第35話 また一緒に
尻尾の先を使って、大蛇はラースを運んでいた。地面に平行に体をくねらせて進む蛇の速度は、存外速いものだ。だから大蛇は、馬に乗るようにラースを蛇身に跨がせるのではなく、彼にゆるく巻きつけた尻尾を上げて、揺れが伝わらないようにと気を遣いながら進んでいた。
「だ、大丈夫なのか、ラース!」
上空から、ルドラの叫びが降ってくる。彼の体は森の中を進むには大きすぎ、上空からラースたちを追跡していたのだ。
「うん! 大丈夫だよ!」
余裕で手を振るラースは、一方でうねる体に腕を伸ばす。『施術』で触れていたのは安静にしている時だけだった。こうして躍動する姿をじっくり見るのは、この大蛇に限っていえば初めてのことだった。今、触れることができれば、よりその体のことが分かるだろう。
そう思って。移動の邪魔をしない程度に彼は手を添える。
そう思って、のつもりだったのだが。つい力が入ってしまう。もっと知りたいと手を這わせてしまう。そのせいで何度も大蛇の動きが止まる。困ったような視線が送られ、その都度ラースは謝っていた。
大蛇の動きは速かったが、丁寧だった。普段彼が通らないような開けた路を選び、山の方へ向かっていた。
やがて、遮ることのない空間に着くと、大蛇はそっとラースを解放する。
「ようこそ、ラースくん」
そこに、彼らを待ち受ける人物がいた。いや、もちろんこんな場所だ。人、ではない。それでも、ラースには驚く程のことではなかった。
なぜなら、どこかラースの知る相手に似ていたからだ。そう、直立した兎という姿をしたイシュカだ。背格好も小さなイシュカと同程度。同じように全身は毛皮に包まれており、二本足で直立している。
違うのはその種族だ。目の前の彼は、二本の小さな角を持つ山羊だった。羊たちと同じ横長の瞳孔はラースにとって見慣れたもの。短い手足と丸みを帯びたお腹が、まるで赤ん坊のための人形のような愛らしさを感じさせていた。
「我輩、バルバトスという者だ。我輩のことを、随分と可愛がってくれたようで。感謝するぞ」
「あ、僕、ラースです。あの、どこかで会ってますか?」
不思議な物言いに、首を傾げる。
「ああ、そうそう。そうだな。わからないよな。そこの蛇はな、我輩の一部なのだよ。そいつの体験したことは、我輩、共有できるのだよ」
その姿に似つかわしい、変声前の少年のような声で、どこか自慢げにバルバトスは答えた。
「素晴らしい! いや、素晴らしいぞ、ラースくん。お前の技は」
「あ、ありがとうございます。大蛇さんのこと、よく分かるようになって。上手くいったかなって」
「上手い、なんてものではなかったぞ、ラースくん! あれは……あれはっ! えも言われぬ快感! 身体を、頭を溶かす麻薬! どんな葉よりもキたぞ! まさに——」
興奮のままにラースに詰め寄る。記憶を思い起こすように目を閉じ、俯いて言葉を噛み殺し。それから猛然と頭を振ってラースを見上げた。
「〜〜〜っっ絶! 頂!! なのだよっ!」
最早興奮を通り越し、正気を失ったかのように瞳を痙攣させて、小さな山羊は荒い息を吐く。
「……ええと。それってつまり。盛っちゃったてこと?」
「な!? ななな、なにを言う。わわ我輩は……」
若干身体を引きながらも、冷静に受け止めたラースの言葉に対し、バルバトスは何故か動揺してしまって、わずかに視線を逸らした。
「大丈夫だよ。牧場でもそんなふうになっちゃう子もいたからね。それだけ良かったってことで、変なことじゃあないよ」
穏やかな口調で、落ち着かせるように白い毛並みを指で梳いた。二本の角の間に手を滑り込ませると、ピクピクと両耳が反応する。
「わ、わかってる。わかってる……、それでだ!」
誘惑と動揺を振り切るように、山羊は声をあげた。置かれた手は振り切らなかったが。
「お前を連れて来たのは他でもないぞ。この我輩に、直接、お前の『施術』とやらをさせてやろうと思ってな」
「それはいいけど」
小さな山羊の大きな態度に、少し不快に思いながらもラースはうなずく。
「よろしい。では——。さあ、戻るのだ。我輩の本来の姿を見せよう!」
両腕を広げ、バルバトスは受け入れ体勢をとった。大蛇はちらりとラースを振り返ってから、バルバトスへと向かう。そしてもう一つ。樹々の間から黒い影が飛び出し、小さな山羊へと吸い込まれていった。
「え、え?」
「ふ、ふうっ!? ふおおおおおおおっっ!!」
バルバトスが、雄叫びをあげた。複数の存在が混ざり合い、山羊の体を変質させた。驚くラースの目の前で、山羊の手足が伸び、体が肥大し、双角がねじれながら成長する。その背には漆黒の蝙蝠の翼が生成され。短い山羊の尻尾は長大な蛇へと変わり。先端には蛇の頭部が形成されて舌をのぞかせる。
「お、お前、来る途中にも……。い、いや。まあいい。改めて。我輩、バル=バルバトス二世という。よろしく頼むぞ、ラースくん」
ラースを見下ろすほどに成長したバルバトスが手を差し伸べた。その声質と瞳だけは変わりない。顎髭のように垂れ下がる白毛を揺らし、笑った。
「は、はい……」
戸惑いながらもラースは手を伸ばす。その手を掴む直前。
「駄目だ、ラース! そいつは!」
遮る枝葉を無視して飛竜が降下してきた。ラースの頭上で宙にとどまる。
「離れるんだ! そいつは『北限の悪魔』だ! 取り込まれるぞ!」
「なんだ、こんな所に。飛び回るしか能のない『南峰の飛竜』じゃないか」
「ぐっ、お前! ラースから離れろっ!」
ルドラが吠えた。が、それ以上彼は近づかない。打ち鳴らす翼が強風を起こし、地上の二人を襲う。
「え? ルドラ? 悪魔って……?」
「知り合いか、ラースくん? 酷い言い草だ。我輩、そのような存在ではないのだが」
平然と答えた。本来の姿に戻ったバルバトスからは先程までの愛らしい姿は消え失せ、腕も、お腹も、硬く力強い塊が毛皮を盛り上げていた。
「ラースっ!」
再び吠える。しかし、やはり近づかない。彼には近づけなかった。
『北限の悪魔』とは彼らの俗称だ。飛竜たちの間でも知られている。その特性も。ゆえにルドラはそれ以上接近できなかった。姿を変えたとはいえ、見た目だけなら彼にとっては小さな存在に過ぎない。それでも攻め入ることのできないのは、彼らの特性と、それ以上にルドラ自身の問題だった。
「煩い奴だなぁ……」
呟きとともに見上げる。ルドラを捉える瞳が、瞳孔が変化した。横に広がる瞳孔は、中央部から縦にも裂け、輝く星のような十字の形になった。ラースが見ていれば、それは大蛇のもつ瞳と同じものだと気づいただろう。
「う……っ」
ルドラは頭を振った。身を翻して高度をとる。樹々の枝葉が視線を遮るようにと。
「ルドラ!? ルドラに何をしたの!?」
「我輩は何もしていないぞ、ラースくん。彼が行ってしまっただけだ。人のことを貶めておいて非道い奴だ」
「う、うそ……。何かしたんでしょう。おかしいよ、こんなの」
「嘘など言わないよ。さあ、続きをやろう。ラースくんは『施術』をするのが好きなのだろう」
優しく、子供をあやすように。囁く。
「我輩の尻尾を、あの蛇をたくさん可愛がってくれただろう? とても嬉しいよ。とても良かったよ。それに、ラースくんも楽しいんだろう?」
「う……うん。僕、好き、だよ……」
促されるままに、ラースは答えた。瞳に、十字の瞳孔を写して。
「そうだよね。君のこの手は素晴らしいんだ。もっと、もっと、たくさんやろう。君も我輩も、嬉しくなれるんだ」
「ぅ……だよ……ね……。うれしい、よ……」
「さ、我輩のために。それに、皆のために。頼むよ」
バルバトスが合図をすると、周囲が騒めいた。樹々の影から、茂みの奥から、彼の同族が現れた。およそ十数人。蝙蝠の翼と蛇の尻尾を持つ、二足歩行の山羊の姿。いずれもバルバトスよりは頭ひとつ分くらい小柄であった。
「我輩の、部下たちだよ。皆も楽しみにしているんだ」
「あ……」
夕闇に輝く複数の瞳。それを目にしたとき、ラースは胸の奥を揺さぶられた。熱く、涙が頰を伝った。
「ん? どうしたんだい? そんなに嬉しかったかい?」
「すごい……。僕、また。みんなに会えるなんて……」
ぼろぼろと、溢れる涙が止まらずに地面を濡らしていた。ぼんやりと霞かかった意識の中で、彼を囲む羊と同じ形の瞳孔が、かつての生活を彼に想起させていた。
牧草地に腰を下ろし。多くの羊たちに囲まれ。その瞳に見つめられながら『施術』を行って——。
幸せだった日々。満ち足りた日常。今のラースには、バルバトスの部下たちの姿は、かけがえのない牧場の羊たちのものに見えていた。
それは、バルバトスにとって想定外の効果だった。ラースの過去のことなど知るはずもない。ただ偶然にもラースをより深く、術中に陥れていた。その心奪われた状態を、利用しないはずがなかった。
「みんな、生きていたんだね。おいで。また一緒に——」
「彼らと一緒にいたいかい?」
自ら近づこうとするラースの前に立ちはだかり、バルバトスは至近に顔を寄せた。
「彼らは我輩のものなんだよ。ああ、そんな悲しい顔をしないでくれ。もちろん、君の望み通りにするよ。だからその前に。誓って欲しいだけなんだよ」
子供に言いつけるように。しかし穏やかに。強要と思わせないお願い。思考を奪われつつあるラースには、それが見破れない。
「なに……を……?」
「彼らは、今は我輩のものなんだ。だからまずは我輩に従って欲しいのさ」
「あなたに……? そうしたら、みんなと……?」
「そうさ。当たり前のことだよ。君は我輩に全てを捧げて、我輩と、彼らに尽くすことを誓うのさ。君は、そうすることが望みなのだろう?」
「ぼく……は……。……そう……だね……。みんなを……。ちかう、よ」
にいっ。とバルバトス凄絶な笑みを浮かべた。口元を歪め、こぼれ落ちそうになる涎を分厚い舌で拭った。そんな表情に、ラースがもう反応しないことを確信したがゆえに。
「ありがとう、ラースくん。では、膝をついて。そう。両手をついて」
言葉通りに、ラースは従った。彼の頭の中は、これから始まる、新しくも懐かしい幸せな生活への期待に満たされていた。そこにはすでに疑念などかけらも存在しない。
「さあ、誓うのだ。この我輩、バル=バルバトス二世にその身を捧ぐと。そして誓約のくちづけを」
跪くラースの眼前に立ち、自らの蹄を差し出し、そこへ要求する。
「ぼくは……あなた、に。あなたにすべてを——」
皆に会える。皆と暮らせる。それだけで——
「すべてを——ささげます」
熱に浮かされたまま、ラースは言い切って唇を寄せた。
【次回予告】
ラースの怒りが悪魔を動揺させる。
しかし悪魔は諦めない。
制するのは、どちらか
次回、「あ、悪魔かっ!」
よろしくお願いします。




