第23話【昔話】楽しみに待っています
その12
——どうして、我慢できないの?
——どうして、もう少し、待ってくれないの?
——どうして、決断できなかったの?
イシュカの元に向かいながら、パールの心には後悔と悲しみと怒りが入り混じっていた。
「せめて、間に合って……」
不意に、力が抜けた。纏った風の精霊の力が逃げた。彼女は墜落し地面に転がる。それは『濁り』の空間へ突入したことを意味していた。浄化したばかりのはずの『濁り』の発生は、イシュカが力を使ったことを、使う相手がいたことを、現実としてパールに叩きつけた。
「ブラウ!!」
戦うイシュカと守護者たちの姿が、樹々の間から遠くに認められた。襲いかかる守護者の攻撃から守るため。アリストレアから貰った精霊の力、自らの体内の力を絞り出して彼女は術を行使する。
光の壁が、イシュカを守った。
「姉さん!?」
イシュカが駆け寄る。守護者たちを伴って。
「みんな、やめて! ねえ、聞いてよ! 生まれたの! 新しいアリストレア様が生まれたのよ!」
叫ぶパールに、守護者は立ち止まった。彼女もあまり会ったことのない守護者筆頭。淡青な縞模様が鮮やかに映える、白虎の獣人。名をナバグといった。
彼は傷ついていた。小さく無数の裂傷が生来の模様のように全身を覆い尽くしていた。イシュカもまた毛皮を自らの血に染めている。それでもイシュカは笑顔だった。
パールは大柄な獣人から目を逸らさずに、言葉を待った。同時にイシュカに手をかざして治療を施す。
「姉さん、すごい! アリストレア様、生まれたんだね!」
治癒を受けながら、イシュカは自分のことのように喜んだ。
「本当かぁ、パールちゃん。やったな」
返答は、頭上から訪れた。
「それは重畳。狩りには良き日だ」
声は、樹々の奥から届いた。
「——では、新たな管理者様に捧げよう。《邪精》の獣を」
虎の両の掌に、青白い炎が生まれた。炎は銛を型造る。半ば実体のないそれを掴み、守護者は放った。
「やめてっ!」
パールの新たな光壁が阻む。しかし遮られた銛は再び炎と化す。形の自由を得た銛は、光壁を舐める様に回り込み、パールの体を包んだ。
「パールちゃんっ!」
「姉さん——っぐぅっ!!」
黒い翼が飛び込む。一方でイシュカは動きを止められていた。
影がイシュカの体を這っていた。足先から螺旋状に首元へ。獲物を締め上げる蛇のように纏わり付くそれは、厚みのない黒影の蜥蜴の姿をしていた。蜥蜴はイシュカの首に喰らいつき、呼吸を阻む。
「来たか。そのまま押さえておけ」
片手に残った炎を再び武器に変えて、守護者ナバグは放った。
標的は捕らえた。邪魔者は排した。これで終わりだ——。
誰もが思った。守護者の銛がイシュカを貫くと。《邪精》の獣を断罪すると。
弾丸のように飛び出したマーヤは、かすかな呟きを聞いた。彼が触れる直前、パールの体が不自然に浮き上がった。立ち上がる動作を見せないままの、何かに持ち上げられたかのような動き。その身を曝して彼女は二度目の炎を受けた。悲鳴すら上がることはなかった。
「ね……えさ……」
足元に転がるパールの体から見えない力が放たれた。その精霊の力はイシュカの体に触れ、輝き、縛る影を退ける。
「姉さん! 姉さんっ!!」
「まずいっ!」
自由になったイシュカが触れるよりも早く、マーヤがその体を確保した。動かぬ体を鉤爪で掴むと、上空へ飛び上がる。
「あ……か、返せっ!」
イシュカの詠唱が精霊に働きかけた。守護者たちが『濁り』と呼ぶこの空間に満ちた精霊に。『濁り』はイシュカの支配する空間だ。全ての変質した精霊が従う。
「引き裂け! 切り刻め! 全て吹き飛ばせ! 姉さんを、ボクを傷つける奴らを! 全て飲み込めっ!」
その13
青白い炎に包まれたはずのパールに外傷はなかった。守護者ナバグの炎は、肉体的な破壊をもたらさない。代わりに、生物の構成する魔素や精霊といった、非物質的な要素を破壊するものだった。
イシュカの術は全ての守護者たちを巻き込んでいた。マーヤは堪えきれずにパールの体を放した。皆が荒れ狂う精霊の力に抗う隙に、イシュカは姉の体を抱き上げて、その場から駆け出していた。
「姉さん! ねえ、起きてよ! 早く治癒しないと! ねえっ!」
必死の呼びかけにも、彼女の反応は微かだった。ほとんど聞き取れない声に、イシュカは触れんばかりに顔を近づける。
「……ブラウ……手を……」
「姉さん、これ……!?」
そっと触れた掌から力が流れ込んでくる。それは極僅かの量であったが、腕を伝い胸のあたりに留まって、それからイシュカの体内へゆっくりと拡散していった。巡る精霊の力は、イシュカの宿す精霊に働きかけ、目覚めを与える。
ぴくっ、とイシュカの体が小さく震えた。邪悪なモノをふるい落とすかのように。その感覚にイシュカは、自らが使う術との決定的な相違を感じ取る。
「これが、正しい、精霊の力……。感じ、て……」
——もっと早くこうすれば良かったのかな。本当はブラウ自身で気がついて欲しかったの。それが貴方を、貴方だけの精霊使いにするはずだったから——
「分かるよ! 分かったから。もういいから。姉さん、早く!」
「きっと、つかえるように……なる……ゆっくりで……いい、の……」
精霊の姿が見えた。普段からイシュカには見えているもの。それは森の中でも、あらゆる生き物たちの中でも、命を支える源の一つとなって存在していた。
今は、イシュカには見えない。目の前の姉の体からは、ほとんど。
「姉さんっ!!」
強く手を握りながら絶叫した。その意味を理解して。
「姉さん、ボクが——」
その先は言葉に出せなかった。ボクが治癒する。そう言いたかった。でも、どうすればいいかなんて、イシュカにはわからない。
パールの口元がわずかに綻んだ。
「……いまは、いいの……。でも……つぎは……。ちゃんと……そのときには……あなたの、大切なひとに……」
「待って! ボク、ちゃんと精霊術を使えるようになるから! もう、変な力は使わないで、これからは姉さんと同じように治癒できるようになるから! お願いだよ! 待って! それまで待ってよ!」
「ありがと……ブラウ……だいす……き……」
精霊の力を根源まで失った霊獣は。その存在を維持できずに、消滅した。一条の光をたなびかせて。
「姉さん! 姉さん!! うわああああああ〜〜〜っっっ!!!」
その14
地面に伏して号泣するイシュカを、虎の豪腕が引き起こす。長い両耳を掴んで吊り上げると、低く喉を鳴らしながら睨みつける。しかしイシュカはただ遠くを見るばかり。濡れた瞳は虎の姿を水面のように写しているだけだった。
「貴様ぁっ!」
地面が抉れるほど強く、イシュカの体を叩きつけた。短い悲鳴と、肉のちぎれる音が響いた。ナバグは再びイシュカを自らの眼前に晒す。
「うがぁぁぁっ! 貴様よくも! この俺に、管理者様の生母を!」
「お前が……姉さんを……」
うわ言のようにイシュカは呟く。もう、戦う意思も、力もなかった。イシュカの最後の術で深傷を負いながら、ナバグは衰えることなく吠えた。琥珀色の瞳からは憚ることなく涙が流れる。怒りに腕を震わせ、掴んだイシュカの耳に爪を食い込ませた。
「元凶はお前だよなぁ、イシュカブラウ」
乱れ、切り裂かれ、抜け落ちた全身の羽毛を振るって、マーヤはナバクの腕にとまった。イシュカの瞳をくりぬかんばかりに嘴を突きつけた。
「貴様が《邪精》の術を止めないからだろう?」
遅れて、ウォルフェウが姿を現す。彼もまた無事ではなかった。その歩みに血痕を残しながら、イシュカへ迫った。
「ボク……? ボク、が……?」
心に亀裂が走った。
「パールちゃん、言ってたよなぁ。何度も言ってたよなぁ。そんな術は使うなって。パールちゃんは知ってたんだ。俺ら守護者が見逃さないってなぁ」
マーヤは軽く跳んで、イシュカの肩口にその鉤爪を食い込ませた。
「けどよぉ、お前、止めなかっただろ。いつまで経っても。お前は知らないだろ? パールちゃんはずっと『濁り』を浄化してたんだ。毎日、毎晩、お前の術の痕跡を消すためになぁ」
「それが原因でパールは消耗していた。それがあいつの重要な役目に悪影響を及ぼすなら、なおのこと、儂らは見逃せないな」
「ボクは……ただ……。早く……、精霊使いになって、姉さんを手伝いたくて……役に立ちたくって……だから……」
「何が精霊使いだっ!」
ナバグが腕を振り上げた。一瞬早くマーヤは飛び立つ。直後にイシュカの体は地面に向かって投げ捨てられた。
「貴様が、それを口にするなっ! 貴様は彼女の足を引っ張っただけだ! 貴様が殺したんだ。新たな管理者様の生母を!」
「……ちがう……お前が……」
「最後に訊くがよぉ、イシュカブラウ」
仰向けに転がるイシュカの胸に飛び降りて、マーヤは汚れた顔を覗き込んだ。
「お前、なぜパールちゃんを連れて逃げなかった? 俺から奪ったんならよぉ、なんでこの『濁り』の外へ逃げなかったんだ。あぁ?」
イシュカは答えなかった。答えられなかった。何を問われているかもわからなかった。
「あぁ、あぁ、やっぱりお前は。何にも知らねぇんだ。《邪精》を使うお前にはわからないんだな。パールちゃんがこの『濁り』の中で精霊術を使えないことなんて」
「え……? ウソ……だ。姉さんは。さっきだってボクを守ってくれて……。ボクの傷を治してくれて……」
「確かに使ってたなぁ。可哀想に。俺には精霊は見えないが。わかるんだ。パールちゃんは自分の体に宿す精霊の力を使ったんだ。《邪精》に歪められて、周囲にまともな精霊の力がないならよぉ。そうするしかないよなぁ。パールちゃんは命を削ってお前を助けていたんだぜ」
イシュカには考えも及ばなかった。自分が術を使えているんだ、姉さんが使えないはずがない。そう思っていた。しかしマーヤの言葉は、パールの最後の姿を裏付けていた。精霊の姿を見ることができなくなったパールの体を。
同時に、残酷な事実からも逃れられなかった。気づいてしまった。
「そんな……もし、ボクが……」
「そうさ。この『濁り』から離れていれば。パールちゃんは助かったかもしれなかったんだぜ。それをお前は! お前がパールちゃんを殺したんだ!」
「ボクが……ねえさんを——」
言葉はイシュカの心の薄膜を揺らす。すでに生じていた亀裂を成長させ、それは蜘蛛の巣のように広がり。砕いた。
その15
「ごめんな、パールちゃん。最後の願い、やっぱり受けてやれねぇよ」
消えてしまう直前にパールが放った伝言。ブラウを許してほしいという願い。マーヤは哀悼を込めながらも頭を振った。
「ナバグ殿、マーヤ。最後は儂が。コイツには息子たちのこともある」
ウォルフェウが歩み出た。提案にしばし躊躇い、マーヤは飛び上がる。ナバグは未だ涙で毛皮を濡らしながら無言で頷く。
霧の塊がイシュカの体を起こす。狼の牙が首筋に添えられる。ゆっくりと、少しずつ肉を裂く。長く後悔を味わせるために。
イシュカも抵抗しなかった。短い手足も、長い両耳も力なく垂らし。狼の処刑を待つまでもなく息絶えてしまったかのように、目を見開いて、何処ともなく宙を映していた。
獣の顎が完全に閉じられる前。ぱきん、と小さな音が響いた。そして少女の声が問いかける。
「ねぇ、どこに行っちゃたの? 私、あの子の力を追ってきたのだけれど」
突然現れた場違いな少女の姿に、守護者たちは驚愕し、奮えた。
「お前……いや、貴方様は。まさか——」
「私? 私は、うん。アリストレア。あの子はそう呼んでいたわ」
一見恐ろしげな守護者たちを前に、物怖じすることなく、少女は答えた。
「あの子、そういえば名前も聞いていなかったけど。ねぇ、私に力をくれた子。ここで途絶えてしまったみたいなの。知らない?」
ナバグは膝を折り頭を垂れた。隣にマーヤが降り立ち、イシュカを解放したウォルフェウが同様に伏せた。長年の関係。少女アリストレアは少し戸惑い、すぐにそれが自然なことだと認識した。
「ご生誕おめでとう御座います。アリストレア様。ここには一部の者しか居りませんが、守護者一同を代表し、このナバグが祝辞を申し上げます」
「彼女、貴方を生んだパールは、ここで力尽きました。残念ながら、今はもう……」
懸命に感情を殺し、マーヤは言葉を濁した。
「そう……なのね。残念です。彼女の力はとても気持ちのいいものだったのに。とても残念です。でも」
傅く守護者たちの間を抜けて、アリストレアは伏せるイシュカの体にそっと触れた。
「ねぇ、大丈夫? 貴方はちょっと似てるのね。ええと、パール、と同じ力を感じるわ」
「……ぅ……ねえ……さ、ん……?」
少しだけ、イシュカは力を感じた。パールから最後に受け取った精霊の力。それに近しいものをアリストレアから感じた。体内に浸透していったものが反応し、生きる意思も希望も失ったイシュカの心と体に働きかける。
「あなた……は……? ねえさんと……おなじ……」
「私、アリストレア。そう、パールって貴方の姉さんなのね。だからなのね」
覗き込む少女の姿は似てはいなくとも、宿す力はパールのもの。イシュカは胸が熱くなって、仰向けのまま涙を零した。
「ボク……ボクを側に……。あなたと一緒に……いさせてください……」
イシュカは懸命に体を動かして、手をついて涙混じりの言葉で少女に懇願した。
「ボクはまだ……姉さんのようにはできないけど……。絶対に……ちゃんと精霊の力を使えるようになるから……。姉さんみたいに、あなたの役に立てるようになるから……。お願いです! ボクに、姉さんとの約束を守らせてください!」
新たな管理者アリストレアは、全てを受け入れるかのように微笑み。イシュカを救った。
「分かりました。楽しみに待っていますね」
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで昔話完結です。
合わせて第3章も終了し、次回より第4章となります。
次回の第24話は第20話の続きになりますので、第20話を読み返していただけると嬉しいです。
【次回予告】(次章予告)
癒し手は涙し、蕩ける。
守護者筆頭は驚愕し、息子は溺れる。
少女は歓喜し、龍は満たされる。
中心には、羊飼いの少年がいた——
次回、「大切なひと」
よろしくお願いします。




