第21話【昔話】少しの間でいいから
その1
イシュカブラウは霊獣と呼ばれる存在だ。霊獣とは、物理的な実体を持たない精霊と、魔力を持たない獣の中間のような存在。ゆえに彼らは精霊術に親和性が高く、人並みの知性を持ち、人語を解する。
しかしその当時、イシュカは精霊術が使えなかった。
リグルヴェルダスが君臨する前の森は、現在よりも強大な魔獣や魔物に溢れ、争いに満ちていた。管理者アリストレアが話したように、ある意味活気があり、蠱毒の壺のように混沌とした、暴発寸前の力の集積する場所だった。
そんな危険な森ではあったが、イシュカは平穏に暮らしていた。なぜなら、そんな状況が当たり前の日常であったから。そして、イシュカには、拠り所となる存在がいたから。
「じゃあ、行ってくるね、ブラウ」
そう言ってイシュカの頭をそっと撫でたのは、同じ兎の姿をした霊獣だった。
「うん。行ってらっしゃい、姉さん。でも、早く帰ってきてほしいな。ねえ、次はいつになるの?」
気持ちよさそうに目を細めながらイシュカは尋ねる。
「そうね、二、三日くらいかなぁ」
「そろそろボクも一緒に行きたいんだけどな」
「まだ駄目よ。ちゃんと精霊術が使えるようになったらね。それまでは、これは私の役目だから」
離れたくなくてぐずる姿は見慣れたものだった。出かけるたびに繰り返される、儀式のようなやりとりなのだ。
「わかっているんだけどさ……」
だから、これもいつもの行為だ。イシュカの言葉を遮って、姉は顔を近づける。お互いの鼻先を触れ合わせ、頭を傾けて額をくっつける。彼女はイシュカのふっくらとした頬を両手で包んだ。
「大丈夫。きっと使えるようになるわ。焦らなくてもいいの。私たちには時間もたくさんあるのだから」
その2
わずかに樹々の開けたこの場所は、イシュカのお気に入りだった。疎になった植生のおかげで、陽光がたっぷりと降り注ぐ。温かな光は柔らかな獣毛を膨らませ、それは日が沈んでも昼間のように体を包んでくれる。下草の匂いを空気と共に含ませて眠るのは、姉のいない夜でも心が落ち着いた。安眠することができた。
「精霊を見ることはできるんだけどなぁ」
仰向けに寝転がりながら、空に向かって手を伸ばして、宙を掴む。
——精霊の見え方、感じ方は人によって違うの。
姉の言葉がよぎった。
だから具体的には教えられるものではない。ただゆっくりとこの森の中に自分を委ねて。その言葉に従い、一人でいるときイシュカはなるべく森のいろいろな場所を巡っていた。恐ろしい魔獣に出くわすこともあったが、逃げ足と、いち早く危険を察知する力はあった。
そんなイシュカの大きな耳が、異音を察知した。
すぐに起き上がって、方向を確認し、離れるように大木の後ろに隠れる。
「冒険者だ、あれって」
男女二人組の姿が見えた。男は重厚な金属鎧で身を固めた、典型的な人間の戦士。女の方はより軽装。羽織った外套から覗く尖った耳と褐色の肌からして、亜人の一種、ダークエルフと思われた。
二人までの距離はまだ十分に離れていたが、イシュカには冒険者たちの会話が十分に聞こえる。その内容に、イシュカは自分の心を抑えることができず、木陰から飛び出して姿を晒していた。
この時の出会いが、霊獣イシュカブラウにとって運命と呼ぶべき転機となった。
その3
人の背丈ほどの若木の前で、イシュカの姉パールは術を続けていた。彼女が得意とする精霊術は、回復と浄化だ。それらを駆使して、彼女は精霊の力をこの若木へと注いでいた。
「今回もご苦労様です。パール」
彼女が一息ついたところを見計らって、老齢の女性が声をかけた。
「アリストレア様!」
嬉しそうにパールが叫ぶ。森の管理者にして、パールの精霊術の師匠。彼女が絶対の信頼と尊敬を寄せる相手だった。
「もう少しですよ、アリストレア様。あと幾度かで、この樹は『宿り木』として満たされます」
「それは良い知らせです。そうなれば、貴方ともお別れですね」
微笑みを絶やさずに彼女は頷いた。ほっそりとした腕を伸ばし、パールの頭を包み込む。
外見はともかく、老齢というのは正確ではない。彼女は人間でも、霊獣でもなく、実体を持たない精霊と呼ばれる存在なのだ。
「そう……ですね。でも、アリストレア様には申し訳ないのですが。私、嬉しいのです。私が新たな『宿り木』を生み出せるなんて」
「それで正解ですよ、パール。代替わりは行わなければなりません。貴方の力で生まれるのです。貴方はいわば、新たなアリストレアの産みの母親となるのですから」
はい、と素直に頷いて、パールはしばしアリストレアの掌に体を委ねた。
「その時には、皆でお祝いをしましょう。守護者たちも皆呼んで。継承の儀、私の終わりと、始まりを祝ってもらえると幸いです」
その4
「よう、もう帰るのかぁ?」
数日に渡った今回の役目を終え、パールは帰路に着くところだった。それを呼び止めたのは森の守護者の一人、マーヤだ。見た目は大きな鴉。全身を艶やかな黒色の羽毛で覆われた彼は、ウォルフェウと同じ、歴とした魔獣の一種だ。
「ええ。また数日後に来るわ。それでね、マーヤ。もうすぐ私の役目も無事終わるの。分かるでしょう? アリストレア様は生まれ変わるのよ」
「そいつは、ああ。目出度い。目出度いねぇ。けどよ。帰るなら気をつけな」
枝の上から飛び降り、くるりと宙返りして、パールの眼前でホバリングする。軽やかな振る舞いからは重々しい言葉が発せられた。
「『濁り』を見かけたぜ。自然のものかはわからないがな」
パールには分かっていた。彼の態度が何を意味するかを。だから、ため息をついた。
「わかったわ。私が浄化してくる。というか、マーヤ。そのつもりで待っていたのでしょう?」
「さっすが、パールちゃん。それじゃ案内するぜ」
その5
マーヤが先導するまでもなく、パールはいち早く察知した。
『濁り』とは精霊の活動の偏りだ。それは自然にも、人為的にも発生する。精霊術の行使も、自然な状態を歪める、という意味では『濁り』をもたらすと言える。しかしそれらはすぐに解消する。周囲の正常な精霊の働きが場を均すからだ。通常はそういった復原力が働く。
だが、『濁り』が固定化されることもある。そうなると精霊の働きに干渉するしか手段はなくなる。それが浄化であり、パールのような精霊術の使い手にしかできないことだ。
「おいおい、広がっているじゃねぇか。この嫌な感じ。滲みるぜ」
そう言って羽毛を震わせるマーヤの側で、パールは言葉を出せなかった。『濁り』となった空間は確かに不快をもたらす。しかし、彼女が感じたのは不快よりも、驚愕と怖れ。
「ブラウ!!」
ほとんど悲鳴に近かった。『濁り』の奥にその姿を認めて激しく動揺した。
「姉さん! 来てくれたんだね!」
満面の笑みで、イシュカは駆け寄ってきた。その周囲には歪な姿の精霊たちが漂っていて、数日ぶりの再開にも、パールか思わず後ずさってしまった。
「姉さん、見て! ボクさ、精霊術使えるようになったんだよ。ほら、姉さんなら見えるでしょ」
続く詠唱に、精霊たちにもたらされた変質に、パールは全身の毛が逆立つ恐怖に襲われた。
精霊術を使うものには、その姿が見える。とはいえ、それはある種イメージに過ぎない。ゆえに各々の見る精霊の姿は千差万別。
そもそも精霊術を使えないマーヤには、『濁り』は暗雲立ち込める陰鬱な空間として感じるだけだ。しかしパールにはそこに存在する精霊の姿が見えている。
普段パールが見ている精霊の姿は、球形の綿毛だ。ふわふわと空中を漂い、あるいは大地を雪のように覆い、あるいは樹々に寄り添う。生物の体にも精霊は宿る。それゆえ精霊術は身体の回復を行うこともできる。
しかし、今、眼前に見えているものにパールは身震いした。同じ球形でも、赤黒く澱み。過度に熟し、腐敗した果実のよう。存在しないはずの悪臭すら感じられた。
パールとイシュカが居るのは『濁り』の外側だった。そこは正常な精霊が存在する空間。それがイシュカの術によって変質した。パールの見る精霊は歪に貶められた。
「ブラウ……あなた……。どうやってこんな——」
「教わったんだ。ボク、どうしても姉さんみたいに精霊の力を使いたくってさ」
それは無邪気で、純粋な笑顔。パールは一層身体を震わせた。
「教わったって、誰に! 誰にこんな! ねえ、ブラウ! あなたにはこれが、どう見えているの!」
「誰って、姉さん。あの冒険者の女の人だよ」
振り返る視線の奥で、血のように赫いマントが翻った。そこに居たはずなのに、パールは気がつかなかった。
「君の言った通りね、ブラウ。本当に綺麗。まるで雪粧花のよう」
パールの真っ白な毛皮を見て、女は感嘆し、歩み寄る。
「でしょ。姉さん、すっごく綺麗でしょ」
「ええ。それじゃあ、お願いね」
「うん。さ、姉さん。行こう」
イシュカはパールの手を取った。その瞬間に、パールは何かが体に侵入してくる感覚に襲われた。それは周囲に漂う歪な精霊のようで、自らの体を司る精霊たちを侵食し、腐敗させられるようなおぞましさに囚われた。そんなパールに構わず、イシュカは手を引く。
「パール! そいつは——っ!」
マーヤの叫びに、パールは我に返った。その眼前で、羽ばたくマーヤに向かって大剣が振り下ろされる。
『光体よ、お願いっ!』
反射的にパールは術を発動させた。
光壁が斬撃からマーヤを守る。冒険者の男による強力な一撃を完全に遮断し、その上で男の体ごと弾き飛ばす。
「マジかよ……お前より強くねえか?」
「ちょっと意外。回復だけって思ってたけど。ますます欲しくなったかも」
「悪いな。助かったぜ、パールちゃん。狙いはお前ってことかぁ?」
マーヤが割って入った。冒険者たちを見下ろし、羽を逆立てる。
「行きな、そいつを連れて。俺はこいつらから色々聞きてぇからなぁ」
その6
「何? 何なの、姉さん?」
「黙って!」
珍しく、イシュカに対して声を荒らげた。精霊の力を使い、半ば強引にイシュカを引っ張って駆けてきた。十分に距離をとり、安全を確かめてからパールはイシュカを草むらへ転がす。
褐色の毛皮。お腹の部分だけはわずかに白い。そこへ手を当てて、パールは探る。体内に存在する澱みを。それを捉えるとすぐに浄化の術を施した。
「なんともない、ブラウ?」
「大丈夫、だけど。どうしたの姉さん」
ブラウ。と強い口調で言いかけ。パールは自らを落ち着かせるように胸に手を当てた。
「あれは私の使う精霊術ではないわ。あなたの使ったのはね。精霊そのものを歪めて使う、邪精と呼ばれる術よ。『濁り』をもたらす、とっても危険な、この森を害してしまう術なの」
「精霊術じゃあないの……? でもあの人はそう言ってたよ。ボクが精霊術を使えないって言ったら、すぐに教えてくれたんだ。使い方を」
「それは、その人が知らないだけ。だからね、ブラウ。この森で生きる私たちは、こんな術を使ったらいけないの。分かるよね? この術はもう使ったらダメよ」
諭すように。落胆させないように。そしていつものように鼻先と額を突き合わせる。イシュカのわずかな震えが伝わった。
「ゆっくりと、感じて。精霊の力を満たしていって。焦る必要はないのよ」
「うん……。ボクはさ。姉さんを早く手伝いたいんだ。アリストレア様の役に立ちたいんだ。もうすぐなんでしょ……。だから」
「ありがとう、ブラウ。大好きよ」
そう言って、パールはイシュカの頬を撫でた。
「——それじゃ、俺は帰るけど」
突然声をかけられた。彼女が振り向くと、いつから戻っていたのか、マーヤが空中に佇んでいた。見たところ怪我もなく、元気そうだった。もっとも、守護者たる彼を傷つけられる存在など、そうそういるものではないと知ってはいたが。
「マーヤ、あの冒険者たちは?」
「それ訊く? あぁ、逃げたよ。とりあえず、叩きのめしてやったから。くくっ。驚いてたぜ、奴ら」
じゃあな、と鴉は飛び立つ。
「待って、マーヤ。このことは——」
「あぁ、早いとこアリストレア様へ報告しておかないとなぁ」
当然、という口調にパールは動揺する。息を溜め、決心して言葉を継いだ。
「お願い。このことは、アリストレア様には言わないで」
「冗談だろぉ、パールちゃん。俺は守護者だぜ。冒険者が暴れるのはど〜でもいいがよぉ。邪精の術だろ。森を破壊する奴を黙っていろってか?」
「今は、ダメなの。アリストレア様も大事な時期で……」
「こんな時期だから、じゃねえのか? 『濁り』が広がったらどうするんだ? アリストレア様に影響が出たらどうするんだよ。だろ? ……それとも、ああ、そうかそうか。お前」
「マーヤ!!」
必死な叫びだった。その言葉をここで出させるわけにはいかなかった。
「もう少しなの! 少しの間でいいから! あの『濁り』だって、私が浄化するから! 他の『濁り』が現れても、私が全部浄化するから! だからお願いよ、マーヤ!」
鴉は無言で見つめていた。しばしの間に思考を巡らせ、
「……『邪精の術を使う女冒険者がいる。『濁り』を産む危険な奴だ。まあ、俺が追っ払ったけどな。一応気をつけな』ってとこか」
不満げに想定し、飛び去った。背後の感謝の言葉も聞かずに。
【次回予告】
癒し手と守護者と管理者の物語。
イシュカを守りたい。役目を果たしたい。
パールのそんな想いは理解されない。
そんな中で、彼女は役目を完遂する。
しかし、イシュカの方は止められず——
次回、「もっとずっと一緒にいたくて」
よろしくお願いします。




