第七話 彼の仇は、夕闇の黒太子
――時は、また数年前に遡る。
「はあ、はあ、はあ」
月の光に照らされた夜の平原を、ミハエルが必死に走っていた。
彼が背負っている虎丸は、血まみれだ。
「……降ろせ」
虎丸が背中越しにつぶやく。
「拙者を置いて……逃げろ」
「バカ! そんなことしたら浪平殿たちに申し訳が立たん!」
早く、早く、逃げねばと、走り続ける。
怪物の力を使った彼の走りは、野生の獣ですら追いつけない。
そのはずだが、追手が追いついた。
突然、目の前に現れたのは、純白の大剣士。
顔面と頭部を白兜で、巨躯を白鎧で覆い隠して、漆黒の大剣を振り上げる。
驚愕するミハエルに、白兜の大剣士は頭上の大剣を容赦無く振り下ろした。
「ぬおっ!?」
間一髪、ミハエルは虎丸を背負ったまま跳んで、大剣をかわす。
しかし着地した際に、逃げる足は止められる。
背を向けて逃げれば、すぐさま追いつかれ、斬られてしまうだろう。
虎丸を助けたいミハエルは、白兜の大剣士と対峙するしかなくなる。
何を隠そう、この白兜の大剣士こそが、ミハエルを返り討ちにした一人だった。
「おいおい、何してるんだ、ルドルフ。そんなガキ相手に仕損じやがって」
続いて、白兜の大剣士の後ろから、二人の人物が現れる。
前にいる一人は、黒い貴族服を着た少年。
後ろに控えるもう一人は、ずっと背の高い若き女騎士。
その少年の声を聞いただけで、ミハエルの心の底から激情が湧き上がった。
波のかかった短い茶髪に、透き通った白い肌。
青い瞳はつぶらで、微笑みは美しく、一見優しそうに見える。
だが、少年の瞳に映った本性は、傲慢そのものだ。
少年の側には、白衣の女騎士が凛と佇む。
短い黒髪をぴくりともさせず、美しい顔にある黒い眼を鋭くしていた。
片手に下げた細剣で、虎丸を斬った張本人である。
「お前たち、一体何者だ。この私を襲うとは?」
「貴様を憎む者だ!」
この少年と話すだけで、ミハエルは腸が煮えくり返った。
「それだけではないぞ。あんな虐殺をしておいて!」
虎丸と一緒に、この少年の元に行ってみれば、目にしたのは凄惨な光景。
「あんなこと?」
彼の怒りに、少年は笑う。
「バカが。あれは、今後の平和のためさ。そのために怪しい奴、疑わしい奴、反乱分子は根絶やしにしなくてどうする?」
「村一つを焼き尽くす必要がどこにある!?」
辺鄙な村を救うため、ミハエルと虎丸は勢いよく飛び出して行ったが、あっけなく返り討ち。
白兜の大剣士と白衣の女騎士は、今のミハエルたちより遥かに強かった。
その二人を側近に持つこの少年こそ、夕闇の大帝国の皇太子。
本名、アルフレッド・ヴォルフガング・エーデルアーベント。
通称、夕闇の黒太子。
――彼の仇だ。
「吾輩の……オレたちにしたように、また、また貴様はああー!!」
「なるほど。復讐というわけか……。愚かなことを。私がしていることは、世界のためだというのに」
「愚か!? 世界のためだと!?」
「そうとも。私が世界を支配することこそが、この世界に平和をもたらすのだ」
「黙れ!! 貴様のしていることは……」
「わかった、わかった。あとでゆっくり聞いてやる。その前に、お前には……罰を与えよう!」
アルフレッドは傲慢な笑みを浮かべ、後ろにいる女騎士に向かって言った。
「おい、ルーチェ」
「なんでしょう、アルフレッド様」
「こいつが大事に背負っている仲間を目の前でいたぶってやれ」
「……心得ました」
「貴様あああー!!!」
ミハエルは激高し――、背を向けて逃げた。
友を背負い、憎き仇に背を向け、逃げて、逃げて――。
大剣士や女騎士がどれだけ追ってこようと、黒太子がどれだけ笑われようとも、逃げて、逃げて、逃げ続けて――。
死にものぐるいで、何とか逃げ切った。
「感謝するよ、ミハエル。君は、義弟の命の恩人だ」
「いいえ、浪平殿……。虎丸が、吾輩をかばってくれたのです」
ミハエルは、顔を上げることもできない。
仇に、惨敗。
自信満々で挑んで返り討ちにされたあげく、大事な友人を失うところだった。
人になった彼は、初めて挫折というものを味わう。
「……どうしたのですか?」
これから剣の稽古だというのに、座り込んでいたミハエル。
暗い顔を上げると、執事がいつもと同じ、クールで優しい表情で立っていた。
「虎丸が心配して、玄関まで来てますよ」
「……あやつは、元気そうですね?」
ミハエルの声色には苛立ちがあって、執事は敏感に感じ取る。
「いいえ。虎丸とて落ち込みはしたそうです。お婆様とお兄様にもたっぷり叱られたとか」
「……それなのに、どうしてあやつは笑っていられるのでしょう?」
「いつまでもそうしているわけにはいかないからです。武士たるもの、人間たるもの、いつか立って、前に進まなくてはいけません。『あの女にやり返してやりたいですから』とも言っていましたよ……。ミハエル、あなたも騎士ならば、そうしなくては」
「わかっております……。わかってはいるのですが……」
ミハエルは笑うも、また顔を上げられなくなってしまう。
それを見て、執事は微笑した。
「仕方ありませんね。それでは私が執事として、あなたを元気にしてあげましょう」
「吾輩を元気に……。どうするというのですか?」
「ミハエル、虎丸と一緒に会いに行ってきなさい。あなたが恋する紅姫様に」
また旅立つ二人に、今度は浪平もついて行く。
「……かわいいな」
「兄者!」
森の中、望遠鏡で紅姫の姿を見て、つぶやいた浪平を、虎丸が叱った。
「すまぬ。ついな……」
「まったく兄者のそういうところには、ほとほと困ったものでござるな」
兄弟の側に、ミハエルは立って、同じように望遠鏡で覗いていた。
そうやって、ずっとずっと遠く離れた庭園にいる紅姫を見つめ続ける。
その時の黄昏の紅姫メラニーは、まだうら若き少女だった。
可愛い椅子に座って、相手に愛想良くしている。
丸いテーブル越しの席に座っているのは、夕闇の黒太子アルフレッド。
あれだけの虐殺をやった後で、紅姫メラニーに調子の良い笑顔を浮かべている。
彼女の笑顔は――嫌がっていた。
「浪平殿……、吾輩は決めましたぞ」
「……ああ。ミハエル、彼女をあの男から守れ。それがそなたの為すべきことだ」
帰ってきたミハエルは早速、私に求めてきた。
「魔法使い殿、吾輩をもっと強くしてくだされ!!」
彼の赤い眼は、今までよりさらに真っ赤な炎で燃えている。
「いずれ奴が手にするあの力から、彼女をお守りするためにも……、吾輩はもっと、もっと……」
「わかった……。ならば人の禁術を使って、さらなる怪物にでもなってみるか?」
「……さらなる怪物に?」
「そうだ。人の身には余る禁術でも、元から怪物のお前であれば……」
それこそが、私がお前にやってみたいことなのだ。
――その先は、地獄だった。
私と虎丸が、いくら教えても失敗するばかり。
可能性なんて、見えてこない。
しかし、彼は続けた。
彼女を守るために――。
前方から、白衣の騎士団の騎馬隊が迫りくる。
ミハエルは、馬の背にある革袋から、長弓と五本の矢を取り出した。
十人張りの弓の弦という、常人には到底引くことのできない剛弓を、ミハエルは怪物の力を以って一気に引き絞る。
「き……貴様、何をする気だ!?」
騎士の騎射というものを初めて目撃して、味方の指揮官ヤーコプが叫んだ。
虎丸もまた、和弓と五本の矢を馬上で構え、敵の中にいる隊長を一人ずつ狙う。
ミハエルと虎丸、一人で五人ずつ、二人合わせて白衣の騎士団十人の隊長を。
「ヤーコプ殿、お許しを!」
そう言って、ミハエルは、虎丸と同時に矢を放った。
矢羽に、風と騎馬の勢いを乗せて、立て続けに五連射。
白兜をぶち抜いて、白衣の騎士団の隊長十人を瞬く間に討ち倒す。
隊長をまとめて失って、白衣の騎士団の騎馬隊は混乱した。
その瞬間、ミハエルたち、黄昏の王国の騎馬隊の騎槍が激突する。
まさしくこの瞬間を、ミハエルと虎丸は狙ったのだ。
「せやああ!」
ミハエルは長剣に持ち替えて斬りまくり、白衣の騎士団の騎馬隊を突破した。
「……よし、このまま進むぞ!」
「「おおー!!」」
騎士ヤーコブは複雑な想いを表に出さず、王国の騎士たちを勢いづかせる。
黄昏の王国の騎馬隊は、敵本陣へ一気に突撃した。
夕闇の黒太子がいる敵本陣へ。
ミハエルは、今度こそ仇を討つために――。
何百ものテントが張られた敵本陣の中を、黄昏の王国の騎士たちが決死の覚悟で疾駆する。
何千という敵兵を斬りまくり、紐を括り付けた炸裂弾を振り回した。
「炸裂弾、投下ー!」
炸裂弾が投げつけられて、敵兵たちやテントを火だるまに変える。
敵本陣がこんな前線にあるのは、王国の城塞を攻める側だからだ。
「おいおい……!」
天幕の中から、帝国軍の総大将、夕闇の黒太子アルフレッドが出てくる。
「敵にここまで入られるとはな。騎士団は、一体何をしていた!?」
白兜の大剣士と白衣の女騎士を従えて、外にいた部下たちを叱りつけた。
黒い貴族服、波がかかった短い茶髪、透き通った白い肌は、昔のままだ。
青眼は鋭く、体格は長身となり、顔つきは男らしくなっている。
あの少年も、今や立派な青年に成長した。
総大将としてのその姿はまさしく傲慢で、冷酷無慈悲な暴君そのものだ。
敵にここまで入られようと余裕たっぷりで、勝利への自信は少しも揺るがない。
そんな中、敵陣営にさらなる報せが入る。
「急報! 背後から奇襲してきた敵騎兵一騎がすぐそこまで迫っています!」
虎丸だ。
「フン! たかが一騎。ルーチェ、お前が行って片付けて来い!」
「かしこまりました、アルフレッド様」
白衣の騎士団長こと、白衣の女騎士が背を向けて迎撃に向かう。
「他の奴らには目にものを見せてくれる……出でよ、夕闇の堕天使!」
アルフレッドは、天才魔導師として召喚魔法を行使する。
勢いに乗る王国の騎士たちを、上から黒い影が覆った。
敵本陣の中に突如現れたのは、神殿の巨像のようにそびえ立つ人影。
黒灰色の丸い兜を頭にかぶり、漆黒の全身には炎のような線がいくつも刻まれ、黒き大剣を真っ直ぐ突き立てていた。
そんなものが、静かに立ち上がる光景を、王国の騎士たちは目撃する。
「……堕天使だ」
「夕闇の堕天使!」
「夕闇の堕天使、出現!」
皇太子アルフレッド・ヴォルフガング・エーデルアーベントが、天才魔導師として創造した傑作。
夕闇の大帝国が誇る巨大兵器にして、周辺諸国を滅ぼしてきた破滅の厄災。
それこそが、夕闇の堕天使。
『ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオーー!!』
暗黒の巨人が咆哮を轟かせながら、圧倒的な黒き大剣を振りかざして、
「「う、うわあああああああああああああーー!?」」
黄昏の王国の騎士たちに襲いかかってきた。