第14話 今、ここで
とても穏やかだった。平坦で外音のない世界の中で、ラースは過去の自分の姿を外部から見るかのように思い出していた。
すぐには殺さない。
術の効果が進行している間に、リグルヴェルダスはそんなことを言っていた。きっとそれは、術の完成とともに幼き自分を守らせる為にそうしたのだと、今のラースには思う事ができた。
ううん。
しかし、彼はすぐに首を横に振った。たとえそうだったとしても、今、リグを守りたいのはそんな理由ではないのだから。
その少し前には。
時間を? 吸収?
苦痛に苛まれながら聞いた言葉だ。だからリグルヴェルダスは若返ったのだと。
ああ、それなら。
消えゆく命の中で、ラースが術を戸惑う理由はなかった。
自らを制していた狼が走り出したとき、ルージュはその姿を目で追っていた。白磁のような両の爪をもって、ラースの顔を、喉を裂く様を見てしまった。溢れる血が地面を広がり、吸い尽くされたように崩れる姿を目に焼き付けてしまった。
声を上げることもできなかった。ただ全身が激しく震え、涙が溢れ、愛しき人の姿さえ見えなくなるほどに視界が濁った。
「情けない。二人もいて抑え込めないなんて」
ルージュの元から飛び出した細身の狼が仲間を詰る。返り血を浴びた毛皮からはすぐに血が分離し、足元に流れ落ちた。美しい銀毛は、何事もなかったかのように輝きを取り戻していた。
「親父殿ハ、殺せとは言っテいなイぜ」
「そうだ。出過ぎ、ダ」
「こいつはウォルフェウ殿に歯向かった。それで十分」
伏せるラースの頭を前脚で踏み、当然とばかりに胸をそびやかす。
「お前モ抑えられテないじゃねェカ」
「ならば、奴モやってきナ」
二人の視線に促され、細身の狼は振り返る。
「あれハ、お前の相手ダロ」
ウォルフェウとリグ。その間にルージュが立ちはだかっていた。膝を震わせ、とめどなく頬を伝う涙をそのままに。歯を食いしばり、あらんかぎりの力で鞭の柄を握りしめて、真っ直ぐに巨狼を睨みつけていた。
頭を振ってウォルフェウが制しなければ、忠実な部下はそのまま飛びかかっていただろう。相手がどんな矮小なものであっても。
「お前も、奴の後を追うか」
ウォルフェウは静かに問う。反応はない。返ってきたのは、勢いのない鞭の先端。それは白銀の霧をすり抜け、力なく落ちる。
一息吐いてウォルフェウはルージュに、いや、その背後のリグへ歩を進めた。何度も襲う鞭を避ける必要はない。ルージュは無言のまま懸命に鞭を振るうが、全てが手応えなくすり抜ける。
ついにはウォルフェウの前脚がルージュの体と接し。重なり。そこに存在しないかのように通り抜けていった。
「うぅ……」
小さく、短く、嗚咽を漏らした。ルージュは反転し、自分の身体よりも大きな前脚へ飛びついた。しかしそれも、触れることすらできず。勢いのまますり抜けて、躓き転がる。
俯くルージュの眼前を、再び獣の脚が追い越してゆく。ルージュは四つん這いで追いかけ、震える身体で懸命に立ち上がり、リグを見下ろすウォルフェウの前に小さなその身を投げ出した。動かぬリグの体に覆いかぶさった。
わずかな時間、ウォルフェウは震える小さな背中を見ていた。そして、ついにルージュの肩に前脚をかける。
ラースの拳やルージュの鞭を避けたときにウォルフェウが使用した、《霧化》という特性は自在だ。攻撃に対して無意識に発動することもできる。だが今は、実体を持った爪がルージュを捕まえ、軽々とリグから引き剥がした。そのままリグの首元を押さえつける。
「うぅっ、ひぐっ……」
ルージュの体は小石のように転がり、仰向けになって止まった。必死に抑えていた心に亀裂が走る。
「あ、あ、ああああぁぁぁ〜〜〜っ! ひ、ひぐっ、ぅわあぁぁぁ〜〜〜〜〜〜っっ!」
感情が爆発した。堰を切ったように溢れた悲鳴が大気を切り裂く。ルージュは仰向けのまま空に向かって号泣した。自己の全てを絞り出すような叫びが、森に響き渡る。
狼たちはその姿を、見覚えのある自らの姿と重ねていた。それは哀悼の遠吠だ。仲間を失った際に溢れるもの。彼女自体は排除対象ではない。それゆえ共感はできた。ルージュにとっては、身勝手な共感ではあったが。
刑を執行するはずのウォルフェウもまた、動きを止めていた。なぜこれほどまで。勝ち目などないというのに。命を賭してまで守る対象なのか。そう自問していた。歯向かわなければ見逃すだけの存在だ。むしろ、守護者たる自分が手を出してはならない生き物なのだから。
絶叫するルージュの勢いは長くは続かず、次第に低い啜り泣きに変わる。周囲に静寂が戻りつつあった。狼たちはその変化を以て決別を想う。
すべきことは変わりないがな。そう思いながらウォルフェウはルージュから視線を逸らそうとして——できなかった。
ルージュは再び立ち上がった。ラースから受け渡された鞭を手にウォルフェウへと対峙する。先と同じように涙を流しながら。違うのは巨狼の姿を映す瞳。憎しみと決意は消えていた。
流れの中で回転する水車のように。引き絞られた弩が矢を放つように。そう動くように造られたもののように、機械的な所作でルージュは鞭を振る。その先端は緩く宙を進み、ウォルフェウの獣毛へと埋もれた。
「なん、ダ……?」
「親父殿!?」
狼たちが驚愕の声を上げる。当たるはずのない攻撃が、ウォルフェウを襲っていた。傷を負わせるほどの威力はない。鑢のような表面が艶やかな毛にまとわりつく程度でしかない。しかし、引き戻された鞭先は次も同じようにウォルフェウの体を捉えていた。
「ウォルフェウ殿! 何をしているの!」
「まさカ、情を出しタ……ってことカ?」
「バカな。そんな訳ガあるカ」
——なぜだ? なぜ、変わらぬ攻撃に《霧化》が発動しない?
突如ウォルフェウの脳裏に、あるイメージが浮かび上がった。体内を侵食する樹木の根の姿だ。神経のように張り巡らされた根が内部から彼の体を固定し、《霧化》を防いでいる様子。
彼は想像上の根の侵入地点へ目を落とす。『根』をイメージさせたのは。
「儂の魔素を————!?」
偶然か、意図したものか。彼の前足の上には小さな手が乗せられていた。その鋭い指先が毛皮の中に潜り込んでいた。
リグの瞼がゆっくりと開かれた。金色の瞳が白銀を映し、漆黒の瞳孔が針のように収縮したと同時に。ウォルフェウは自らの力が一気に吸収されていく感覚に襲われた。久しく味わうことのなかった戦慄に全身を震わせた。
「貴様、いつから!」
驚愕と共に振り払うと、小さな体は二転三転し。距離を置いたところでリグは頭をもたげた。
『——少し、回復したぞ』
誰に言うでもなく、喉を鳴らした。
「……リ……グ……?」
無感情に鞭を動かしていたルージュが気づく。おぼつかない足取りで歩み出し、
「リグっ! ラースが! ラース、が……」
近寄ることはできなかった。動けなかった。彼女が感じていたのは、無数の刃に全身を貫かれたような幻覚。全身を硬直させて、ただ立ち尽くす。
リグとは何度も言い合いをした。不快を露わにした姿も見てきた。しかし、それらとは次元が違う。決してルージュに対して向けられたものではない。しかし無分別に撒き散らされたものの余波を受けただけで、彼女は動きを止め、すぐに脱力して尻もちついていた。
『オマエら! オレのっ!! ラースをぉぉぉっっっ!!!』
地の底から響くような重い唸りを発した。リグは翼を空打ちし、広げた。小さな両手で獣の様に大地を掴み。長い首をしならせ。牙を剥き出し。この瞬間にも飛びつきそうな姿で。瞳だけを動かして、視殺せんばかりの鋭い眼光で狼たちを順に射抜いた。
広がる波紋の如く、鳥たちが一斉に飛び立った。動ける獣たちはその中心から遠ざかり、小さな者たちは擬死したかの様に活動を止める。
「此れ程とは……」
最も近くに立つウォルフェウが唸る。まるで嵐のただ中にいるようだった。銀毛は、あるはずのない暴風を感じて乱れ、靡いていた。意識を貫く見えぬ力は、極低温の刃が流血させることなく肉を断つ様に似ていた。
離れてラースの元に立つ狼たちも同様だった。四肢の爪を懸命に突き立て、断崖にいるかのようにしがみついていた。そうしなければ吹き飛ばされてしまう。あるいは——彼らは認めないだろうが——逃げ出してしまう。そう感じていた。
「こいつハ……真なのカ……!?」
「あァ。逆鱗——ってことカ」
息をのみ、リグとは違う意味で歯を食いしばっていた。発動寸前の魔法を目にしているようだった。それも高濃度の魔素を変質させた、極大の破壊魔術だ。かつて対峙したこの森の暴君が放つ所を、幼き彼らはウォルフェウの背後で見ていた。
わずかに足元を震わせながら、細身の狼は懸命にリグを睨み返していた。
「だが、奴が! まともに動けるはずがない! 行くぞ!」
自らを鼓舞するように吠えて、先頭を切って駆けた。待ち構えるリグに対して、身を屈めて低く跳躍する。
伸ばした前脚の爪とリグの牙が交錯する直前。狼の体が霧と化した。リグの牙が空を噛み、前のめりに体制が崩れる。
「死ね」
リグの背後の宙空で、狼が実体化した。鼻先には細い首元。
《霧化》を使う配下の狼は、その首領ほど扱いが自在ではなかった。自らの特性とはいえ、本能のまま行使するのと修練を積み重ねた後では、当然完成度が異なる。修練を怠っていた訳ではないが、とりわけウォルフェウのように、攻撃に対して半ば自動的に発動できるようになるには彼らは若すぎた。
無論、彼女は自覚している。だから動き出す前に準備をした。このタイミングで《霧化》ができるようにと。
リグはウォルフェウが使用した《霧化》を見てはいない。初見の相手には決定的な効果だ。予定通りの攻撃だった。しかし。
が、ふっ……。
狼の牙を染めたのは、自らの血だった。その腹部をリグの尾の先端が貫いていた。
リグは魔素を視る。魔力場の変異を感じ取る。迫る相手の稚拙な魔素の乱れが、このまま素直に攻撃が訪れるとは予想させなかった。その上で、どんな方策だろうと対応できる自信もあった。流れる魔素とその集積が位置を教え、振り返ることすらせずに尾を動かしただけだった。
リグは動きを止めない。体を捩り、その力を加えて右手の方向に尾を振るった。
「なっ!」
貫かれたままの狼の体が、もう一頭を襲った。一拍置いてリグの左右から飛びかかっていた狼のうちの一頭だ。二頭は激しく体を打ちつけて地面に転がる。
その反動を利用し、逆方から迫るライの前脚を小さな手で払った。長い首を湾曲させて牙の差し合いを制し、側方から首筋へ食らいついた。自分に向かう狼の勢いをそのままに、倒れる二頭の元に投げ捨てる。
最初の狼が跳躍してから、わずかな時しか経過していなかった。流れるような攻防は、武闘家の演舞を見ているようですらあった。
『燃え尽きろ、獣』
低く後方に飛び上がり、リグは息を深く吸う。熱がその顎に生まれる。塊となった地上の狼たちに向けて炎が放たれた。
狼たちとリグとの間に、白い壁が現れた。濃密な魔素を含んだ、白霧の幕だ。それが配下を守る。炎と霧は反応し只の蒸気となって立ち上っていた。
「お前たち、引け」
「親父殿! オレハまだ!」
ウォルフェウの命に、最もダメージを受けていない一頭が立ち上がる。
「オレも、ダ……」
遅れてライが続く。喉元を赤く染めてはいたが、その傷は浅かった。戦いに支障があるほどではない。
「引け! シグレを連れて行け! こいつは儂がやる。今、ここで! こいつは確実に仕留めねばならぬ」
たとえ弱っていても。幼くとも。ドラゴンという強大な種に連なる者だ。それが森を害した以上、野放しにする訳にはいかない。生かしておいては将来、手に余る存在になる可能性がある。かつて現れたリグルヴェルダスのように。
そう決意させたのは、守護者としての当然の矜持だった。
【次回予告】
龍狼は大切なものの為に戦う。
互いに消耗する彼らの前に現れたのは——
次回、第2章最終話「新たな王」
よろしくお願いします。




