第25話 僕の望みは
「立ち会う……って、……え? どうして?」
首を巡らすラースに、ウォルフェウは冷静だった。
「案ずるな。なにも命のやりとりをしよう、と言うのではない。戯れ……いや、軽い訓練のようなものだ。——ライ!」
それ以上の口を挟ませずに息子を呼ぶ。
「お前も立て」
促されて、わけも分からずにラースはイシュカの体をそっと脇へ下ろした。すでに寝入っていたイシュカは、目を擦りながら欠伸をして体を伸ばす。
「あれ? まだ終わっていない?」
癒しの光に包まれたラースの体を見て、黒い瞳を瞬かせた。
「問題はあるまい。寝ていて構わんぞ」
「なにする気なのさ、ウォルフェウ」
「お前も気になるのだろう。こいつのことが。あの傷を負って生きていたこと。未だに回復の終わらぬこいつの体。その力を見るだけだ」
ふわり、と霧が一筋漂った。さらにもう二筋。ウォルフェウの体から発した三本の霧はラースの体に纏わりついた。首と両の二の腕へと。そして、より鮮明に形を成す。それはバンダナのような布きれとなって巻きついていた。
近づいてきたライも同様だった。首元と左右の前脚を、霧で造られたバンダナが装飾している。
「ライには言うまでもないが。これは訓練の一種だ。お前達は互いにそのバンダナを奪い合うのだ。どこか一か所奪った時点で決着となる。ただし、互いに怪我をさせるなよ」
「コイツから傷を負うトでも? 親父?」
「さあな。——行け!」
ウォルフェウの号令とともに、ライが疾る。一直線にラースの足元まで。狙うは喉。一瞬体を縮め、跳ね上がる。
「え? ちょっ……まっ——」
全く心構えができぬままのラースは、反射的に両手を交差させて首を守る。そこへライの牙が迫る——ことはなかった。
単純なフェイントだった。地に足をつけたままでライは相手の反応を見、差し出されるように晒された腕のバンダナを易々と奪い取った。
「やったゼ、親父! コイツは、こんナものダロっ!」
あっという間の決着。当然、というように狼は言い放つ。
「ライ、お前……」
「油断してイるコイツが悪イんだゼ。イや、単に反応できなカっただけカぁ?」
睨みつけるウォルフェウの視線をものともせず、ライは洞窟を喜び駆けていた。ウォルフェウは何か言いかけ、ただ頭を振った。
「あの……ごめんなさい……」
謝ったのはラースの方だ。彼は、何か申し訳ない気持ちになっていた。
「……まあ良い。次。ヒョウ!」
「オウ!」
再び霧のバンダナが両者にセットされた。
今度はちゃんとやらないと。決意を持ってラースはヒョウを見据えた。
ラースは昔から狼というものが嫌いだった。森に入ってウォルフェウ達に襲われる前からだ。それ以前に狼から何か被害を受けたというわけではない。牧場を襲うような狼がいたわけでもない。
それでも、幼い頃から聞かされた物語の中では、狼は常に悪者。残忍な略奪者。それゆえ、実際に遭遇したことはなかったが、悪い印象しか持っていない。ラースの中では、魔物のように悪しき生き物だと印象づけられていた。
だけど。とラースは思う。
「オ……おィ……ヒョウ……」
今、こうして。実際に触れたその感触は。
ラースにとって、変わらずに心地良いものだった。牧場の皆や、イシュカや、リグ。皆同じ、暖かくて、生命を感じることができる。自分の『施術』に素直に反応してくれる。で、ある以上。彼には、悪い生き物だとは到底思えなかった。
「ラース……?」
寝ぼけ眼だったイシュカが不思議そうに目を見開く。余さず見定めていたウォルフェウは言葉を失っていた。
動き回り、虚を突いて飛びかかったはずのヒョウの体は、ラースの片腕で制されていた。地に押さえつけられた体はもがくも、その腕からは逃れられない。ヒョウは伏せの姿勢で、ラースの掌の下から逃れることができなくなっていた。
「キサ……マ……っっ!」
自分の動きに反応されたことも、単純な力で太刀打ちできないことも、ヒョウにとっては全くの想定外だった。飼い犬のように愛撫されることは屈辱でしかなかった。
だが、さらに悪いことに、穏やかな表情で触れてくる彼の手に抗うことができない。立ち上がろうと四肢に力を込めると、その手の動きで意識を逸らされる。体を捻ろうと試みれば、その手の柔らかな刺激が、力を逃す。
すでにラースはヒョウの体を押さえつけることに力を使っていない。そのことにも気づけずに、ヒョウは未知の感覚に翻弄されていた。
——なんだこいつは……。俺に何をしている? なぜ俺の体は……
そっと脇腹を押された。普段晒すことのない腹部が天を向いた。ぱすん、と尻尾が地面を叩く。
——まずいっ。これは……。俺が……ぁ……。
訳の分からぬ不安と恐怖が、やんわりと嬉びに変わってゆく。それはまるで。遠い過去。母の舌に整えられたときのようで、暖かさに体が蕩けていた。
じわりと滲んだ涙の向こうに、ヒョウにはそれが天からの蜘蛛の糸に見えた。嬉びに霞む目の前に、自らのお腹を撫で回すラースの腕があった。
戦いの高揚感と緊張感。それが完全に溶解してしまう寸前に、垂らした舌を仕舞って、ヒョウは懸命に牙を剥く。その牙は、辛うじて霧のバンダナに届いた。
「オ、親父ィィィーーーーッ!」
絞り出すような叫びに、ラースは我に返った。
「あ」
手の動きを止めないまま、奪われたバンダナと腕を見つめる。
呆気に取られていたウォルフェウ達もまた目を醒ます。
「おい、貴様……。いつまでやっているかっ!」
「ご、ごめんなさい。つい夢中になって……」
手が離れてもなお、ヒョウは動けないでいた。ふっ、ふっと短く息を継いで目を瞑っている。それは余韻に浸っているようにも見えた。
「貴様、真面目にやる気はない、ということか」
「そういうわけじゃないんですけど……」
本能的に、という程ではないが、羊たちを愛でるような扱いが自然と出てしまっていたのだ。言い訳にもならない想いにラースは言葉を詰まらせる。
「駄目だよ、ウォルフェウ。こんなの、ラースになんの得もないじゃないのさ」
「得……だと? つまり褒美がなければ動かぬ、ということか。ならば、お前は何を望む」
「え……いや……。僕の、望み……?」
その言葉に、ラースは視線を落とした。目の前には体を横たえる狼。一番の望みは、かつての牧場での日々。そして、皆の仇を討つこと。もう決して戻らないことと、すでに実現してしまったことだ。
だから、今やらなくてはいけないことは、
「僕は、村に帰って伝えなきゃいけないんです。だから、今の僕の望みは。この森を無事に出て村に帰ること、です」
その思いを口にして、ラースは立ち上がった。遠くを見据えたような表情に、力が秘められていることをウォルフェウは感じ取る。
「そうか。ならば。次にお前が勝利したならば、儂はお前を護衛し、無事この森の外まで連れて行こう。《震脚》の群れを潰したとはいえ、森に危険は多い。注意すべきは魔獣だけではないからな」
最後にウォルフェウはシグレを呼んだ。三たびの狼との対峙。瞬間、先日シグレに傷付けられた時の情景がラースの脳裏によぎる。イシュカの言葉によれば、致命傷を負わせられた相手。眼光を受け止めると身震いした。
(ううん。今度は、勝つ)
頭を振って、ラースは前傾し全身を緊張させた。
対峙するシグレに油断などなかった。ライの時はともかく、ヒョウに対してはその動きに対処し、力で上回った。捕まったら振り解けない。あるいはスピードでも。その危惧がシグレの動きを慎重にした。一定の距離を保って、ラースを中心にゆっくりと円を描く。
先に動いたのはラースだった。掌を向けて、逡巡するシグレ目掛けて一直線に駆ける。シグレには、まるで腕が伸びたように見えた。巨大な掌が自分を包み込むように感じた。
「なにっ!」
紙一重だった。辛うじて軌道を逸らし、飛び退いてシグレは首を守った。風がバンダナを揺らす。
「ああっ、もう少しだったのにっ」
勢い余って通り過ぎたラースが振り返る。体制を整える前に、シグレは大きく距離をとった。
「お前は、やはり——」
最後まで口にすることはできなかった。ラースの攻めが続く。しかし、一定の距離を保つシグレは初撃と違って多少の悠度を持って避けることができていた。ラースの動きは単純で、常に最短距離で迫るのみだったから。
とはいえ、攻めは途切れない。回復の光に包まれたラースは、輝く軌跡を残して洞窟内を駆け回っていた。
「もうあんなに動けるんだ。それなのに、まだ回復が終わらないなんてさ」
「つまり、今でも万全ではないと?」
「だよ。ちょっと怖いくらいかも」
驚きながらもラースの動きを目で追うイシュカは、憧れに似た感情を宿していた。
「本当に良かった。ラースを癒すことができて。ねえ、ウォルフェウ。キミと息子たちのせいで失うところだったんだよ」
「結果的にはな。だがあの時は……いや——」
ラースの言ったことが本当であれば、だ。ウォルフェウには、不相応に思えなかった。今の彼であれば《震脚》の王に挑んだとしても。たとえ勝敗は別にしても。その資格くらいはあるだろう。
傷を負いながらも自分に向かってきた意志の強さもある。恩人と言ったリグの為に自らを捨てる覚悟も見せた——
「何を考えているのさ、ウォルフェウ?」
「良い戦士になるな、と。未熟ではあるが、その素養はあるぞ、奴は」
口の端が緩んでいることにウォルフェウは気づかなかった。そんな彼を見上げて、イシュカはなぜだか嬉しく思えた。
「何だ、シグレ。逃げてばかりじゃネえカ」
「黙りなさいっ!」
傍らではライが囃し立てていた。ライには、これまでのところ、シグレの攻め手が見えていなかった。自分であれば、ラースの手を空振りさせた隙にその腕のバンダナを狙うこともできたかもしれない。それが、ぼんやりとしたライの感想。
しかし、シグレはより慎重に。確実な勝機を狙っていた。そのことにライは気づかない。
壁際に追い詰められたシグレは、ラースの追撃を避け、重力に逆らって壁面を駆ける。それでもラースは追いすがる。魔獣に襲いかかった時のように、天井近くまで登ったシグレ目がけて跳躍する。
彼の力は、余裕でその高さまで達することができる。しかしそれは、同時にラースの動きの自由を奪う。
「力はあるようだけど」
「あっ!」
ただ追うことに夢中になっていたラースがようやく気づく。逆にシグレは、彼のこれまでの動きから、予測していた。その脚力ならばこの高さまで届くだろう、と。天井を蹴って、狼は上方からラースに迫る。
躱せぬ空中で二人が交差する寸前。ラースは両手でシグレの体を押さえにかかる。シグレはその身体を霧へと転じる。
「うわぁっ!?」
霧に包まれたままラースは着地した。それでもまとわりつく霧は晴れない。視界が白く染まった。シグレの姿が見えない。どうすればいいかわからないまま、ラースは自らの体を抱くように腕を回してバンダナを守った。
「これで終わりね」
どこからか声が聞こえた。しかし相変わらずラースはその姿を捉えることはできない。周囲にいるはずのイシュカたちの姿も、霧の薄膜に影のようにしか映らない。霧の粒一つ一つから狙われているような気がして、ラースに焦りが生じた。霧から抜け出そうとするのは、自然なことだった。
走り出そうとしたラースは気づく。ぼんやりと見える足元の地面。そこに落ちたバンダナに。
「あれ、これって」
自分のものではない。慎重に体を屈め、それに手を伸ばす。そして不意に理解した。体を霧に変えたのだ。当然纏っていたものは落ちる。だからこれは。
「——あっ!」
聞こえた声を無視して、ラースは駆けた。彼の動きについてくることができずに、霧は置きざりにされる。
「やった! やったよ! 僕、取ったよ!」
霧の向こうにいたウォルフェウへ向かって、バンダナを突き出した。はしゃぐラースに対し、ウォルフェウは渋い表情だ。無言でラースを見下ろすだけだった。
「これでいいんだよね? 僕、勝ったんだよね?」
「——いいえ、まだよ」
ラースは背後から体を引き倒された。尻餅をつく彼の首から、バンダナが奪われる。彼の手にしていた戦利品は溶けるように崩れ、消えた。
「それは、私が造ったもの。ウォルフェウ殿のものではない」
「……え、うそ。そんな……」
仰ぎ見たシグレの首元には、前脚には、変わらずに霧が巻かれていた。
「これで終わり、でいいですよね。ウォルフェウ殿」
「そうだな、ここまでだ」
ウォルフェウは重々しく終了を宣言した。
【次回予告】
訓練を終え、狼たちにも気後れしなくなったラースは、狼に対して『施術』を始める。
それは狼を完全に溺れさせるもので、彼らのラースへの思いは変化してゆく。
一方、守護者筆頭はラースの力を認め、ある提案をする。
次回、「何の問題がある?」
よろしくお願いします。




