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第33話 気に入ってくれたんだね

 森の活性化。


 この地に住まう者であれば、皆感じているだろう。魔獣や魔物と呼ばれる存在は、言葉で表現できない者であったとしも、取り込む森からの恩恵を体感しているはずだ。


 故に、油断はできない。皆が力を増すだろう。先んじて早急に手にすべきだ。


 そう判断することのできる一団がいた。他方で、同じく恩恵を感じながらも、日々増してゆく心地良さに身を委ねて、ただ森を徘徊する者もいた。


 彼は後者の存在だった。普段はクルシュナ半島の東部、山岳地帯に属する辺りを根城にしていた。山々は地脈の力が強く、リグルヴェルダスが居た頃であっても比較的快適な場所だったからだ。

 その力は、今や森の縁辺まで徐々に拡大していた。環境を求めて生息範囲を広げる苔のように、彼は足を伸ばしていた。もっとも、彼に足はないのだが。






 先に発見されたのは彼の方だった。気がついた時にはすでに臨戦態勢だった。だが、彼にとって問題はない。その相手はちっぽけな存在だ。そして珍しい。こんな獲物にも会えるのか、と興味をそそられる。滅多に来ることのなかった辺りだったから、彼は知らなかった。


 捕食の予兆に嬉び、目を見開く。全身を引き絞って、地上すれすれから相手を威嚇する。


『……ちょっと大きすぎじゃない?』

『けど、案外見つからなかったしな』


 相手は恐怖に硬直するわけでも、反射的に逃げ出すわけでもない。ただ、小さく唸り声を発しているだけだった。出し入れする舌先で、彼はチリチリとした空気を受け取る。


『あんまり時間もないし、仕方ないか。でも、大丈夫?』

『もちろん!』

『じゃあ、お願いね』


 二つの小さな獲物が駆けた。驚くことに彼目がけて。しかし彼の本能が、しならせた身体を振り、収納された長大な牙を立ち上げ、獲物を毒殺絞殺すべく迫った。


————なにっ!?


 放たれた矢のような彼の動き。それは寸前で(かわ)された。直後に。鋭い爪をもつ小さな手が、彼の口を押さえる。


————ん、ぐ、ぐっ!


 振り解こうと頭を振った。再び牙を出そうと咬筋に力を込めた。どちらも無駄だった。逆に、彼の上下の顎には爪が食い込む。金色の瞳と縦長の瞳孔が彼を威圧していた。


 狩られるのは自分の方——。ぞわり、と全身の鱗がざわついた。彼は気づく。自分の胴体にしがみつくもう一つの存在に。


 反射的に、身体が動いた。彼を押さえつけようとしている小さき者に、長い胴を巻き付け、圧殺せんと筋肉を引き絞った。


『————っ!!』

『大丈夫だよ。それに、このほうが逃げられなくていいかも』


 大型の獣ですら窒息せしめる力が効いていない。自分の胴回りと変わらぬほどの小者が。一飲みにできるほどの人間が。意に介さず自分の体に触れている様が、彼には理解できなかった。


『おい。暴れるなよ。殺すぞ』


 唸り声が、彼の肝を冷やした。鱗は破壊され、すでに血が滲んでいる。涙の一雫のように、地面に溢れた。


『駄目だよ。生きていないとわからないんだからね』

『そ、そうか。そうだよな』


 少しだけ、力が緩んだ気がした。しかし、依然として生殺与奪は小さな手の中だった。巻き付けた尻尾を放そうとしたが、むしろその状態を強要された。だから彼は、全身を硬らせて体勢を維持するしかなかった。






 それは太陽が天頂を過ぎるころまでだった。木漏れ日を受けて、鼻先から尻尾の末端まで全てが温まるのは心地よかった。大地から、森からもたらされる魔素が少しずつ力を与え、充実した気分に浸ることができていた。


 しかしそれ以上に。


 恐怖と緊張が、快楽と弛緩に変わったのはいつからだっただろう。身体を這う手がもたらしたのはどんな魔術だったのか。今の彼は、鼠一匹絞め殺すこともできないと思えるほどにくだけていた。弱体化の危機感すら溶かし尽くすのは、彼の知識にない心地よさと安心感。目を閉じて、彼はそれに身を委ねていた。


「ありがとう、大蛇さん。ごめんね。少し傷つけちゃったね」


 ああ、顎が痛む。そんなこともあったな。そう思えるほどに、彼にとって遠くの出来事になっていた。小さな掌が傷跡をそっと覆い、そして離れる。


『もう行こう。トウサさんのところに寄ってから帰ろうよ』


『こいつは? 狩っていかなくていいのか?』


『うん。一応、練習させてもらったしね』


 声が遠ざかるのを、彼は微睡(まどろ)みながら聞いていた。






「ただいま、ルージュ」


「おかえり〜っ。待ってたよ、ラースぅ」


 完全に陽が落ちる前に、ラースとリグは森から帰還していた。森に向かう時もそうだったが、ラースは走りっぱなしで草原を抜け、戻ってきていた。こうやって身体を使うことが鍛錬になる。森の守護者ウォルフェウにそう言われたこともあり、家と大森林との往復を敢行したのだった。


 普通に歩けば片道で半日近くかかる道程だ。それを『施術』の練習をした上で、日帰りすることができた。それほどまでに彼の身体は以前とは異なっていた。


「はい、これ。森で採った果物だよ。あとトウサさんに薬草なんかも貰ったんだ」


「ありがとう! 私もね、ご飯作ったんだよ」


 嬉々として彼女は台所に誘う。


「これ……、え? すごい、どうしたの?」


 テーブルに並べられた料理はもちろん、ラースが目を奪われたのは、台所に置かれた食材の数々だった。小麦粉の袋。根菜。卵。チーズ。大きな水瓶——。


「あのね、みんなにもらったの。サーラおばさんのとこ行って、村長さんのとこ行って、マルコさんとこ行って。あとテデさんでしょ、モックさんでしょ——」


「え、いつの間に?」


 指折り数えていたルージュは満面の笑みで答える。


「村長さんに紹介してもらったの。それでね、みんなにラースのこと話したら、いろいろ持ってきてくれたんだよ」


「そうだったんだ。ありがとうルージュ。あとでみんなにお礼言わないとね」


「うん! それでね、明日も他の人のとこ行くんだ。今日の人たちもみんな優しいし。ラースのことみんな好きだし。いい村だね」


 頷きながらラースは少し納得した。リグと二人で森へ行くと告げた時に、ルージュは一緒に行くと言わなかった。そのことを彼は意外に思っていたのだ。


「でも、よかった。ちょっと心配だったんだ。寂しかなって。もう魔獣は来ないとは思うけど。ごめんね、一人にしちゃって」


「ううん、私大丈夫よ。そうだ。サーラおばさんのところのあの鶏がね、卵産んだんだって! ちっちゃかったけど、だんだん立派な卵産むようになるって、おばさん言ってたよ」


「本当!? また今度行ってあげられたらなぁ」


 なによりの知らせだった。元気のなかったケイが。役に立ててよかった、とラースは胸を撫で下ろす。


「行こうよ! サーラおばさんはね、いつでも来てねって言ってたよ。一緒に住んでもいいって。あ、でもね。村にはお家を直すのが得意な人もいるんだって。だから、ここもちょっと良くしたいと思うの」


「そっか。それもいいかなぁ」


 ラースは彼女の桃色の髪を撫でた。

 悪くない気分だった。何か、先が開けたような気がした。ルージュがいて、リグがいて。森に行くこともできて。以前の牧場の姿を取り戻すのにはほど遠いけれども。それでも今は、楽しい——


 彼の心は穏やかだった。






『あれ、あそこにいるのって?』


 樹々の先に見えたのは、ここ数日の間に出会ったのと同じ大蛇の姿だった。額に十字の模様を持つ、深緑色の身体。よく見れば、額の模様と同じ形の、特徴的な瞳孔を認めることができた。


 もう少し蛇の身体を確かめたいと思い、ラースとリグは連日森へ入っていたのだった。


『あいつがいるから、他の蛇がいないのかもな』


『ああ、そっか。だったら、この辺りじゃあ小さい蛇は見つけられないかなぁ』


 仕方ないか、と二人は警戒することなく大蛇に近づいていった。そして大蛇の方も二人に気がついて、ゆっくりと身体をくねらせて近寄って来る。そこには初めて遭遇した時の威嚇も、防衛反応もなかった。


「こんにちは大蛇さん。気に入ってくれたんだね」


 腰を落とすラースの前に、太くて長大な胴を見せつけた。自在に姿を変える瞳孔をまん丸に大きく開きながら。大蛇の期待通りに、ラースはそこへ手を当てる。


『オマエ、馴れ馴れしいぞ』


 リグの言葉は、嗜めるかのようにわずかな苛立ちを含んでいた。ラースの背中側で尻尾が揺れる。


『そうだ、リグ。もう大丈夫だと思うんだ。だからさ、行ってきてもいいよ』


『ん? え、ほ、本当か!? いいのか!?』


『うん。気になっていたんでしょ。昨日も手伝ってくれたし』


『お、おう。じゃあ』


 首をラースにすり寄せ、それからリグは翼を動かす。


 一昨日から時折、落ち着かなげな様子を見せていた。呟きに「温泉」という言葉が混じるのを耳にして、この練習が終わったら、とラースは考えていたのだった。


 彼が思う以上に、リグは待ち焦がれていた。それは、リグ自身もこの森の変化を感じ取っていたからだ。森の活性化。魔素の充密を視ることのできるリグには、森の魔獣たちよりもはっきりと、その変化を捉えることができていた。


 であれば、だ。


 ただでさえ心地良かったあの地の温泉だ。今はどのようなことになっているのだろう。思いを巡らす、だけではない。最初に森を離れた時の、ここ数日の、そして今の。魔素密度を測り、その変化率を導出し、それを当てはめる。そんな計算までリグの中では行われていた。


『遠いけど、大丈夫? 場所は覚えているの?』


 森の管理者アリストレアの小屋から、数日かけて戻ってきた。あえてゆっくりとした歩みだったことにラースは気づいていなかったが、その道程など彼には遥か記憶の彼方だ。


『もちろん! それに飛んでいけばすぐだぞ!』


 興奮に、やや上ずった声だ。それでもリグの頭の中では。二点の最短距離を結び、飛行の際の魔力場への干渉具合を考え、到達時間を推測し——。シミュレーションは出来上がっていた。


『じゃあ、トウサさんの小屋に戻ってきてね』


『おう!』


 飛び立つリグを見送ると、ラースは大蛇の僅かな変化を感じた。すすんで『施術』に身を委ねているとはいえ、リグの存在は完全に心を許すものではなかったのだろう。姿勢を変えて長い身体を伸ばす大蛇の姿に、そんな思いが浮かぶ。


「もう少し、陽の当たるところに行こうよ」


 ラースの言葉に大蛇は素直に従った。今やラースはこの大蛇の身体を理解していた。触れた手が体の中に沈み込み、一体となるような感覚。体の中から直接気持ち良さを与えられるような感覚。それは牧場の羊たちに対して感じていたものに等しい。


 どこに負荷がかかっているか、どう和らげればいいか、どこがお気に入りの部分なのか。リグの喉元に匹敵するのは、この蛇では鼻先だ、ということもラースは掴んだ。

 元々は家に来た龍、カロスケイロスのための練習のつもりだったのだが。そのことを抜きにしても、彼は夢中になっていた。


 大蛇の体が温まっていくのが分かった。日差しと『施術』が大蛇を癒していた。陽光はラースにも等しく降り注ぎ、彼の気を緩めるよう誘う。いつの間にか動きを止めて、ラースは大蛇に寄りかかっていたが、大蛇はそれを気にするそぶりは見せなかった。むしろ。身体を曲げて、包み込むように守りながら、自らも微睡(まどろ)む。


 魔獣や魔物たちが活性化しつつあるこの森の中で、それは何とも油断した行為だった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

励みになっています。

これにて第5章完結となります。

この章で出会った者たちは、それぞれ後に関わることとなりますので、覚えていてもらえると嬉しいです。


【次回予告】(次章予告)

ヒトの心を惑わし、欲望を曝け出させ、堕落させる。

それを人は悪魔と呼ぶ。

ラースは森の中で、そんな出会いを果たす。


次回、「契りを結びたく」

よろしくお願いします。

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