第11話 もう一度
走るラースの背中から、リグはずっと視線を外さなかった。すぐにその姿は樹々に遮られて見えなくなったが、それでも無言のまま意識を向け続けた。人間よりも遥かに優れた五感全てでラースを捉えていた。
その思いは不安と忍耐のせめぎ合いだった。
だがルージュは違う。声をかける間もなく行ってしまったラースに、困惑するのは当然だった。
「何で? ねえ、あなたラースと何か話してたでしょ。ラースはどこに行っちゃったの?」
問いかけるも反応はない。もう一度、ねえ、と迫るもリグはただ前方だけを見ていた。
「奴らを倒しに」
「やっつけるの? あんな大きな魔獣を? どうして? 逃げることできたんだし、いいじゃない?」
「ラースの家を襲った奴らだ」
短く。簡潔に。それ以上は察しろ、と言わんばかりの響きだった。怒気を孕ませた唸りにルージュは息を呑む。
昨夜小さな魔獣を倒した後、リグはラースと話をしていた。その時に聞いていたのだ。同じ種類の魔獣に襲われたことを。それは今倒した魔獣よりもずっと大きく、群れを成していた。
「——だからこの小さな子供を倒せても、そいつらにはきっと敵わない。いつかは仇を討ちたいとは思うけれども」そう寂しそうにラースは語っていた。
「けど、ラースにはアイツのかけた術があるだろ。それを使えば」そのリグからの問いには、曖昧に表情を崩しただけ。リグに答えは返ってこなかった。
「わ……私、心配なの。一緒に行こう?」
「駄目だ!」
歩き始めたルージュを鋭く制する。
「アイツは、ここにいろ、と言った。オマエと一緒に」
「で、でも、私。怖いよ。ねえ、ラースは大丈夫なの? あんな強そうなやつ倒せるの? あなたは心配じゃないの?」
ラースのことを想うほどにルージュの不安は高まる。それと同時に自分自身への不安も。岩のような鱗に覆われたリグの表情は読めない。揺れる尻尾は怒りか不安か。
「お願い。一緒に来て。お願いだから!」
居ても立ってもいられなくなって、ルージュはリグの尻尾を掴む。引っ張ってでも。そう思って力を込める。しかし宙に浮かぶリグは動かない。
「放せ」
「イヤ! 一緒に来て!」
強く握りしめる。小さな手が紅く染まるほどに。それでもリグが尻尾を振るうと、勢いに堪えきれずに彼女はよろめき離してしまう。
ラースが行ってしまってから初めて、リグは前方から視線を逸らした。ルージュを冷たく見下ろし、
『アイツは、そんなふうに——』
ルージュには理解出来ない言葉で言いかけて、固まった。長い尻尾を腹側に回し、枕を抱くように短い両腕で抱え込む。羽ばたく翼以外、時が止まったかのようにそのまま動かなくなった。
「……え? ちょっと、リグ……?」
そうしていたのはわずかな時間だった。
その間にリグは結論を出した。
仇目指して駆けるラースの胸中は、怒りと高揚感。ほんの少しの悦び。それらは魔獣たちの姿を捉えたときに爆発した。
魔獣にラースたちを追う意思は無かったのか、あるいは負傷した仲間を気遣ったのか。先ほどの洞穴の周辺からほとんど移動していなかった。
「うおおおおおっっっ!」
魔獣に対して一直線に駆けながら、ラースは自然と叫び声を上げていた。
火傷を負っていた魔獣と、ひと回り大きな古傷の魔獣。向けられた敵意、殺意に先に反応したのは古傷の魔獣だ。目前に迫るラースに対して前脚を振り上げる。
ラースの胴より太い金槌が地面を撃つ。同時に大地が激しく揺らいだ。低木が折れ、巨木すらみしみしと音を立てて幹を揺らした。
その威力と範囲は昨夜の小物とは比べものにならない。宙には枝葉が舞い、地面からは雨水を吸った泥が撥ね上がった。洞穴は、その一撃で完全に崩落していた。
(リグの言った通りだ)
空中でラースは得心する。駆ける勢いのまま、攻撃の直前に跳んでいた。その跳躍は身長の何倍もの距離を詰め、巨獣の頭上に達する高さをもたらしていた。
両手を組み、振りかぶり、重力と全体重を乗せて魔獣の古傷へと打ち下ろす。
ごずっ。
鈍い音と共に巨体が揺らぎ、僅かに膝が折れた。
「あああああっっ!」
着地するなり、ラースは拳を打ちつける。魔獣の横面へと。顎へと。技術的なものは何もない。ただ、全力で。
魔獣の頭部が揺れる。徐々に頭が下がる。突き出た鼻先が地面に触れんばかりに落ちる。
「やあっ!」
思い切り地面を蹴って、脚を振り回した。
どぐっ!
重い水嚢を打ちつけるような音。次の瞬間、吹き飛ばされたのはラースだった。泥を跳ね上げ、地面を転がりながら、太い幹に衝突してようやく体が止まった。
「——え?」
視界が泥色に染まる。痛みと吐き気が襲う。状況を把握できないまま、散らばった草木を踏みしめる音の接近に気づく。
火傷を負った方の魔獣だ。頭を地面すれすれまで下げ、湾曲した牙先をラースに向けている。
魔獣が駆けた。木の幹ごと串刺しにするべく。
ラースは動けなかった。避けないと。その思いと共に湧き上がる。迫る牙が記憶を抉る。白い槍に貫かれた羊たちの姿。真っ白な体を血に染め——
(こいつがっ!)
一呼吸のうちに迫る牙を前に、ラースは手を伸ばす。体に触れる直前に抑え込む。
勢いまでは殺せない。木の幹へと押しつけられる。たが、牙自体はそれ以上ラースを襲うことはなかった。歯を食いしばり、魔獣の頭を押さえつけながらラースは立ち上がった。
魔獣は蹄が地面を抉るほどに力をかけていた。それでもラースの力を上回ることはなかった。体重にして十分の一にも満たない相手に対して、頭を上げることすらできない。焦りから息を荒らげ、窮屈な姿勢のまま片脚を上げた。
それは、ラースに対しては単なる隙。何が起こるかは既知。
ラースは押し下げる力を抜き、横方向へと牙を振った。びきっ、と潅木が折れるような音。続いてバランスを崩した巨体が倒れる。魔獣はその特性ではなく、自らの体で地面を揺らすことになった。
ラースの手元には、折れた牙。それを持ち変え、叫び声を上げながら魔獣の頭部へ突き刺した。
「お前が! お前があぁっ!」
何度も。なんども。これは復讐だ。皆の仇を討つんだ。その怒りに身を委ねて、かつての自分にはなかった力で、彼は魔獣を打ちのめす。
魔獣は立ち上がれなかった。分厚い肉が致命傷を防いではいたが、ラースの一撃一撃は素早く、重く。彼の武器と化した牙は次第に血に染まる。このまま攻撃が続けば、魔獣の命を奪うだろう。
しかしラースは手を止めた。古傷の魔獣が近づいてきていることに気づいたからだ。
「そんなの、くらわないよっ!」
魔獣が前脚を上げるのを見て、身構える。もう何度も体験している。
それに昨夜、ラースはリグから聞いていた。「こいつらは、前脚で地面を撃つことで地震を起こすという特性を持っている」「ただし魔素を伝えるために、脚をついた後わずかに動きが止まる」「だから、地震さえ避ければ隙ができる」と。
まあ、飛んでるオレには関係ないけどな、とも言っていたが。
ラースは魔獣が脚を下ろすのに合わせて駆け、魔獣に向かって跳んだ。今度は牙を持ったまま。素手でさえ一度は効いたのだ。
今度こそ。
魔獣の前脚が地面を撃つ。大地が、樹々が揺れ——なかった。振り下ろした脚はそのまま曲げられ、反動を活かして魔獣は跳躍した。
ラースがその牙を避けることができたのは奇跡的だった。身体を捩り、二本の牙の間に回避し、わずかに掠める程度にやり過ごした。だがその後に続く、頭からの激突を避けることまでは不可能だった。
「がっ!」
完全にカウンターとなった攻撃は、ラースの体を上方に吹き飛ばし、枝をいくつも突き破った後、地面に叩きつけた。
傍らには既に魔獣が立っていた。フェイクではない、魔素を込めた前脚の打ち下ろしが襲う。
ラースは頭を狙ったそれを辛うじて両腕で受けた。強大な質量に全身が軋む。受け止めることができたのは驚嘆すべきことだ。が、続く衝撃に悲鳴を上げさせられた。大地を揺らすはずの力が、ラースの体に直接注ぎ込まれていたのだ。
「があああぁぁぁっっ!」
筋肉が、骨が、内臓が、脳が。揺さぶり、粉々に砕かんばかりの振動が全身を駆け巡った。叫びと共に血が溢れた。心臓が破れんばかりに強く早く拍を打ち、巡る血液が沸騰しそうなほどに熱を供給した。
「こ、こん……な、の……」
二撃目が加えられた。受けられようが魔獣にとって問題はない。不可避の衝撃が壊すのだから。力はラースの体をすり抜けてなお、減衰しつつも地面を砕き。魔獣自身の体重も相まって、ラースの体を埋め込んでいった。
三撃目。四撃目。既に受け止める、という状態ではなかった。両腕は力なく顔の前に置かれただけで、何の抵抗にもなっていない。頭部を踏みつけられるたびに、反動でそれ以外の身体が跳ね上がり、糸の切れた人形のように落ちる。ゆさぶられ続けた頭は正常な認識も出来ず、唯意識だけを保っていた。
つなぎ止めていたのは、皆への想いだった。止めに入って差し貫かれた両親。踏み潰され、喰われた牧場の仲間。
(——チャンスだったのに。何で僕は)
後悔する。
(——みんな、こんな辛い目に遭って殺されたんだ)
涙が溢れる。
(——許さない)
もう幾度攻撃を受けたか。想いに怒りが混じる。
許さない。僕が仇を。
思いにも、身体は動かない。感覚も薄れ。感情だけが膨張する。
魔獣の攻撃は止んだ。全身から血を流し、動かなくなった敵を冷静に見下ろし、背を向けた。負傷した仲間を伴って、魔獣はゆっくりと歩み始めた。
リグはその場で強く翼を打った。向かうべき方向に頭を振り、意識を魔素側へと傾けた。
龍の視界が変化した。大気に、いや、空間に遍く存在する魔素は均一ではない。物質同士、物質の帯る魔素同士は相互に影響を及ぼし、魔力場を複雑に歪曲させている。リグはその力場を視覚として捉えていた。
ある種の魔獣にとって「飛ぶ」とは、単に揚力を得ることではなく、この魔力場を捉えることだ。それは本能と経験に依る。若鳥が上手く飛ぶために、風の捉え方を経験から学習するように、彼らは魔力場の把握と利用の方法を経験していく。
リグが吠えた。空間が変質する。それに伴って魔力場も。リグはそれを捉えて、通常よりもはるかに速く空を駆ける。
より上位、と呼ばれる魔獣たちは自然状態の魔力場の利用にとどまらない。ある種の干渉を起こす事で、魔力場そのものを変質させ、利用する。龍語魔法と呼ばれる力の作用の一端だ。
躊躇いによるロスがあったにもかかわらず。それでもリグは間に合った。
魔獣と対峙するラースを直接見ることができた。ラースが何をしているかも。
リグは強く息を吸った。
『……まて……よ……。にが……さ、ない……』
フラフラと、ラースは爆心地から立ち上がった。今の彼を動かしたのは『感情』。気力を振り絞る、という比喩ではない。言葉通りの『感情』だった。
逃さない。仇を討つ。目の前の相手を打ち滅ぼす——。
その苛烈な感情は、かつて光となってラースの中に流れ込み、広大深淵な記憶の海に沈んだリグルヴェルダスの同様な感情に触れた。感情は時間を揺り動かし、経験を蘇らせる。ラースが意識するより前に体を動かす。それは、その刻の中で、同じ感情を抱いたリグルヴェルダスがとった行動だった。
低く、小さく、そして高振幅の唸り。
自らが生み出したものに則った変位。
魔獣が足を止め振り返る。戻ってきたのは片牙となった魔獣だ。魔獣もまた怒りの形相だった。牙を折られ、負傷し、ボスが助けに入らねばやられていたかもしれない相手。今は触れただけで倒れそうな敵が、生意気にも唸り、威嚇を続けている。魔獣は荒く鼻を鳴らした。
片牙の魔獣は気がつかなかった。ラースも自身が何をしてるのか、わからなかった。離れて待つ古傷の魔獣は何某かの変化を感じるだけだった。近づきつつあるリグだけがその現象を見届け、理解できた。
ラースの目の前。ごく狭い領域が変質した。
(——始まる!)
飛翔しながら、リグは視ていた。自分が使うものと同じ魔力場への干渉。その先に発生するものは術の進行次第。だが、壊滅的な何かである事は予測できた。このままであれば。
変化は訪れなかった。術は続いている。なのにそれ以上の効果は現れなかった。無理に変換された魔力場は急速に復元し、自然状態へと戻る。
(足りない)
リグは分析する。しかし今はそれよりも。強く吸った息に豪炎を纏わせて、ラースに迫る魔獣に放った。
グ、グゴオオオオーーーーッ!
突然の炎に全身を包まれて、魔獣が転げ回る。獣毛を焼き、肉を焦がす龍炎は容易に消えない。リグはその熱を意に介さず魔獣に喰らいついた。
「ラースっ! あぁ、ラース〜〜〜っ!!」
ようやく追いついたルージュが、ボロボロになったラースに駆け寄った。
「……ルージュ? なん、で……?」
「わたし! だって! やだよぉ! ラースぅ……」
言葉にならずに、泣きじゃくって縋りつく。ラースは抱き寄せようと腕を回そうとして、激痛に悲鳴をあげた。ルージュにのしかかるように身体を預けて膝を折る。
見た目以上にダメージは深刻だった。振動による攻撃は、より身体の内部に損傷を与えている。咳き込みながら吐血し、彼は地面に手をついた。
「……うそ……ねえ……。やだぁ……」
「だい……じょう、ぶ……。僕……」
ルージュを安心させるようにと、辛うじて絞り出した。
『ラース』
跪く頭上からの声に、彼はゆっくりと頭だけを動かす。魔獣を仕留め終わったリグが浮かんでいた。体に纏った熱と炎が、鱗の隙間から吸い込まれるように消えていく。
小さなリグの身体が、リグルヴェルダスの幻影のように大きく感じられた。感情の色が見えない瞳に堪えきれずラースは視線を逸らし、再び俯いた。
情けなかった。悔しかった。溢れそうになった涙を隠し、痛みで力の入らない拳を握りしめた。
『ラース、まだ残っているぞ』
静かな声に、ラースはただ背中を震わせる。
『ラース、もう一度だ! もう一頭いるだろ! 仇を討つんじゃあなかったのか! もう一度さっきのを——』
「やめてよ! 何怒ってるの! ラースはこんなひどい目にあっているの!」
一転厳しい口調に、ルージュが非難の声を上げる。背中を優しくさすりながら、リグを睨みつけた。
「ねえ、あなたがアイツをやっつけてよ! あなたなら簡単に倒せるんでしょ! ラースは、ラースはもう動けないよ……」
リグはただ唸った。ギリ、と牙の擦れる音が漏れた。瞼を半ば閉じ、見下ろす様はルージュに畏怖を与えた。
だから。
ルージュはその後のリグの行動が信じられなかった。




