第29話 やりすぎじゃないかな
草原の果てに木製の柵が現れた。ここまで、はやる気持ちを抑えて一歩ずつ歩いてきていた。しかしそれは、もう抑えることはできない。速歩から駆足へと。ラースは同伴者を置き去りにする。勢いのまま柵を飛び越えて、その先の牧草地へ身体を飛び込ませた。
——帰ってきた。やっと。帰って来ることができた。
懐かしさすら感じる匂いを胸いっぱいに吸い込んで、彼はその思いに浸った。
「やっぱり、僕はこの匂いが好きだなぁ」
ゴロリと仰向けになる。物心ついた時からあった環境に包まれて、心が落ち着き、満たされてゆく。
空が高く見えた。遮るもののない広い空と平原。森の中では感じなかった解放感。目を閉じて、風の運ぶ変わらぬ空気を感じていた。
とん、と不意にラースは重みを感じた。それに新たな草の匂いも。
「どう? これ、好き?」
目を開くと、胸の上に少女が跨っていた。えへへ、と笑う小さな顔。その姿は何故か裸で。桃色の体は牧草にまみれていた。
「ルージュ!? な、何してるの?」
「これがラースの好きな匂いなのね。私、頑張るからね」
何を。ラースがそう口にする前に。彼女の頭上に小さな龍が舞う。
「離れろ。ソコで漏らす気か」
「なによっ! 私そんなことしないもん!」
羽虫でも払うように手を振って、彼女はその龍——リグを遠ざけた。
でも、ラースがそうして欲しいなら。そう口にし始めたのを聞いて、慌ててラースは彼女を下ろす。
「あーあ、こんなに汚れちゃって。さ、服を着て。行こう!」
牧草まみれの体を払ってやって、ラースは彼女の手をとった。
敷地内に入ったとはいえ、牧場は広い。同じように牧場を営む隣との距離もあるうえに、彼の家が建っている場所までももう少しかかる。摘まれることのなくなり、背丈の伸びた牧草を踏み締めて、彼らは進んだ。
「静かね。全然いないのね。本当にみんなやられちゃったんだ」
見回して、ルージュが呟く。サクサクと音を立てる足元以外は、辺りは静寂に包まれている。そんな素直な感想にラースは胸を痛め、手に力が込もる。
「……少しは。本当に何頭かは、なんとか助かったんだ。けど、それだけじゃあどうしようもなくって。それに僕が森に行くって決まって、その子たちも譲ってしまったから」
「そうなの。ううん、でも!」
表情の翳るラースを見上げて、彼女は声を張る。
「でも、また飼うんだよね! 私達、一緒に住んで、牧場やるんだよね! ね!」
「う、うん。そう。そうなったら、いいよね」
ラースはなるべく考えないようにしていた。家に帰ることができる、という喜びの隙間に押し込めて。ルージュの勢いに押され、彼はなんとか笑顔を向けた。
『あれか?』
緩やかな傾斜の先、リグには小屋が見えた。その近くに建つのは半壊した鶏舎だ。小屋の方も所々壁板が剥がれ、割れ、ささくれた断面が見えていた。
「うん、そう。そうだよ、あれが——って。あれ?」
あるはずのないものがいた。二頭の馬だ。鶏舎の柱に繋がれた栗毛の馬が、足元の草を喰んでいた。そのそばには、牽かれていたであろう荷車も。
「誰かいる!?」
ラースは駆け出していた。心当たりはなかった。久方ぶりの帰宅の余韻に浸る間もなく、彼は勢いよくその扉を開ける。見慣れた我が家を見回す。
「なんだぁお前は? この村のガキか?」
奥から少年が姿を現した。軽装の革鎧を身につけた、ラースと変わらぬほどの背丈の少年だ。少年は胸をそびやかし、入り口付近で立ち尽くすラースに向かってきた。
「き、きみの方こそ、誰なの? ここは、僕の家で」
「お前の、家ぇ? ここは、今、俺達が使ってんだよ。こんなボロ小屋だけどな。ここしか空いてないってな。ま、森に近い分マシだがよ」
斜め下から見上げ、タチの悪いチンピラのように、少年は上目遣いに睨みつけた。見た目は幼い。ラースよりも年下に思える。その為か、ラースはそんな態度の少年から、さほど凄みを感じなかった。
「だから、ここは僕の家で! 貸すとかもしてないから!」
「そりゃあ、おかしいなぁ。ここの家の奴らはよ、皆死んじまったって聞いてるぜ。だから俺たちが、クラン『太陽の頂』が使ってやってんだ」
「な、なんだよそれ。僕は死んでなんかいないし! 太陽——とか知らないから!」
冷静に考えれば。ラースは生贄になると言って出ていったのだ。死んでしまったと思われるのも当然だ。ただ、この時は、少年の態度も、自分の家を貶されたことも。ラースには我慢できずに怒鳴っていた。
「はぁ。こんなド辺境とはいえ、俺たちのこと知らない奴がいるとはなぁ。いいか、ガキ。俺は、今や王都一の冒険者パーティの組織、『太陽の頂』の一員だ」
「冒険者……?」
ラースにはピンとこなかった。もちろんその存在は知っている。けれど現実に目の当たりにしたことはない。ドラゴンと同じく、物語の中の存在だった。
仕方のない面もある。ラースが物心ついた頃にはもう、この村に冒険者が現れることなどなかったのだ。森に住みついた邪龍のせいで、そこを探索する者はいなくなっていたのだから。
「そーだよ。俺は凄腕の冒険者ってことだ。今回の依頼のために、クランから選抜されてここまで来たって訳だ」
「依頼って……。もしかして、リグルヴェルダス?」
「ああ。この村の領主からの依頼だぜ。伝説の邪龍。すげえだろ! 今までは手を出せなかったみてぇだが。正式な依頼だ! 俺達が伝説を斃して、さらに上へ行くんだ!」
少年は自らの言葉に興奮して叫んだ。
一方でラースは落ち着き払っていた。なんで今頃、とか。助けを呼ぶ、と言っていたトウサの言葉とかがよぎったが。それよりも。気配を感じて振り返り、彼はリグと目を合わせた。怒りは哀れみを伴った悲しさへと変わる。
「……それは、無理だと思うよ」
「あ? クソ田舎のガキに何が分かる!? てか、お前さっさと消えろよ。これから兄貴達も来るんだ。それまでにこの汚え小屋を片付けておかなきゃならねぇんだからよ」
「いや、だからね。リグルヴェルダスはもう——」
ひゅう、と風が音を立てた。腰に吊るしたナイフを抜き、少年はその切先をラースの喉元へ突きつける。
「お前さぁ、分かってんの? この俺が————っっ!!!」
パァン!
空気の爆ぜる音が少年の言葉をかき消した。手にしたナイフが音を立てて床に落ちる。少年は声にならない悲鳴を絞り出して、体をくの字に折った。
パァン!
もう一度、破裂音が響いた。鞭による二撃目。それが少年の顔を襲った。次も顔だった。次も顔だった。次はお尻。腿。ガードする手の甲。初撃と終撃は少年の股間だった。
「ラースに何するのよっ!!」
「〜〜〜っ!!!」
悶絶しながら転げ回り。それでもラース達から離れようと、少年は床を這った。
束ねた黒鞭を手に、ルージュが前へ出る。
「え、ちょっと、ルージュ!?」
驚きながら制止の手を伸ばそうとして、視界の端にリグの姿が映った。前のめりに、今にも飛びかかりそうな姿勢の龍の姿が。
ルージュは小さな掌を緩めた。ひとまとめの鞭体は解け、うねる黒蛇のように床の上に散っていった。柄を握り直して彼女は振りかぶる。
「待って! 大丈夫! 僕は大丈夫だからねっ! ルージュもリグもやめてっ!」
慌てたラースの叫びは、辛うじて二人の追撃を停止させた。それでもルージュは少年に近づいて行って、歪む顔を爪先で小突いた。
「て……てめ……ぇ……」
「ラースを傷つけるなんて、私が許さないから」
桃色の髪を掻き上げて吐き捨てるように言うと、一転、たととっと軽い足音を立ててラースのそばへ戻った。
「あ、ありがとうルージュ。でも、ちょっと、やりすぎじゃないかな」
その痛みが理解できるラースは身につまされて、背中を震わせながらその攻撃を思い出していた。
「私、嫌なの。ラースが、あの、狼のときみたいに……。だから!」
「そ、そっか。ううん。ありがとう、ルージュ」
「オレは、あんなのにラースがやられるなんて思わないけどな」
ルージュに理解できるように、わざわざ人の言葉でリグは話した。じゃあ、あの体勢は? と思いはしたが、ラースは口にしなかった。
実際、ラースは驚異を感じなかった。森で魔獣と戦った経験か。短いながらもウォルフェウたちと訓練を積んだ為か。少年の武器からは生命の危機、というものを感じることはなかった。
まあ、脅しなんだろうから、当たり前だよね。
そんなふうにラースは思った。だからこそ、やりすぎ、とも思ったのだが。
「く、そ……お前、ら……」
なんとか言葉を出せるようになった少年が、憎悪の双眸を向ける。その両腕は股間を押さえたままではあった。
「おい、ロイズっ! 何してんだっ! こっちに来い! コイツらをぶちのめせっ!!」
絞り出すように少年は叫んだ。
声に応じて、軽やかな足音が近づいてきた。微かに鼻歌が漂う。ふわり、と艶やかな赤髪を揺らして現れたのは、整った顔立ちの利発そうな少女だった。
「うるさいなあ。私忙しいのだけど?」
「ロイズ! 早くコイツらを——」
「あれ? あれぇ?」
少女ロイズは腰をかがめて、伏したままの少年を笑顔で覗き込んだ。身につけた、足首まで隠れる大きめのエプロンが床を掃く。
「な……なん、だよ」
「相変わらず、なさけないのねぇ、ヤン。やられちゃったんだぁ」
体を起こすと、ロイズの赤い瞳はラース達を追った。
「ふぅん……。子供のドラゴンじゃない。ということは、この少年は魔獣使い? いえ、そんな力は感じないけれど……。あれ? でもさっきの音は」
ロイズの視線はルージュへ注がれた。その手にした黒鞭へと。そして明らかに見下したような笑い声をあげた。
「あははっ。なぁに、ヤン。この子にやられたんだ。こんな小さな女の子に。あなた、本当に口だけねぇ」
「う……、うるせえっ! さっさとコイツらを叩きのめして追い出せっ。さもないと兄貴に報告するぞっ!」
未だ起き上がれずにいるヤン、と呼ばれた少年の恫喝に、ロイズは乾いたため息をついた。
「分かっているわよ。ロウベルトさんが来るまでに、ちゃんと準備しておかないとね。それじゃあ」
彼女は勢いよくエプロンを剥ぎ取った。その下からは、動きやすそうな短めのスカート。胸元に宝具の輝く夕陽色の薄手の上着。一見ただの衣服に見えるが、ヤンが着込んでいるような鎧ではなく、対魔防御に重点を置いた軽装の防具だった。
「悪いけど。この餓鬼の為に、少し痛い目見てもらうわね。それで、消えなさい」
ロイズが詠唱を始める。彼女の正面の中空に変化が生じる。魔術行使の為の魔法陣。青白く輝く陣が、詠唱に反応してゆっくりと生成されつつあった。
「魔法!? 待って! ルージュのことは謝りますから!」
「謝ることないよ。悪いのはソイツだもん。ラースを怪我させようとしたんだからっ」
「やれっ、ロイズ! 吹き飛ばせっ!」
三者の声に、ロイズの集中も詠唱も途切れることはなかった。だが。
ぅぅるがっっ!
リグの咆声が。一息の唸り声が。魔法陣を砕いた。踏みしめられた薄氷のように粉々になり、魔法陣を構成してた魔素は散り散りになる。
「な、何!? なにが——」
動揺しながらもロイズは新たな詠唱を始める。
魔術とは、魔術の詠唱とは、魔素の操作術だ。魔素を操作して特定の配列を生成する。その配列パターンがいわゆる魔法陣と呼ばれるものだ。そしてその配列が意味を持つとき、魔素は変換され魔法という現象が顕現する。
故に魔法陣が完成しなければ、魔法が発動することはない。基礎レベルでの話だ。
ぱきん。
実際にそうした音が発したわけではなかったが、皆がそう錯覚した。ロイズの再度の詠唱にリグが咆声を合わせ、魔法陣が砕け散ったときに。
「どうしてっ? 術が、構築できない!?」
三度目の詠唱。今度は魔法陣が崩壊する前に、と。集中と速度を増した詠唱は、魔法陣をこれまで以上に素早く構築させ、陣は輝きを増し————完成直前で崩れた。それまでの詠唱を嘲るかのように。龍の声と共に。
ロイズは唇を噛んでリグを睨みつけた。
「あ、あなたねっ。何をしたのっ!」
『リグ?』
リグが術を妨害した。それ以上のことは誰にも理解出来なかった。
【次回予告】
リグは冒険者を圧倒し、退ける。
静寂の家の中でラースは涙し、リグとルージュにお願いをする。
彼にとっては過大な、彼らにとっては過少な願い。
次回、「狩ってもいいよな」
よろしくお願いします。




