、らーすハ操ラレテタ。ズット。ばとすガ止メナカッタラ」
「そう、なんだ。バトス、って大蛇さんのことでいいんだよね。ありがとう。大——バトスさん」
「ワタシは、るばと、ヨ」
「そっか。君も止めようとしてくれたんだね、ルバトさん。ありがとう。僕の『施術』はね。気分良くなってもらうためのものなんだ。そうして欲しかったらやってあげるんだけど。でも——」
大蛇と蝙蝠にかけた調子から一転。ラースの怒りは消えたわけではなかった。その変調に山羊は両耳を硬らせる。
「あなたに、気持ちよくなんて。なってもらいたくない」
「そ、そんな、我輩は……。我輩も——」
「ああ、そういえば」
ふと思いつき、ラースは悪戯っぽく微笑んだ。
「あなたは、バトスさんたちと同じように感じることができるんだよね。じゃあさ。やっぱり、この二人だけに『施術』をすればいいんじゃない? それでも気持ちよくなれるんでしょ?」
「そ、それは。元の姿に戻った時に……」
「あ、そうなんだ。じゃあ今のうちに、いっぱい良くしてあげるね」
二つの掌に、擦り寄る感覚が伝わった。バトスとルバト。二人は完全にラースを望んでいた。求めていた。もう一つの、自分の体を差し置いても。
「ま、待つのだ。それは。そんなにされたら、戻った時に」
ここ数日のことが、バルバトスには鮮明に思い出された。日中ラースの『施術』を受けて帰ってきた大蛇バトス。本来の姿に戻った時に襲われた感覚を。過剰すぎる快楽を。それが今度は。二倍になる。
「返せ! 我輩の体を、返すのだっ!」
その叫びは、悲鳴に近かった。それでもラースの心を動かすことはない。
「でも、気持ちよくなりたいんでしょ。大丈夫。二人が満足するまで続けるから。もう、暗くなっちゃったし、続きは明日でも、明後日でもいいよね。それまでは、返さない」
「あ、悪魔かっ! お前は我輩を、我輩を……」
壊すつもりだ。
そう感じた時、小さな山羊はがくがくと震えが止まらなくなった。
一体どれ程のものを与えられるのか。明日? 明後日だって? そんなものは受け止め切れるはずがない。いや。そもそも。返してもらえるのか? 帰ってくる気があるのか? 自分はこのまま、自分を失ったままで。待ち焦がれて。戻ってきたとして。受け入れた時には破滅が確定していて——
絶望的な思考とともに、バルバトスの息遣いが荒く、早くなっていく。
————ダメだ。今すぐ、返してもらわなければ。
「悪魔は、あなたの方じゃないか。僕に、あんな——、あんなことを思い出させてっ!」
叱責に、バルバトスは体を縮めた。震える両手で土を掴んで、勢いよく頭を地につける。
「わ、わかった。我輩が悪かった。皆も、一緒に謝るから。どうか、どうか許してくれ。ラースくん!」
大蛇に吹き飛ばされた部下たちをも巻き込み。がちがちと歯を鳴らしながら、彼は許しの言葉を待った。
丸まった小さな背中を見下ろしながら、ラースはしばし無言だった。大蛇と蝙蝠から手を離して、目元を拭う。自らを落ち着かせるために、大きく息を吐いた。
「……もう、いいよ。わかった。僕もちょっと悪いことしたかも。僕も最初は大蛇さんに、無理に——」
「……っ……ぞ。……が……っ」
不明瞭な呟きが聞こえた。バルバトスは俯いていたため、ラースからは見えなかった。その誘惑を紡ぐ口の動きが。
前兆なく大地が揺れた。
ぞぞ、と土が不気味な音を奏でる。彼らが足元に目を向けたとき、地表を突き破って、細長い物体が飛び出す。
「樹の根!?」
そう口にする間に、複数の根が伸び、うねり、彼らを絡めとった。根、とは言ってもその太さはラースの胴に匹敵した。これ程の根を必要とするのは、百年物の大樹。貪欲に獲物を貪る獣のように、養分を求めてその食枝で彼らを締め上げる。
「……ふくっ。ふくっ。ふくくくくっ。いいぞっ! やはり植物は。単純で。楽に操ることができるのだっ!」
バルバトスが立ち上がった。ラースを惑わせた時のように口元を歪め。最早隠す必要もなくなったと、笑う。
「全く、恐ろしいやつだなぁ、ラースくん。我輩、すこ〜〜〜しだけ、あせったぞ」
「あなた、は……まだ……っ」
「なんだ? ラースくん。我輩がヒトしか操れないとでも? 我輩、これでもすごいのだよ。王、などと呼ぶ者もいるのだ」
「お、う……って」
「そう、王だ! そんな我輩に、仕えさせてやろうと思ったのだがな、ラースくん。ふくくくっ。残念だよ」
ラースを拘束する樹の根を撫でながら、バルバトスは上機嫌だった。そして再び、囁く。根は応える。絞り出すように、締め上げを強めた。
「バトス、ルバト。お前たちが受けた快楽は少し強いからさ。苦痛で、相殺するのだ」
大蛇の全身が軋んだ。樹の根の成長が、大蛇の力を上回っていた。小さな蝙蝠の体は、さらに細かく枝分かれした根の束に埋もれ、ほとんど見えなくなっていた。甲高い悲鳴だけがくぐもって響く。
「大蛇さんっ! ルバトさんっ!」
自らも拘束されながら、ラースは目一杯腕を伸ばす。しかし、それが届くことはない。
「さて、ラースくん。本当に、君には我輩のために働いて欲しかったのだよ。心の底から我輩を崇拝し、君の意思で、我輩に尽くしてくれたら良かった」
バルバトスの足元が盛り上がった。新たな樹の根が彼を押し上げる。ラースを見下ろすほどに。そして。淡く光る指先を見せつけた。
「この《惑導》の術は、君を支配する。君を操って、我輩の思い通りに動かす。の、だがね。それだけなのだよ。君の意思は無くなってしまう。そんなの、つまらないだろう。ただの人形だ。やはり、自ら従ってもらわないと、吾輩気分がよくないのだよ」
指先が、ラースの額に向けられた。術を灯して、突きつけられる。
「……っく。やめ、ろ。僕は」
根が、悲鳴をあげた。ラースの力に抗って。それでも、逃さない。養分は。
「ぐ、あ、あ、あ——」
「さよならだよ、ラースくん」
満面の笑みをたたえて、バルバトスは術を解き放つ。
「————アリストレアさん! ごめんなさいっ!」
満身に込められた力。齢数百を越す巨木の末端は、数千を経た肉体に砕かれる。
「な!? んなぁ!?」
「うるがあああああっっ!!」
木端舞う中で、ラースの拳が疾った。気合の咆哮と共に。バルバトスの小さな体を、拳めり込むほどに打ち据えた。
「んぎゃあああああぁぁぁ〜〜〜っっっ!!!」
悲鳴は森の奥へと尾を引いていった。
【次回予告】
悪魔は堕ちる。
しかし、引き戻される。
もはや抗えない。はずであったのに。
悪魔にとっての救いの手が、ラースを堕とす。
次回、「まるで家畜だな」
よろしくお願いします。




