第16話 もう準備できているんだけど
長い抱擁の末にラースが上体を起こすと、眼前には褐色の兎の顔があった。兎は鼻先をひくつかせながら目を合わせ、ポツリと呟く。
「……不思議な奴」
「え……? あ、あなたが助けてくれたんですか?」
獣人、なのだとラースは思った。実際、獣人という存在をあまり見たことはなかった。滅多に行くことのない街まで出た時に、遠目で見かけたくらいだ。彼はその姿を珍しそうに凝視していた。
「ボクは癒しを施しただけ。キミらを助けたのはアリストレア様さ」
小さな口から流暢な言葉が紡がれた。どこか不満げだった。兎は直立して後退し主を迎えた。ラースもしがみついたままの二人を脇に下ろして、兎に倣って立ち上がる。
「僕たちを助けてくれて、ありがとうございます。ええと——」
「アリストレアよ。そしてこちらがイシュカブラウ」
「イッシュでいーよ」
毛皮に覆われた小さな手が差し出された。癒しを司るその手は柔らかく、温かい。そっと触れているだけで心まで温まるようであった。
「アリストレアさんはね、偉い人なんだよ。この大きな森全部をね、守っているんだって」
「管理者だよ、アリストレア様は。ボクもウォルフェウたちも、アリストレア様の下でこの森の平穏を守っているんだ」
癒し手イシュカが正確に言い直す。二人の言葉を聞いて、ラースは握っていた手をゆっくりと放した。恐る恐るアリストレアの顔を伺う。
『ああ、そんなことを言っていたな』
いつの間にかリグはラースの肩に乗っていた。離れるものかと言わんばかりに、その長い尻尾を腕に巻きつけている。
『なら、アイツの仲間、か』
空気が乾いたものへと変わる。ラースの腕にリグの怒りと緊張が伝わる。有耶無耶のまま姿を消したウォルフェウを思い出し、力が入っていた。ラースは慌てて片手でリグの首を抑えた。
『だ……ダメだよ、リグ。この人は僕たちを助けてくれたんだよ。リグだって怪我を治してもらったでしょ』
『別にいらなかったぞ。オマエを傷つけた奴らの仲間だ』
『でも、僕を治してくれたんだよ』
添えた手で喉を撫でる。ぴくんと素直に反射が起こることに、ラースはほっとする。くるくると喉を鳴らす音に嬉しくなる。いつものリグだ、と。
『ん……、ラースがいいなら、な。けど、次は……』
そして、力が抜ける。
『うん。その時はね』
「貴方、龍の言葉が解るのね。リグ様はいい伴を持って幸せね」
二人のやりとりを見ていたアリストレアは平静だった。ラースが怖れていた様な感情は見えなかった。ただ満ち足りた様な笑みを浮かべて、母親の様にリグの様子を見守っていた。
「あ、あの。アリストレアさん」
「何かしら。傷のほうは、もう大丈夫だと思いますが」
「は……はい。いや、そうじゃなくって。あの、僕——、ごめんなさい! あなたの森を、こんなに壊してしまって。さっきも言われました。元に戻るまですごく時間がかかるって。僕にできることならなんでもします! だから、それで、許してください!」
勢いよく頭を下げた。傍らでルージュが同調した。しがみつくリグは特に動きを見せなかったが。
「その様なことは不要ですよ」
穏やかに言って、アリストレアは二人の肩に手をあてる。
「それについては、私たちにも非がありました。ですから、ええ、おあいこ、ということにしましょう」
「アリストレア様、ホントにそれでいいの?」
イシュカが主の薄衣を引く。この様な物言いの時、アリストレアが何かを含んでいることは長い付き合いから分かっていた。大抵がイシュカにとって非常識な、納得できないようなことだ。
「ええ。もちろん、この様な破壊が軽々しく許されるものではありません。しかし、今回は」
彼女の意識はラースの肩の上。その眼差しは歓びに揺れる。
「これが縁で貴方に会うことができました。リグ様。貴方たちに必要なのは謝罪ではありません。休息です。ですから、どうかついて来てくださいませんか? 身体を休めるには良い場所があるのです。きっと気に入ると思います。」
「ありがとう、ございます」
ようやくラースは頭を上げた。敵意のない表情に、ラースの心が緩む。森に入って以来、彼が出会う者は皆攻撃者だった。リグやルージュが向けるものとは違う、包み込まれる様な好意を彼は感じていた。
「それでは。その場所までは少しかかりますので——、イシュカ」
不安な様子の兎は、管理者の声に頷いた。すぐにその身体に変化が起こり始める。
「じゃあ、私がラースを」
『ラース。オレに掴まれ』
ルージュが左手を引く。リグが飛び上がって、右手を握りしめる。ラースを挟んで二人は顔を見合わせ、しばし牽制しあった。先に口を開いたのはルージュだった。
「リグ、無理しなくていいよ。疲れてるんでしょ。なんかおかしいよ」
心配は半分だけ。指摘の通り、リグの飛び方はぎこちなかった。ルージュがすぐに解るほどに羽ばたきが強く、その回数が多かった。浮いているかの様な飛翔ではなく、小鳥の羽ばたきに近い。
一方リグは。それには答えずに、鼻先をルージュに向ける。
「オマエ、なんか、臭うぞ」
容赦ない言葉に一気に顔色が変わった。ラースの手を握り締めたまま、ルージュは半歩リグから退く。
「えっ、や……。ちがっ。違うからね、ラースっ。これ……っ。何よっ。リグが悪いんだからねっ!」
「何でオレが」
困惑するラースを間にして、二人の視線が交錯する。
「あのさ、もう準備できているんだけど」
姿を変えたイシュカが兎の前脚で地面を叩いていた。
少し短めになっています。元々の話が少し長めだったので分割しました。今後もおおむね6千字を超えそうなら、分割しようと思っています。
【次回予告】
森の管理者に誘われて、ラース達は体を癒す。
久しぶりに心落ち着けることのできる場所で、曝け出す。少しだけ、接近する。
次回、「我慢できないよ」
よろしくお願いします。




